第26話 最後の諫言
第26話 最後の諫言
パパン!
お立ち会い! 歴史の巨大な歯車が、いよいよその重き音を立てて回り始めます!
灰に覆われた関東の地より、京都本社を討つべく号令が下された鎌倉府。ついに、十万の軍勢が一堂に会する大出陣の儀式が執り行われるのでございます!
しかし、我らが管領・上杉憲実殿は、これが完全なる破滅への行軍であることを誰よりも正確に予見しておりました。主君の暴走を止めるため、全軍の面前という命懸けの舞台で、最後の諫言に及ぶのでございます!
まあ、当時の出陣の庭には、兵たちが空腹をごまかすために腹に巻いた藁の擦れるカサカサとした音、急造の竹鎧から放たれる青臭い匂いと、何日も風呂に入らぬ男たちのすえた汗の臭いが混ざり合い、そりゃあ呼吸をするのもためらわれるほどの息苦しさであったに違いありませんなァ!(ここで講談師はふと扇子を釈台に置き、己の左の目尻を指の腹で強く揉む)
これぞ、己の命を懸けて大局を正さんとする、東国武士の壮絶なる覚悟!
さあさあ、不折の管領、波乱の第二十六席でございます!
*
深夜の関東管領邸・執務室。
冷え切った硯の匂いが漂う中、上杉憲実は死んだ魚のような目で机の上の算木を見つめていた。何度弾き直しても、はじき出されるのは「全滅」という二文字の物理演算データのみである。
「憲実様」
背後の襖がギイと音を立てて開き、長尾景仲が足音もなく現れた。その手には、分厚い和紙の束が握られている。
「夜明けと共に執り行われる、出陣の儀式の進行式次第です。予算が完全に枯渇している状態での出立となりますゆえ、士気を最大化させるため、公方様には『大義』や『源氏の血脈』といった精神論を多用していただきます。管領殿は、その隣で平伏し、絶対的な支持の姿勢を示してください」
ドン、と。
景仲が机の上に置いた式次第の束の横で、憲実は直垂の懐に忍ばせた麻の紙の「出家願」がカサリと擦れる音を聞いた。
「……景仲。外に集まっている兵たちを見たか。まともな武器を持っている者は三割に満たない。あとは竹を削った槍や、錆びた鉈だ。兵糧に至っては、各人に配られた干し飯はわずか二日分。……こんな状態で箱根の灰の山を登れば、十日で全軍が餓死と凍死で消滅するぞ」
「ええ、計算通りです」
景仲の目は、一切の光を反射しない。
「しかし、公方様が『出陣』と決定された以上、組織は物理的に動かねばなりません。餓死者が出れば、途中の村から略奪し、それでも足りなければ死んだ者の肉を食わせてでも前進させる。それがシステムを維持するということです」
「……」
「あなたが坊主になろうが、その頭に管領の帽子を被せて、餓死の行軍を先導させるだけです。さあ、夜が明けます。出陣の装束にお着替えを。……逃げることは許されません」
逃げたい超有能と、逃がさない現実の悪魔。
憲実は小さく息を吐き、左の目尻を指の腹で血が滲むほど強く揉み込んだ。
夜明けの鎌倉。出陣の庭。
かがり火がバチバチと爆ぜる中、広大な敷地に十万の兵がひしめき合っている。しかし、そこにあるのは勇壮な軍気ではなく、極度の飢えと疲労、そして火山灰の混じった黒い粉塵の悪臭だった。
上座の壇上に、鎌倉公方・足利持氏が姿を現す。
ギラギラと不必要に磨き上げられた大刀の鞘をカチャカチャと鳴らしながら、持氏は床板を激しく踏み鳴らした。
「見よ、この威容を! 関東十万の精鋭よ! 天は富士の灰をもって、我らに試練を与えた! だが、我ら源氏の血を引く者は、いかなる苦難も恐れぬ! 京都の偽将軍を討ち果たし、天下を我が手中に収めるのだ!」
持氏の口から放たれる実体のない抽象概念の羅列。
一色直兼をはじめとする側近たちが「おおおっ!」と無意味に軍扇を振り下ろし、それに呼応して兵たちが力なく声を上げる。しかし、その声は空腹によりひどく掠れていた。
憲実は、壇上の下座に平伏したまま、自身の胃の腑が雑巾のように捻り上げられるのを感じていた。
このまま行進が始まれば、ここにいる十万の労働インフラは完全に物理的死を迎える。
(……やるしかないのか。この、生存確率ゼロの泥舟の中で)
憲実は、膝の上で関節が真っ白になるほど強く拳を握りしめ、冷たい板の間からゆっくりと上体を起こした。
「……公方様。恐れながら申し上げます」
声の起伏を完全に殺した、冷徹なビジネス敬語。
そのボソボソとした低い音声は、しかし、熱狂に包まれていた出陣の庭を氷のように凍りつかせた。
「管領。……何用か。今は出陣の門出であるぞ」
持氏が、不快げに眉をひそめる。
全社員(十万の兵)の視線が、ナンバー2である憲実に集中する。憲実は、視線を自身の前の畳の目に固定したまま、冷徹な数字のロジックを展開した。
「現在の軍の兵糧備蓄率は、京都到達に必要な総カロリーのわずか五パーセントに過ぎません。また、全軍の七割が正規の防具を装備しておらず、箱根の灰の堆積を考慮した行軍シミュレーションによれば、駿河を越える前に五万が餓死、三万が逃散いたします」
静まり返る庭に、憲実の提示する唯物論的な数字だけが響き渡る。
「今すぐ軍を解散し、兵を農地での復旧作業に戻さねば、来年の関東の米の収穫量はゼロとなり、鎌倉府の生産インフラは完全に消滅いたします。……出陣の撤回を、具申いたします」
完全なる直訴。
それは、トップの意思決定に対する、公の場での明確な反逆であった。
チャキ。
持氏が、大刀の鯉口を抜く冷たい金属音が鳴った。
「……憲実。貴様、全軍の前で、余の顔に泥を塗る気か」
持氏の足元で、かがり火の火の粉が怒りに呼応するように爆ぜる。
「兵糧が足りぬだと? 餓死するだと? そのような泥にまみれた計算しかできぬから、貴様はいつまで経っても武門の頂に立てぬのだ! 余が語っているのは天下の覇業である! 天命を受けた軍勢は、飯など食わずとも気合いで進むのだ!」
またしても、絶対的なピントのズレ。
数字と物質のロジックは、精神論という強固なファンタジーの前では、いかなる効力も持たない。
持氏がゆっくりと大刀を抜き放つ。冷たい刃が、憲実の首筋に向けられた。
ここで大声で論理の正当性を弁明すれば、直ちに頸動脈が切断される。生存確率は、今この瞬間に完全にゼロに収束した。
憲実は、首筋を伝う冷や汗の感覚を無視し、極限まで呼吸を浅くして、再び冷たい板の間に深く額を擦り付けた。
「……御意にございます。当方の計算違いにございました」
ドォン、ドォン、ドォン……!
憲実の寸止めの降伏を合図にするかのように、長尾景仲の指示によって無機質な出陣の陣太鼓が打ち鳴らされる。
破滅へ向かう十万の行進が、物理的に開始された。
憲実は、灰の舞う板の間に平伏したまま、ただ冷たい木の手触りだけを感じていた。
*
パパン!
「おお、なんたる悲壮なる忠誠! 己の身の危険を顧みず、主君の御身と国の行く末を案じて発せられた最後の諫言!
管領・憲実の放ったその言葉は、全軍の胸を打ち、東国武士の鑑として長く語り継がれることになりましょう! しかし、天命に突き動かされる主君の意志は固く、ついに巨大なる軍勢は動き出したのでございます!
そして、諫言空しく出陣が決まるや、一切の感情を交えず、ただただ兵站の不足を誤魔化す書類を整え続けた長尾景仲! 後世において『忠臣』と讃えられるこの男の、末端の兵をすり潰してでも組織を回すその手腕、まさに歴史の裏側を支える見事な歯車にございますなァ!
さあ、ついに動いた十万の軍勢! 破滅か、それとも栄光か! 見事なる忠臣の知略がいかに歴史を動かすのか、次回を乞うご期待!」




