第20話 すり減る筆と命
第20話 すり減る筆と命
パパン!
お立ち会い! 組織という巨大な城を支えているのは、決して華やかな武功だけではございません。表舞台には立たずとも、己の命を削って数字と向き合い、組織の血流を守り抜く者たちがいるのでございます。
鎌倉府の金庫番、青木勘解由! この忠義なる男が、度重なる激務の末に、ついに病に倒れてしまいました!
しかし、京都本社への税の交渉は待ってはくれません。我らが管領・上杉憲実は、倒れた部下の魂を引き継ぐかのように、自ら筆を執り、決死の覚悟で京都へ宛てた嘆願の書状を書き上げるのでございます!
まあ、当時の執務室には、青木殿が吐き出した血の生臭さと、憲実殿が徹夜で擦り続けた粗悪な膠の混じった墨の臭いが充満し、そりゃあ地獄の窯の底のような息苦しさであったに違いありませんなァ!(ここで講談師はふと扇子を釈台に置き、己の左の目尻を指の腹で強く揉む)
これぞ、己の身を挺して組織を回す、熱き名もなき武士たちの絆!
さあさあ、不折の管領、波乱の第二十席でございます!
*
「ゲホッ……! ゴホッ、ゴホッ!」
深夜の関東管領邸・執務室。
激しい咳込みと共に、金庫番の青木勘解由の口から赤黒い血が飛び散り、計算途中の帳簿を汚した。
上杉憲実は、冷たい板の間に正座したまま、その惨状を感情の抜け落ちた目で見つめていた。
「管領殿……申し訳、ございませぬ。京都への……分割払いの……交渉書類が、まだ……」
青木は、震える手で血まみれの筆を拾おうとしたが、その身体はもはや物理的な限界を超えていた。力なく横に倒れ込み、畳の上でヒュー、ヒューと微かな呼吸を繰り返す。
先日、憲実が私財を投じてストライキを鎮圧したことで、鎌倉府の資金ショートは一時的に回避された。しかし、それはあくまで「現場の暴動」を防いだに過ぎない。京都本社へ納めるべき本来の税の支払いは、完全に滞ったままである。
(……このまま今月の支払いを飛ばせば、京都の監査役・満済は確実に『鎌倉の統治不全』を理由に討伐軍を寄越す)
憲実は、膝の上で握りしめた拳の関節が白くなるのを直垂の袖で隠した。
青木が命を削って作成していたのは、「天候不順による不作」という虚偽の理由を並べ立て、税の支払いを来季まで先延ばしにするための、緻密で長大な言い訳の書類だった。
「……誰かある。青木を別室へ運べ。医者を呼べ」
憲実のボソボソとした指示で、警備の者たちが青木を運び出していく。
床に残されたのは、血で汚れ、途中までしか書かれていない和紙と、極限まですり減った一本の筆だけだった。
憲実がその血まみれの筆に手を伸ばそうとした時、襖がギイと音を立てて開いた。長尾景仲が、足音もなく冷たい夜風と共に入ってくる。
「憲実様」
景仲は、床の血痕を冷徹な目で一瞥しただけで、懐から真新しい白紙の束を取り出し、机の上にドンと置いた。
「青木殿が倒れた穴は、即座に埋めねばなりません。明日の早馬までに京都への嘆願書を完成させなければ、全てが破綻します」
「……わかっている」
「青木殿の遺した計算式は、私が引き継ぎます。管領殿は、満済殿の感情を逆撫でせぬよう、最大限に卑屈な『泣き落とし』の文章を起案してください」
ドン、と。
景仲が白紙の上に置いた青銅製の重い「印章」が、憲実の理性を物理的に叩き潰す。
「部下が血を吐いて倒れた夜に、その血を拭うこともせず、代わりに嘘の書類を書けと言うのか」
「はい。血を吐いた者の努力を無にしないためにも、システムを停止させてはならないのです。あなたが坊主になろうが、その頭に管領の帽子を被せて、徹夜で作文を書かせ続けるだけです。……拒否権はありません。さあ、夜が明けます。墨をお擦りください」
逃げたい超有能と、絶対に逃がさない現実の悪魔。
憲実は、直垂の懐にある「出家願」がカサリと鳴るのを感じながら、青木が残したすり減った筆を拾い上げた。
そして、左の目尻を指の腹で血が滲むほど強く揉み込むと、冷え切った硯に墨を擦り始めた。
ガリ、ガリ、ガリ。
ガツン、ガツン。
血の匂いが漂う密室で、かすれた墨の音と、生き延びるためだけの卑屈な嘘を書き連ねる筆の音、そしてハンコを叩きつける音だけが、深夜の鎌倉府に虚しく響き続けた。
部下の命という名の部品をすり潰しながら、システムは今日も止まることなく回り続ける。
*
パパン!
「おお、なんたる執念! なんたる責任感! 倒れた部下の想いをその手に宿し、己の身を削ってまで京都への嘆願書を書き上げた管領・憲実!
これぞ、上に立つ者の鏡! 部下への深き慈愛と、組織を守り抜くという強靭なる意志が、その筆先には宿っていたのでございます!
……まあ、その実態は、冷酷なる忠臣・長尾景仲にハンコを突きつけられ、血の匂いの中でひたすらに卑屈な言い訳をでっち上げるという、涙も枯れ果てるようなデスワークであったなど、歴史の美しき絵巻には残らぬ些末なことにございますなァ!
さあ、薄氷を踏むがごとき京都との折衝! 果たして、この血染めの嘆願書は京都の監査役の心を動かすことができるのか! 見事なる忠臣の知略がいかに歴史を動かすのか、次回を乞うご期待!」




