第15話 擦り切れた直垂
第15話 擦り切れた直垂
パパン!
お立ち会い! 戦に勝つには刃の鋭さのみならず、その威風堂々たる姿もまた不可欠でございます。
京都本社の密偵が鎌倉に潜入したとの報を受け、公方様は東国武士の威信を見せつけるべく、輝く甲冑をまとった大軍勢の閲兵式を急遽、挙行なされました!
その陣頭に立つは、我らが若き管領・上杉憲実! 塵一つない美しき直垂と煌めく具足に身を包んだその姿は、まさに忠義と武の象徴! ……まあ、当時の憲実殿の襟元は、幾日にも及ぶ徹夜の実務による脂汗ですり切れ、そりゃあ酷い大豆のような酸っぱい臭いがしていたに違いありませんなァ!(ここで講談師はふと扇子を釈台に置き、己の左の目尻を指の腹で強く揉む)
これぞ、身を粉にして主君を飾る東国武士の誉れ!
さあさあ、不折の管領、波乱の第十五席でございます!
*
ザラリ、と。
首を動かすたびに、極限まですり切れて毛羽立った絹の繊維が、首筋の皮膚をヤスリのように削っていく。
深夜の関東管領邸・執務室。上杉憲実は、自身の体から立ち上る、発酵した大豆のような強烈な酸っぱい臭いに鼻を歪めながら、机上の算木を弾いていた。
「京都から下向した間者どもが、城下の茶屋に潜伏しておるらしい。奴らに我が鎌倉府の圧倒的な武威を見せつけるのだ」
半刻前、足利持氏が不必要に磨き上げられた大刀の鞘をカチャカチャと鳴らしながら下した命令である。
「明日の昼、武蔵へ向かう新城築城部隊の閲兵を行う。全軍に新品の具足を着せ、太陽の光で目潰しになるほど磨き上げよ! 憲実、お前も管領として最も見栄えのする甲冑と直垂で臨むのだぞ!」
見栄え。威信。
上司が上機嫌で吐き出すその単語は、憲実の冷徹な脳内で即座に「鉄錆を落とすための油の購入費」と「具足を借り受ける商人へのリース料」という、絶望的な数字の羅列に変換されていた。
現在、憲実は新城築城のための莫大な書類処理と、各地の国人衆からのクレーム対応に追われ、すでに五日間、自邸の風呂にすら入っていない。肌着は冷や汗と脂で皮膚にべったりと張り付き、直垂の襟は限界まで擦り切れて、物理的に肉を傷つけて血を滲ませている。
「管領殿……。油の相場が、先月の二倍に跳ね上がっております」
向かいに座る金庫番の青木勘解由が、すり減った筆を持ったまま、泣きそうな声で帳簿を指差した。
「一万の軍勢に新品の具足など、用意できるはずがありませぬ。どうひっくり返しても、金庫の銭は底をついております」
「わかっている」
憲実は、擦り切れた襟が首に食い込む痛みを無視し、木製の算木を弾き直した。
本物の具足一領を揃えるには銭五貫。しかし、竹を編んで黒漆を塗った「ダミー」ならば三百文で済む。
「……最前列の五十人だけ、質草から流れた中古の具足を油で磨いて着せろ。後ろの連中は、竹を編んで黒漆を塗ったダミーの鎧でいい。京都の密偵は遠目からしか見ない。それで『輝く大軍勢』の視覚データは成立する」
冷え切った硯に擦った墨で、憲実は次々と手配書を書き殴る。
そこへ、襖がギイと音を立てて開き、山内上杉家家宰・長尾景仲が足音もなく現れた。その手には、いつものようにクシャクシャになった紙の束が握られている。紙の擦れる乾いた音が、憲実の鼓膜を不快に叩く。
「憲実様」
景仲は、憲実の放つ大豆のような異臭にも、首筋に滲む血の筋にも、微塵も表情を変えない。
「具足のリース代、および、竹鎧を急造させた職人への口止め料の決裁書、計百通です」
ドン、と。
青銅製の重い「印章」が、木製の天板を軋ませる。
「景仲……」
憲実は、直垂の懐に忍ばせた麻の紙「出家願」がカサリと鳴るのを感じながら、死んだ魚のような目で景仲を見上げた。
「俺はもう五日、水浴びすらしていない。直垂は擦り切れ、首から血が出ている。この悪臭を放つ状態で、明日の閲兵式に出ろと言うのか」
「ええ。京都の密偵は、遠く離れた茶屋から陣頭のシルエットを見るだけです。あなたの臭いなど届きませんし、首の血は甲冑の襟で隠せます」
景仲の目は、氷のように冷たく、ただシステムを維持することだけを見据えている。
「あなたが坊主になろうが、悪臭を放つ死体になろうが、その肉体に管領の具足を縛り付けて馬に乗せるだけです。明日の朝までに、全ての支払いにハンコを。……拒否権はありません」
逃げたい超有能と、絶対に逃がさない現実の悪魔。
憲実は小さく息を吐き、左の目尻を指の腹で強く揉み込んだ。
死んだら終わりだ。今は、ただ頭を下げて、この無意味な虚飾のパレードの辻褄を合わせるしかない。
「……御意にございます」
ガリ、ガリ、ガリ。
ガツン、ガツン。
酸っぱい臭いが充満する密室で、かすれた墨の音と、見栄を張るための嘘の決裁書類にハンコを叩きつける音だけが、深夜の鎌倉府に虚しく響き続けた。
翌日の閲兵式。
太陽の光を反射する「竹製のハリボテ鎧」を満足げに見下ろす持氏の横で、憲実は擦り切れた襟の激痛と自身の放つ悪臭に耐えながら、ただ早くこの無駄な儀式が終わることだけを祈り、馬上で呼吸を深く押し殺していた。
*
パパン!
「おお、なんたる威風堂々たる姿! 太陽の光を浴びて黄金に輝く大軍勢と、一切の隙も見せぬ完璧なる若き管領・憲実!
その一点の曇りもない美しき出で立ちに、京都から潜入した密偵どもは恐れおののき、鎌倉府の強大さを思い知らされたのでございます!
これぞ、主君の威信を天下に知らしめる、完璧なる東国武士の姿! ……まあ、その完璧な陣容を整えるため、裏でどれほどの血の滲むような算段が行われ、管領殿の首筋からどれほどの血が流れていたかなど、歴史の華やかな絵巻には残らぬ些末なことにございますなァ!
さあ、輝かしき威光を示し、次なる歴史のうねりへと突き進む鎌倉府! 見事なる忠臣の知略がいかに歴史を動かすのか、次回を乞うご期待!」




