第11話 笹川公方の火種
第11話 笹川公方の火種
パパン!
お立ち会い! 組織の危地を救い、主君との結びつきをより強固なものとした関東管領・上杉憲実! しかし、重責を担う者には休む間もなく次なる試練が舞い込みます。
遠く陸奥の国にて、京都本社に通じる笹川公方が、鎌倉府の領地境界を巡って突如として牙を剥いたのでございます!
北の地から迫る戦火の影。しかし我らが管領は、血を流すことなく、見事なる筆さばきと外交術でこの危機を乗り越えようと奔走いたします! まあ、当時の管領殿の指先は、各所への書状を何百枚と徹夜で書き続けたせいで、筆の形に硬直して紫に変色し、吐き気を催すような安い膠の臭いが染み付いていたに違いありませんなァ!(ここで講談師はふと扇子を釈台に置き、己の左の目尻を指の腹で強く揉む)
これぞ、筆を剣に変えた東国武士の神算鬼謀!
さあさあ、不折の管領、波乱の第十一席でございます!
*
バチバチ、と。
炭取りの中で爆ぜる火の粉の音が、風通しの悪い執務室に響き渡った。
「京都の犬めが! 我が領土を侵すなど、言語道断である!」
鎌倉公方・足利持氏が、大刀の鞘をカチャカチャと耳障りに鳴らしながら、古く軋む床板を踏み鳴らしている。
上杉憲実は、冷たい板の間に正座し、額を床に擦り付けたまま、畳の目をじっと見つめていた。昨夜、長尾景仲に「出家願」を破り捨てられてから一睡もしていない。脳髄は泥を詰めたように重かった。
「陸奥の笹川公方め、幕府の権威を笠に着て、白河の境界線を越えてきおった。余は源氏の棟梁ぞ! このような侮辱、断じて許さぬ。直ちに討伐軍を編成せよ!」
バサッ、バサッ。
持氏の足元で、無能なイエスマンである一色直兼が、軍扇を激しく振り下ろして同調する。その風切り音が、憲実の鼓膜を物理的に打つ。
(……またか)
憲実の冷徹な脳裏で、陸奥までのロジスティクスが瞬時に計算される。
鎌倉から白河の関まで、およそ六十里。軍勢を送れば、往復の行軍だけで膨大な日数がかかる。加えて、北方の寒冷地での戦闘は、兵糧の消費速度を通常の二倍に跳ね上げる。さらに、笹川公方は京都(本社)の直属機関である。彼らに兵を向ければ、それは幕府への明確な宣戦布告とみなされる。
「公方様」
憲実は、声の起伏を完全に殺したビジネス敬語で進み出た。
「白河への出兵は、費用対効果に見合いませぬ。六十里の兵站線を維持するには、現在の鎌倉府の備蓄米ではひと月と持ちません。また、北方の物流ルートが封鎖されれば、冬の物資調達が完全に停止いたします」
「兵糧など、現地で奪えばよかろう! 武家の面目を潰されて黙っているわけにはゆかぬ!」
「……御意にございます。しかし、ここは一先ず、書状による問いただしを行い、相手の出方を窺うのが低コストかと存じます」
「チッ……管領は相変わらず数字ばかりで、腹が据わっておらぬな」
持氏は舌打ちをし、大刀を乱暴に床に突き立てた。
「ならば、お前が笹川の小童に『次はない』と書状を送れ! 少しでも手ぬるい文面であれば、余が自ら出陣する!」
冷え切った硯の匂いが充満する関東管領邸・執務室。
憲実は、自席の冷たい板の間に座り込むなり、深く息を吐き出した。
そこへ、山内上杉家家宰・長尾景仲が足音もなく現れる。その手には、大量の白紙の和紙の束が握られていた。紙が擦れる、乾いた不快な音がする。
「憲実様」
景仲は、徹夜明けの憲実の死んだ魚のような目を一切気に留めず、和紙を机の上に積み上げた。
「笹川公方との領地トラブル。公方様は『強気の書状を送れ』と仰せですが、そのまま送れば即座に戦になります」
「わかっている。……だから、公方様の検閲用の『強気の書状』と、実際に笹川へ送る『平身低頭の謝罪と妥協案の書状』、そして京都の満済殿へ『鎌倉に他意はないと弁明する書状』の三種類を用意するしかない」
「流石です。すでに各方面への使者は手配しております」
ドン、と。
景仲が机の上に置いたのは、青銅製の重い「印章」だった。木製の天板が軋む。
「笹川公方への裏の弁明書が五十通、京都への根回しが五十通。明日の朝までに、全ての書状にハンコを。この板挟みのクレーム対応を完璧に処理し、組織の延命を図るのが我々の職分です。……拒否権はありません」
憲実は、懐の奥で引き裂かれたまま残っている出家願の紙屑の感触を確かめながら、左の目尻を指の腹で強く揉み込んだ。
上司は「ぶっ飛ばす」と息巻き、取引先は「本部に訴える」と騒いでいる。その間で、ただひたすらに書類の改ざんと土下座の文章を書き続け、物理的な衝突を回避するだけの事務作業。
「……いつか、この会社ごと燃やしてやる」
「はい。燃えるその日まで、灰にならないよう帳尻を合わせてください。さあ、墨をお擦りください」
逃げたい超有能と、逃がさない現実の悪魔。
ガリ、ガリ、ガリ。
逃げ場のない執務室に、安い膠の混じった墨の匂いと、冷たい筆の走る音だけが、虚しく響き続けた。
*
パパン!
「おお、なんたる絶妙なる筆さばき! 主君の面目を保ちつつ、敵の怒りを鎮め、京都への忠義も忘れない。管領・憲実の放つ書状は、一万の軍勢にも勝る鉄壁の盾となって、鎌倉府を戦火から救ったのでございます!
これぞ、血を流さずして勝つ、真の知将の戦いぶり! そして、その傍らには、常に冷静沈着に管領を支える忠臣・長尾景仲の姿!
……まあ、三種類の矛盾した書状を徹夜で書き分けるという地獄の沙汰に、管領殿の手首は悲鳴を上げていたことでございましょうなァ!
さあ、北の火種を見事に消し止めた鎌倉府! しかし、歴史の荒波は休むことを許しません! 見事なる忠臣の知略がいかに歴史を動かすのか、次回を乞うご期待!」




