第25話 期待値の計算
第25話 期待値の計算
パパン!
お立ち会い! 武将の真価が問われるのは、刀を交える戦場ばかりではございません。天下の形勢を見極め、己の命と誇りをどこへ懸けるかを決断する、その孤独なる静寂の時こそが、最も過酷な戦いなのでございます!
三浦時高殿より持ちかけられた、京都への寝返りという甘く危険な誘い。我らが若き管領・上杉憲実殿は、忠義と滅びの間で深く深く思い悩み、三日三晩、座敷に籠りきりで算木を弾き続けたのでございます!
まあ、当時の座敷には、憲実殿の極度のストレスから滲み出た酸っぱい脂汗の臭いと、冷え切った硯の匂いが重く立ち込め、そりゃあ呼吸をするのも苦しいほどの緊迫感であったに違いありませんなァ!(ここで講談師はふと扇子を釈台に置き、己の左の目尻を指の腹で強く揉む)
これぞ、関東の命運を背負う、重き忠臣の苦悩!
さあさあ、不折の管領、波乱の第二十五席でございます!
*
パチッ……パチッ……。
深夜の関東管領邸・奥座敷。
上杉憲実は、三浦時高との密会以来、公務の合間を縫ってはこの部屋に引き籠り、狂ったように木製の算木を動かし続けていた。
(……もし、俺がこのまま鎌倉府のCFOとして、足利持氏に付き従った場合)
カチャ。
算木が一つ、盤の左側へ置かれる。
(現在の軍資金の残高、兵糧の備蓄率、そして富士の火山灰によるロジスティクスの崩壊度合い。これらを京都本社(幕府)の圧倒的な物量と掛け合わせれば……)
憲実の脳内で、血も涙もない「物理演算」が実行される。
三十日以内に箱根の防衛線が突破される確率、九十九パーセント。
六十日以内に鎌倉が陥落し、持氏および管領である自分が物理的に首を刎ねられる確率、九十九・九パーセント。
「……生存確率、ゼロ」
憲実は、感情の抜け落ちた声で呟いた。
忠義、誇り、大義。持氏や一色直兼が喚き散らすそれらのファンタジーを、現実の数字が完全に叩き潰した瞬間だった。
この泥舟に最後まで付き合えば、確実に死ぬ。それも、無駄な残業と搾取で領民を巻き添えにした上で、最も惨めな形で。
(……ならば、三浦の誘いに乗り、今すぐ京都へ寝返った場合はどうだ)
カチャリ。
算木が一つ、盤の右側へ移動する。
(俺が金庫を凍結すれば、鎌倉府の軍事行動は三日で停止する。持氏は自滅し、俺の物理的な生存確率は飛躍的に跳ね上がる)
しかし、と憲実は左の目尻を指の腹で強く揉み込んだ。
もし今、自分が裏切れば、持氏は激怒し、管領派の武将たちや、何も知らない現場の兵たちを「見せしめ」として次々と粛清するだろう。さらに、指揮系統を失った軍勢が暴徒化し、関東は焼け野原となる。
「……結局、俺がどちらを選ぼうが、末端の人間は死ぬのだな」
計算結果の絶望的な解を前に、憲実の胃の腑がギリリと捻り上げられる。
「憲実様」
襖がギイと音を立てて開き、長尾景仲が足音もなく現れた。
その手には、いつものように次々と決済を待つ書類の束が握られている。
「計算は、終わりましたか」
「……ああ。持氏様に付き従う生存確率は、完全にゼロだ。この会社は、間違いなく潰れる」
憲実の死んだ魚のような目を見ても、景仲は微塵も表情を変えない。
「左様でございますか。では、潰れるその日まで、一日でも長くシステムを回し続けるのが我々の職分です」
ドン、と。
景仲が机の上に置いたのは、青銅製の重い「印章」だった。
「十万の軍勢を動かすための、武蔵・相模の農民からの『強制食糧供出令』。並びに、反対する国人衆への弾圧を許可する御教書です」
「……景仲。俺たちは、死ぬと分かっている泥舟のために、領民をすり潰し続けるのか」
「はい。あなたが京都へ寝返る決断を保留し、管領の座に留まる以上、この決裁を止めることは許されません。あなたが坊主になろうが、その頭に管領の帽子を被せて、狂った命令書にハンコを押し続けさせるだけです。明日の朝までに決裁を。……拒否権はありません」
逃げたい超有能と、絶対に逃がさない現実の悪魔。
憲実は、直垂の懐にある麻の紙の「出家願」がカサリと擦れる音を聞きながら、震える手を硯へと伸ばした。
ガリ、ガリ、ガリ。
ガツン、ガツン。
生存確率ゼロの未来へ向かって、自らの手で破滅の書類にサインをしていく。深夜の鎌倉府に、かすれた墨の音と、絶望の決裁書類にハンコを叩きつける鈍い音だけが、虚しく響き続けた。
*
パパン!
「おお、なんたる苦悩! なんたる重圧! 主君の破滅を予見しながらも、今すぐに見捨てることはできず、その身を削って忠義と現実の狭間を彷徨う管領・憲実!
これぞ、己の命よりも関東の安寧を第一に考える、真の忠臣の姿でございます! ……まあ、その悩める管領殿の横で、情け容赦なく農民から食糧を奪う書類にハンコを強要する長尾景仲の冷血ぶり、味方に回せばこれほど頼もしく、敵に回せばこれほど恐ろしき男はおりませんなァ!
さあ、破滅の足音が迫る中、決断を迫られる若き管領! 見事なる忠臣の知略がいかに歴史を動かすのか、次回を乞うご期待!」




