第13話 風見鶏の宴
第13話 風見鶏の宴
パパン!
お立ち会い! 武将の戦場は、決して血生臭い野山ばかりではございません。美味なる酒肴が並び、美しき舞が披露される宴の席。そこもまた、笑みの裏で刃を交え、己の陣営へと引き込むための苛烈なる修羅の場でございます!
一色直兼の暴走により、鎌倉府への不満を募らせる東国の国人衆。その中で最も風見鶏と名高き上野国の重鎮、岩松持国! 彼を繋ぎ止めるため、管領・上杉憲実は自ら酒器を手に取り、見事なる外交戦を繰り広げたのでございます。
まあ、当時の宴の座敷には、温くなった酒の饐えた臭いと、愛想笑いの裏で流す役人たちの脂汗の臭いがねっとりと混ざり合い、そりゃあ胃の腑が裏返るような吐き気を催す空間であったに違いありませんなァ!(ここで講談師はふと扇子を釈台に置き、己の左の目尻を指の腹で強く揉む)
これぞ、酒杯に知略を注ぎ込む、東国武士の外交戦!
さあさあ、不折の管領、波乱の第十三席でございます!
*
トクトクトク、と。
白磁の銚子から、琥珀色の酒が朱塗りの杯へと注がれる。
鎌倉の高級な料亭、その最も奥まった座敷。上杉憲実は、顔面に完璧に張り付けた笑みを崩さぬまま、上野国の有力国人・岩松持国へと酒を勧めていた。
「いやはや、管領殿自らのお酌とは。某、恐悦至極にございます」
岩松は、口元ではそう言いながらも、その目は全く笑っていない。丸々と太った指で杯を弄び、京都(本社)の方角へチラチラと視線を向けるような、値踏みする目をしている。
上野国は、関東と他地域を結ぶ物流の要衝である。もし彼が京都側へ寝返れば、鎌倉府のロジスティクスは北から完全に崩壊する。先日の一色直兼の無計画な軍事行動(暴走)により、ただでさえ国人衆の鎌倉府に対する信用は底を打っているのだ。
憲実は、胃液が喉の奥まで逆流してくるのを、酒と一緒に強引に飲み下した。
「岩松殿には、日頃より公方様のため、多大なるご助力をいただいております。本日はその労をねぎらうための席。どうか、心ゆくまでお楽しみくだされ」
「ありがたきお言葉。……しかし管領殿、昨今、我が領内の商人たちは、箱根関の税の引き上げや、一色殿の急な徴発のせいで、ずいぶんと腹を空かせておりましてな」
岩松が、杯を膳に置き、ニチャリと嫌な音を立てて唇を舐めた。
「京都の室町殿からは、『我が方へつけば、上野の物流の権利を永代保証する』とのありがたいお誘いも届いておる始末。某としては、源氏の公方様へ忠誠を誓いたいのは山々なれど、領民が干上がっては元も子もありませぬ」
完全なる利益供与の要求。
要するに「京都以上の好条件を出さなければ、明日には鎌倉を見限るぞ」という脅しである。
憲実の脳内で、冷徹な算木がカチカチと音を立てて弾かれる。
ここで岩松に物流の特権を与えれば、鎌倉府の税収はさらに月額で数十両も目減りする。ただでさえ枯渇している金庫に、致命的な穴が空く。しかし、彼を京都へ寝返らせるリスクに比べれば、その赤字を背負ってでも「帳簿上の味方」として引き留める方が、まだ組織の生存確率は数パーセント高い。
憲実は、膝の上で握りしめた拳の関節が白くなるのを直垂の袖で隠し、懐から一枚の和紙を取り出した。
「……岩松殿のご苦労、お察しいたします。公方様よりも、岩松殿の商いにおける『上野から相模への通行税免除』の確約書をお預かりしております」
和紙が板の間を滑る、乾いた音が響く。
岩松の目が、欲深き光を放って和紙の文字を舐め回した。
「おお……! これは、なんとも寛大なる御処置! 管領殿のご尽力、某、一生忘れませんぞ!」
「……御意にございます。岩松殿のこれからの働きには、鎌倉府も十二分に報いましょう」
声の起伏を完全に殺し、憲実は再び白磁の銚子を傾けた。
トクトクという音が、憲実には自身の寿命が削られてこぼれ落ちる音にしか聞こえなかった。
深夜。
接待を終え、アルコールの悪臭と脂汗にまみれた身体を引きずるようにして、憲実が自身の執務室へと戻ってきた。
冷え切った硯の匂いが満ちる部屋には、すでに山内上杉家家宰・長尾景仲が、感情の一切消えた目で立っていた。
「憲実様」
景仲の懐から、次々とクシャクシャになった紙が取り出され、机の上に並べられていく。紙が擦れる音が、アルコールで痛む憲実の頭蓋をガンガンと叩く。
「岩松殿への接待と交渉、見事な手際にございました。これで当面、北の防衛線に穴が空くことは防げました」
「……代償として、上野からの税収がゼロになったがな」
「ええ。ですから、その不足分を補填するための書類を作成いたしました」
景仲が広げたのは、岩松より発言力の弱い、相模周辺の小規模な国人衆に対する「臨時の追加徴収令」だった。
大手の下請けを優遇した分の赤字を、立場の弱い孫請けから搾り取って帳尻を合わせる。血も涙もない、完全なブラック企業のロジックである。
「明日の朝までに、この百通の徴収令にハンコを。……拒否権はありません」
ドン、と。
景仲が机の上に置いた青銅製の重い「印章」が、鈍い音を立てる。
憲実は、直垂の懐に手を入れた。そこにある麻の紙の「出家願」が、カサリと擦れる音がする。
「景仲。こんなやり方、長くは続かない。下から搾り取れば、いずれ一番弱いところから不満が爆発し、反乱が起きる」
「はい。反乱が起きれば、その時はまた別の予算を削って討伐軍を出すだけです。矛盾を抱えたまま、一日でも長くシステムを回し続けるのが我々の職分です」
景仲の目は、一切の光を反射しない。
「あなたが坊主になろうが、その頭に管領の帽子を被せて、ハンコを押し続けさせるだけです。さあ、夜が明けます。墨をお擦りください」
逃げたい超有能と、逃がさない現実の悪魔。
吐き気と頭痛に苛まれながら、憲実は小さく息を吐き、左の目尻を指の腹で強く揉むと、冷え切った硯に墨を擦り始めた。
ガリ、ガリ、ガリ。
ガツン、ガツン。
宴の華やかさなど微塵もない密室で、かすれた墨の音と、末端を切り捨てるための決裁書類にハンコを叩きつける音だけが、虚しく響き続けた。
*
パパン!
「おお、なんたる知将! 曲者と名高き岩松を持て成し、その心を完璧に射止めた管領・憲実!
酒杯を交わしながら天下の形勢を論じ、一滴の血も流すことなく強大な味方を繋ぎ止めたその手腕! まさに、東国武士の鑑というべき外交戦でございます!
そして、その外交の成果を盤石にするため、裏で冷徹に書類を整える忠臣・長尾景仲! ……まあ、主君に泥を被らせつつ、弱い者から搾り取るその冷酷なる実務能力、味方に回せばこれほど頼もしく、敵に回せばこれほど恐ろしき男はおりませんなァ!
さあ、内憂外患を一つずつ潰し、必死に鎌倉府を支える若き管領! 見事なる忠臣の知略がいかに歴史を動かすのか、次回を乞うご期待!」




