第10話 最初の出家願
第10話 最初の出家願
パパン!
お立ち会い! 組織というものは、重責を担う者ほど、時にその重圧に耐えかねて逃げ出したくなるもの。現代で言うところの「辞表」を懐に忍ばせ、夜空の星を見上げる夜もあるでしょう。
我が関東管領・上杉憲実殿もまた、例外ではございませんでした。内外の敵に囲まれ、心身ともに限界を迎えた若き知将。彼が選んだのは、なんと仏門への帰依! すなわち出家でございます。
しかし! これを身を挺して止めたのが、筆頭重臣・長尾景仲! 主君を想うがゆえの熱き引き留め。まあ、当時の執務室には、破り捨てられた出家願の麻の紙の粉が舞い、徹夜明けの男たちが放つ、すえた油のような疲労の臭いが立ち込めていたと申す者もおりますが、それもまた主従の絆の証というものでございましょう!(ここで講談師はふと扇子を釈台に置き、己の左の目尻を指の腹で強く揉む)
これぞ、涙を誘う東国武士の熱き情愛!
さあさあ、不折の管領、波乱の第十席でございます!
*
深夜の関東管領邸・執務室。
灯油の燃え尽きかけた行灯が、ジリ、ジリと弱々しい音を立てて明滅している。
上杉憲実は、机の上にうず高く積まれた決裁書類の山を前に、自身の左の目尻を指の腹で強く揉み込んでいた。
「……もう、無理だ」
かすれた声が、冷たい板の間に落ちる。
ここ数ヶ月の業務量は、人間の処理能力を完全に超えていた。幕府からの冷酷な監査対策としての二重帳簿作成、下請けである国人衆の暴動寸前のクレーム処理、奥の院からの無謀なイベント予算の捻出、そして社内警察からの監視。
憲実の直垂の襟元には、幾日も風呂に入らぬまま徹夜を重ねた結果、大豆が腐ったような酸っぱい汗の臭いが染み付いている。胃の腑は常に熱鉄を飲まされたように痛み、食べた粟飯すらまともに消化できない。
憲実は、ゆっくりと直垂の懐に手を入れた。
カサリ、と。
ずっと忍ばせていた、麻の紙でできた「出家願」の感触。
仏門に入る。それは室町時代において、武士が全ての社会的責任から合法的に逃れるための、唯一にして最強の「退職届」の手段である。
(これを出せば、この終わりのないデスマーチから解放される。米の計算も、ハンコを押す作業も、もうしなくていい)
憲実は、震える手で出家願を取り出し、机の中央に置いた。
「……景仲」
背後の暗がりから、足音もなく長尾景仲が進み出てきた。その無表情な顔は、憲実の限界をとうに計算し尽くしているかのようだ。
「憲実様。夜明けまでに片付けるべき稟議が、まだ五十通ほど残っております」
「景仲。俺は、もう辞める」
憲実は、感情の消え失せた死んだ魚のような目で、景仲を見上げた。
「出家する。後のことは、お前たちでどうにかしろ。公方様には、俺の健康上の理由だと伝えてくれ」
それは、悲壮な決意でも何でもない。ただ「システムが壊れた」という物理的な宣言だった。
しかし、景仲の目は一ミリも動揺しない。
景仲は、机の上の「出家願」を一瞥すると、躊躇いなく手を伸ばした。
ビリッ!
乾いた破裂音が、執務室に響き渡った。
憲実が心血を注いで書き上げ、懐で温め続けてきた麻の紙が、景仲の太い指によって無惨に引き裂かれたのだ。
「……なっ」
ビリ、ビリビリビリ!
景仲は、破片をさらに細かく引き裂き、雪のように憲実の机の上へと散らした。
「……景仲、貴様! 何をする!」
憲実が思わず声を荒らげ、机に手をついて立ち上がろうとする。しかし、連日の徹夜で限界を迎えていた足腰は崩れ、再び板の間に座り込んでしまった。
「憲実様」
景仲の声は、どこまでも冷徹だった。
「あなたの出家など、受理されるはずがありません。あなたが抜け、あなたのハンコがなくなれば、明日にも鎌倉府の金庫は凍結され、各部署の予算は滞り、三日でこの組織は崩壊します」
「知るか! 俺はもう限界だ! これ以上、あの暴君と貴様らの作った泥舟の帳尻合わせなど、やってられるか!」
「泥舟を沈めないための算段をするのが、あなたの職分です」
景仲は、細かく引き裂かれた出家願の残骸を無造作に払い落とすと、その上にドン、と新たな書類の山を置いた。
「それに、今あなたが職務を放棄すれば、京都本社はそれを『鎌倉府のガバナンス崩壊』とみなし、即座に討伐軍を差し向けるでしょう。あなた個人の逃亡が、全社員の死に直結するのです」
完全なロジックによる脅迫。
憲実の退路は、物理的にも論理的にも完全に塞がれていた。
ドン、と。
景仲は最後に、青銅製の重い「印章」を書類の上に叩きつけた。
「……拒否権はありません。あなたが坊主になろうと、私はその剃り上げた頭に管領の帽子を被せて、この机の前に縛り付けます。さあ、夜が明けます。墨をお擦りください」
逃げたい超有能と、絶対に逃がさない現実の悪魔。
そこには主従の絆も、忠義も存在しない。ただ「システムを維持するため」の冷徹な共依存があるだけだ。
憲実は、引き裂かれた出家願の破片を見つめながら、白くなった拳をワナワナと震わせた。しかし、ついに反論の言葉を見つけることはできず、ゆっくりと手を伸ばして冷え切った硯に触れた。
ガリ、ガリ、ガリ。
「……いつか必ず、全てを放り出してやる」
誰に届くとも知れないその呟きは、重く擦られる墨の音に掻き消されていった。
*
パパン!
「おお、なんたる主従の絆! なんたる熱き情愛!
重圧に押し潰されそうになった若き主君の迷いを、身を呈して断ち切った忠臣・長尾景仲! 引き裂かれた出家願は、まさに二人の結束を永遠のものとする誓いの証でございます!
この厳しくも温かい叱咤激励により、管領・憲実は再び己の使命に目覚め、関東の平穏のために立ち上がったのでございます!
……まあ、その使命の代償として、管領殿の胃袋はさらなる激痛に見舞われることとなるのですが、それもまた英雄に課せられた試練!
さあ、固き絆で結ばれた鎌倉府! 見事なる忠臣の知略がいかに歴史を動かすのか、次回を乞うご期待!」




