第27話 辞表(寝返り)の提出
第27話 辞表(寝返り)の提出
パパン!
お立ち会い! 武将の真の覚悟とは、ただ主君に付き従うことのみにあらず。時には泥を被り、大局のために最も苦しき決断を下すことこそが、歴史を動かす鍵となるのでございます!
灰の海と化した箱根越え。飢えと寒さで次々と兵が倒れゆく地獄の行軍の中、我らが管領・上杉憲実殿は、関東十万の命を救うため、ついに身を切るような非情の決断を下しました!
自らの直属部隊のみを率いて、本軍から離脱。それは、主君を裏切り京都本社へと寝返るという、武士として最も恥ずべき行為!
……まあ、当時の憲実殿の軍幕の中には、凍死した兵たちの青白い遺体が放つ死臭と、冷え切った硯に擦られる墨の重い匂いが充満し、そりゃあ胃の腑が裏返るような惨状であったに違いありませんなァ!(ここで講談師はふと扇子を釈台に置き、己の左の目尻を指の腹で強く揉む)
これぞ、己の汚名を背負って国を救う、東国武士の真の忠義!
さあさあ、不折の管領、波乱の第二十七席でございます!
*
ヒュルルル……。
箱根の山中に、凍てつくような寒風が吹き荒れる。
足柄峠の中腹に張られた関東管領の軍幕の中で、上杉憲実は死んだ魚のような目で、目の前に積まれた「本日の損耗報告」の木簡を見つめていた。軍幕を揺らす風の音に混じり、外からは空腹に耐えかねて呻く兵たちの低い声が、途切れることなく聞こえてくる。
「……本日だけで、さらに五百名が物理的活動を停止いたしました」
背後の襖代わりの布が開き、長尾景仲が足音もなく現れた。その顔には、相変わらず一切の感情が帯びていない。
出陣からわずか五日。憲実の冷徹な物理演算が弾き出した通り、十万の軍勢はろくな兵糧も防寒具もないまま箱根の灰の山に突入し、凄まじい勢いで自壊を始めていた。先陣を進む足利持氏と一色直兼は「源氏の威光で灰を退けよ」と号令をかけているが、威光で体温は上がらないし、カロリーも生み出せない。
「憲実様」
景仲が、懐から新たな和紙の束を取り出し、机の上にドンと広げた。
「本軍の兵糧が完全に底を突きました。行軍のシステムを維持するため、近隣の村落……すなわち、火山灰の被害から辛うじて生き延びている相模の領民たちから、強制的に冬営用の食糧と種籾を徴発する許可書です」
ドン、と。
景仲が白紙の上に置いたのは、いつもの青銅製の重い「印章」だった。
「明朝までに決裁を。……拒否権はありません」
憲実は、ハンコを見つめたまま、膝の上で関節が真っ白になるほど強く拳を握りしめた。
これを押せば、鎌倉府の軍勢は数日延命するだろう。しかし、種籾を奪われた領民たちは確実に凍死し、来年以降の関東の生産インフラは完全に崩壊する。
「……景仲。俺たちは、システムを数日延命させるために、システムを支える土台そのものを物理的に破壊しようとしているのだぞ。このまま進めば、関東の労働リソースは死滅する」
「はい。ですが、公方様が『京都進軍』というプロジェクトを稼働させている以上、我々はその歯車として、末端をすり潰してでもリソースを捻出するしかありません。それが組織です。……さあ、墨をお擦りください」
逃げたい超有能と、逃がさない現実の悪魔。
憲実は、極限まで浅くした呼吸で、冷たい板の間に視線を落とした。
もう、限界だった。
「……わかった。置いておけ。夜明けまでに押しておく」
憲実のボソボソとした返答を聞き届け、景仲は無言で一礼し、軍幕を出て行った。
静寂が戻った軍幕の中。
憲実はハンコには触れず、直垂の懐に深く手を入れた。
そこには、長年忍ばせ続けてきた麻の紙がある。カサリ、と乾いた音が鳴った。「出家願」——すなわち、辞表である。
(会社(鎌倉府)のトップが完全に狂い、リカバリーが不可能な状態に陥った。これ以上付き合えば、関東全域が共倒れになる。生存確率ゼロの泥舟からは、降りるしかない)
憲実は、左の目尻を指の腹で血が滲むほど強く揉み込んだ。
そして、軍幕の外に控えていた直属の部将、長尾忠政を密かに呼び入れた。忠政は火山灰にまみれ、寒さで小刻みに震えている。
「……忠政。極秘の命を下す」
「はっ。何なりと」
「我が直属の山内上杉軍一万に、夜営の準備を解かせろ。これより我々は、本軍の進軍ルートから外れ、上野国
へ撤退する。松明は点けるな。足音を殺し、持氏様の本軍から完全に離脱するのだ」
忠政は、息を呑んで顔を激しく上げた。
「か、管領殿!? それは、公方様を見捨てるということに……なにより、我々が補給線を放棄すれば本陣は孤立し、京都の討伐軍の餌食となります! そのような裏切り、武門の面目に関わりますぞ!」
「面目では体温は保てぬ」
憲実の声には、一切の起伏がない。徹底した唯物論的な数字のロジックが、忠政の精神論を冷徹に叩き潰す。
「生存確率ゼロの炎上プロジェクトに、これ以上自社の社員(兵)を付き合わせるわけにはいかない。トップの暴走の責任は、トップ自身に取らせる。俺が離脱して補給を断てば、持氏の軍は三日で物理的に立ち往生し、無駄な戦闘を避けて自滅する。そうすれば、関東の被害は最小限で済むのだ」
明確な、寝返りの宣言。
忠政の顔が蒼白になる。武士として、主君を見捨てて寝返ることは、末代までの恥、永遠の汚名である。しかし、憲実の死んだ魚のような目は、すでに全ての計算を終えていた。
「……汚名で飯が食えるか。俺は、俺自身の生存コストと、残された領民の生産インフラを守る。行け。一時間後に軍を動かす」
「……御意にございます」
忠政が震える声で答え、雪崩を打つように幕を出て行く。
再び一人になった憲実は、冷え切った硯に、ゆっくりと墨を擦り始めた。
ガリ、ガリ、ガリ。
宛先は、京都の監査役・満済。内容は、足利持氏を見限り、幕府軍に合流するという密書である。
ガツン。
書き終えた密書に、管領としての印章を叩きつける。
(これで、俺は永遠に『裏切り者』だ。……だが、それでいい。しきたりや名誉なんて、最初からどうでもよかったのだ)
自らの社会的信用を完全に焼き捨て、ただ関東の実務インフラを残すための、冷徹なる事務処理。
憲実は、暗闇の中で自らの荷物をまとめ始めた。
しかし、その完璧な逃亡計画の裏で、組織のシステムを掌握するあの男の無機質な視線が、すでに彼の手元を正確に捉えていたことに、憲実はまだ気づいていなかった。
*
パパン!
「おお、なんたる悲劇! なんたる決断! 主君への忠義と、万民の命。その二つの重き天秤にかけられ、涙を呑んで汚名を被る道を選んだ管領・憲実!
裏切り者と謗られようとも、これ以上の無益な血が流れるのを防ぐため、己の軍勢を密かに反転させる準備を進めるその横顔には、血を吐くような苦悩が滲んでおりました!
……しかし、歴史の裏側で一切の感情を交えず、ただただ冷徹に兵站の計算を続けるあの長尾景仲が、この巨大な謀を見逃すはずがございません! 味方に回せばこれほど頼もしく、敵に回せばこれほど恐ろしき男はおりませんなァ!
さあ、管領の決死の寝返り工作! 孤立無援となる本軍の運命は! 見事なる忠臣の知略がいかに歴史を動かすのか、次回を乞うご期待!」




