第23話 論理の完全敗北
第23話 論理の完全敗北
パパン!
お立ち会い! 天下の命運を決するは、刃の交わりのみにあらず。将たる者たちが膝を突き合わせ、言葉の限りを尽くして大局を論ずる「評定」。これぞ歴史の大きな転換点にございます!
京都への進軍を決意された公方様を前に、我らが管領・上杉憲実殿は、関東の安泰を願うがゆえに、あえて進軍の困難を説き伏せようと立ち上がります! これに真っ向からぶつかるは、武門の誉れ高き猛将・一色直兼!
まあ、当時の評定の間には、熱り立つ武将たちの吐き出す血生臭い息と、憲実殿が握りしめた算木から滲み出る脂汗の臭いが充満し、そりゃあ息を吸うだけで肺の腑が焼け焦げるような空間であったに違いありませんなァ!(ここで講談師はふと扇子を釈台に置き、己の左の目尻を指の腹で強く揉む)
これぞ、国を想う忠臣たちの熱き言論の激突!
さあさあ、不折の管領、波乱の第二十三席でございます!
*
バサッ、バサッ。
評定の間に、一色直兼が打ち鳴らす軍扇の音が響く。
「公方様の御出陣! これに勝る吉報はありませぬ! 我ら関東の精鋭十万が京へ攻め上れば、くじ引き将軍など恐れをなして逃げ散りましょうぞ!」
上杉憲実は、冷たい板の間に正座したまま、眼前に広げた絵図面と算木から視線を上げずに口を開いた。
「……一色殿。現在、箱根から駿河にかけての主要街道は、先の富士の灰により道幅が完全に七割減となっております。十万の軍勢が一列で進軍した場合、最後尾が鎌倉を出発する頃には、先頭はすでに飢餓で全滅しています」
憲実の声には一切の起伏がない。ただ、物理的な計算結果を音声として出力しているだけだ。
「さらに、十万の兵を三十日動かすための兵糧米は、最低でも六万石。現在の金庫の中身を全て米に換算しても、わずか三日分しかありませぬ。灰に埋もれた農地からの現地調達は不可能。……進軍は、論理的に破綻しております」
完璧なロジックである。
しかし、一色の顔は怒りで真っ赤に染まり、軍扇を憲実の鼻先へ突きつけた。
「管領殿! 貴殿は武士の意地というものがないのか! 兵糧が足りねば、草の根を食んででも進むのが源氏の兵ぞ! 道が狭ければ、気合いで山を切り開けばよい!」
「気合いでカロリーは生み出せませぬ。また、山を切り開くための土木作業には、さらなる兵糧の消費が……」
「ええい、黙れ!」
上座から、鎌倉公方・足利持氏の怒声が飛んだ。カチャリと、大刀の鯉口が切られる金属音が鳴る。
「一色の申す通りである! 管領はいつも数字、数字と、商人のような口ぶりばかり。天下を統べるは算盤ではなく、この刃と武門の威光である! 弱音を吐く者は、この余が自ら手討ちにしてくれるわ!」
憲実の脳内で、最後に残っていた細い論理の糸が、プツリと物理的な音を立てて千切れた。
これ以上数字を提示すれば、首が胴体から離れる。論理が精神論に完全敗北した瞬間だった。
憲実は、極限まで浅くした呼吸のまま、深く額を板の間に擦り付けた。
「……御意にございます。当方の計算違いにございました。直ちに、十万の軍事動員を下知いたします」
深夜の関東管領邸・執務室。
冷え切った硯の匂いが漂う中、憲実が痙攣する左の目尻を指の腹で強く揉み込んでいると、長尾景仲が足音もなく姿を現した。
その手には、次々とクシャクシャになった紙の束が握られている。紙が擦れる乾いた音がした。
「憲実様」
景仲は、無表情のまま机の上に和紙を積み上げる。
「十万の動員に伴う、関東全域への強制徴兵の触れ書き。並びに、寺社仏閣から銅鐘や仏具を没収し、武器に鋳造し直すための命令書です」
ドン、と。
青銅製の重い「印章」が、木製の天板を軋ませる。
「……景仲」
憲実は、直垂の懐にある「出家願」の麻の紙がカサリと鳴るのを感じながら、死んだ魚のような目で景仲を見上げた。
「俺は今日、計算式ではなく、気合いで飯が食えるという狂人の妄言に負けた。このまま進めば、関東の人間は全員灰の中で餓死する。俺はもう、こんな泥舟の帳尻合わせは降りる」
「いいえ、降りられません。狂人の妄言を『正式な軍令』としてシステムに組み込み、末端を物理的にすり潰して十万の兵を捻り出すのが我々の職分です」
景仲の目は、氷のように冷たかった。
「あなたが坊主になろうが、その頭に管領の帽子を被せて、領民から根こそぎ命を奪う書類にサインさせるだけです。明日の朝までに決裁を。……拒否権はありません」
逃げたい超有能と、逃がさない現実の悪魔。
憲実は小さく息を吐き、冷え切った硯に墨を擦り始めた。
ガリ、ガリ、ガリ。
ガツン、ガツン。
論理が死に絶え、狂気が支配する組織。深夜の鎌倉府に、かすれた墨の音と、破滅へ向かうための決裁書類にハンコを叩きつける鈍い音だけが、虚しく響き続けた。
*
パパン!
「おお、なんたる熱き軍議! 計算や理屈を越えた武士の魂の叫びが、ついに管領・憲実の心を動かしたのでございます!
主君の大いなる決意を受け入れ、不可能を可能にするために再び筆を執るその姿、これぞまさに忠臣の鑑! そして、その激務を裏で支え、寺社から仏具を徴収してでも武具を整えようとする長尾景仲の神がかり的なる実務能力!
……まあ、仏様を溶かして槍に変えるという罰当たりな算段を、顔色一つ変えずに整えるその冷血ぶり、味方に回せばこれほど頼もしく、敵に回せばこれほど恐ろしき男はおりませんなァ!
さあ、武門の意地を懸けた十万の大号令! 果たして鎌倉府は、この灰の海を越えて天下に覇を唱えることができるのか! 見事なる忠臣の知略がいかに歴史を動かすのか、次回を乞うご期待!」




