第9話 社内警察の目
第9話 社内警察の目
パパン!
お立ち会い! 華々しき祭礼を成功させ、天下に鎌倉府の安泰を示した我らが管領・上杉憲実! しかし、眩き光の裏には必ず濃き影が落ちるもの。組織を愛するがゆえに、その愛が狂気へと変貌する者もまた、歴史の常でございます。
犬懸上杉家の一族、上杉憲直! 彼は「源氏の誇り」という社訓を誰よりも重んじ、少しでも京都に阿る者を許さぬ、鎌倉府の熱烈なる守護者でございました!
忠義の士が、若き天才管領の真意を問う! まあ、当時の管領邸の執務室周辺では、憲直殿の配下が放つ革威の鎧の紐がギリギリと鳴る緊迫したきしみ音が絶えず、憲実殿の背中には常に冷たい刃が突きつけられているような息苦しさがあったに違いありませんなァ!(ここで講談師はふと扇子を釈台に置き、己の左の目尻を指の腹で強く揉む)
これぞ、己の正義を貫く東国武士の熱き魂の激突!
さあさあ、不折の管領、波乱の第九席でございます!
*
ギリリ、と。
革威の鎧の紐が、わずかに擦れ合う微かな音がした。
関東管領邸・執務室の廊下。本来ならば人払いされているはずのその場所に、微動だにせず立つ影がひとつあった。
(またか……)
上杉憲実は、机上の書類から視線を外さぬまま、背後に立つその男の気配に、深く冷たい息を吐き出した。
上杉憲直。
足利持氏の掲げる「源氏の誇り」という社訓を百パーセント妄信し、それに少しでも反する者を「裏切り者」として監視する、言わば狂信的な「社内警察」である。
「管領殿。先ほど京都から届いた書状、確かに拝見いたしましたぞ」
憲直の声が、背後から突き刺さるように響いた。
「『未納分の税につきましては、必ずや期日までに手配いたしますゆえ、何卒ご寛恕を』……。なんたる卑屈な文面。公方様の御威光を笠に着るべき管領が、なぜ京都の小童どもにそこまで媚びへつらう必要があるのですか!」
憲直の怒声とともに、再び鎧がギリリと鳴る。
憲実は、筆を持つ手を止め、和紙の上の墨が乾いていくのをじっと見つめた。
(媚びへつらうだと? これは、鎌倉府(会社)が物理的に滅ぼされないための、最低限のリスケジュールの交渉だぞ)
現在、鎌倉府の金庫は、大行軍と無駄な祭礼のせいで完全に枯渇している。京都本社が定める税の納入期日には到底間に合わない。ここで「払えぬものは払えぬ」と強気に出れば、幕府はそれを口実に容赦なく討伐軍を差し向けてくる。
だからこそ憲実は、土下座スレスレの卑屈な文面を徹夜で考え、幕府のオーディター・満済へ支払いの延期を乞うているのだ。
「憲直殿。これは交渉の『型』に過ぎませぬ。無用な争いを避け、実利を得るための方便です」
「方便だと? そのような弱腰が、公方様の御名に泥を塗るのだ! 我らが力で関税をふんだくり、東国の富を独占している今、京都など恐れるに足りぬ!」
憲直の脳内は、持氏や持房が作り上げた「見せかけの威信」によって完全に洗脳されている。
数字の読めない精神論者に、これ以上ロジックを説いても無駄だ。憲実は、一切の感情を排した声で応じた。
「……御意にございます。以後、言葉尻には気をつけましょう。本日の業務はこれまでといたしますゆえ、お下がりを」
しかし、憲直は動かない。
「管領殿。最近、あなたが夜な夜な下野の国人衆と密書を交わしているという噂があります。彼らと結託し、京都へ寝返る算段ではないでしょうな?」
憲実の背筋を、冷たい汗が伝い落ちた。
それは、未払い問題で激怒した小山党などとの、ストライキを回避するための「裏契約」のやり取りだった。しかし、憲直の歪んだフィルターを通せば、それは「謀反の密議」に変換されてしまう。
「……そのような事実はございませぬ」
「ならば良い。しかし、我々の目は常にあなたを見張っている。公方様の『誇り』を穢す者は、たとえ管領であろうとも容赦はせぬ」
ギリリ、と最後に大きく鎧を鳴らし、憲直の足音が去っていった。
憲実は、机の上に突っ伏し、左の目尻を指の腹で強く揉み込んだ。
外の敵(幕府)、上の暴君(持氏)、横の野心家(持房)、下のクレーマー(国人衆)。それに加えて、この狂信的な社内警察の監視。四面楚歌どころの騒ぎではない。
「憲実様。背中が煤けておりますよ」
いつの間にか、長尾景仲が傍らに立っていた。その手には、またしても新たな書類の束が握られている。
「……景仲。あいつ(憲直)、完全に俺をクロだと思い込んでるぞ。あのままでは、近いうちに公方様に事実無根の讒言をする」
「ええ。ですから、そうなる前に手を打つのが我々の職分です」
ドン、と。
景仲が机の上に置いたのは、憲直の派閥に属する武将たちの、過去の横領や不正の証拠をまとめた調査書だった。
「明日の朝までに、これを公方様へ提出する稟議書にハンコを。憲直殿の発言力を、物理的に削ぎ落とします。……拒否権はありません」
憲実は、直垂の懐にある「出家願」をカサリと鳴らし、深く息を吐いた。
「……味方同士で泥を掛け合う。これが組織というものか」
「はい。誇りや正義ではなく、泥の掛け合いでバランスを保つのが組織です。あなたが坊主になろうが、その頭に管領の帽子を被せて、泥仕合の最前線に立たせるだけです。さあ、墨をお擦りください」
逃げたい超有能と、逃がさない現実の悪魔。
憲実は、冷え切った硯に墨を擦り始めた。
ガリ、ガリ、ガリ。
社内政治という名の、終わりのない潰し合いの音が、深夜の鎌倉府に虚しく響き続けた。
*
パパン!
「おお、なんたる忠烈なる魂のぶつかり合い! 公方様への愛がゆえに管領を疑う憲直と、鎌倉府の未来のために泥を被る憲実! 己の正義を信じ、互いの知略を尽くして火花を散らすその姿、まさに武家の鑑でございます!
そして、その苛烈なる戦いを裏で冷徹に支える忠臣・長尾景仲! ……まあ、同僚の粗探しのために夜な夜な他部署の帳簿を漁るその執念深さ、味方に回せばこれほど頼もしく、敵に回せばこれほど恐ろしき男はおりませんなァ!
さあ、内なる不和をも飲み込み、鎌倉府はいかなる道を進むのか! 見事なる忠臣の知略がいかに歴史を動かすのか、次回を乞うご期待!」




