2 魔女の涙
「アリシア、次は青物市場だ。お前の好きな苺があるらしい」
レンが手振りを交えてそう言うと、アリシアは小さく頷き、レンの袖を軽く引いた。休みの日、娘の買い物に付き合うのは、病のことを知る前からの習慣だった。市場の喧騒の中、アリシアは声を出せない分、指さしと表情で欲しいものを伝える。それを読み取るのが、レンにとって数少ない安らぎの時間だった。
苺の露店の前で足を止めたとき、それは起きた。
「おいおい、見ろよ。あの唸ってる女」
露店の陰から現れたのは、身なりの荒れた若い男が三人。一人がアリシアの手真似を大袈裟に真似て笑い、もう一人が耳障りな唸り声を上げてみせた。
「口が利けねえのかよ、可哀想になぁ。豚みてぇにブヒブヒ鳴いてりゃいいのに」
アリシアの顔から、みるみる血の気が引いた。手が震え、苺の入った紙袋を落としそうになる。
いつものレンなら――そう、いつものレンなら、ここで謝るような笑みを浮かべ、娘の肩を抱いてその場を立ち去っていただろう。三十年間、そうやって波風を立てずに生きてきた。
だが。
気づいたときには、レンの手は、笑っていた男の襟首を掴んでいた。
「――っ、な、なんだてめ」
言い終わる前に、レンの拳が男の顔面に叩き込まれていた。一発、二発。市場の喧騒が一瞬で凍りつく。仲間の一人が慌てて止めに入ろうとしたが、レンはその男の腕を掴み、地面に叩きつけた。倒れた男の腹を、容赦なく踏みつける。
「や、やめ――」
三人目が悲鳴じみた声を上げて逃げ出そうとしたが、レンはそれを追い、背後から蹴り倒した。倒れた体に、さらに拳が振り下ろされる。
それは、教師としての矜持を三十年間積み上げてきた男の手つきではなかった。何かのタガが、静かに、決定的に外れた音がした。
周囲の人々が悲鳴を上げ、遠巻きに人だかりができる頃、地面に転がった三人はもう動かなくなっていた。虫の息で呻く男たちを見下ろし、レンは荒い息を整えながら、自分の拳が赤く染まっているのに気づいた。
「……行こう、アリシア」
振り返ったレンの顔に、いつもの穏やかな微笑みはなかった。
家までの帰り道、アリシアはずっとレンの服の裾を握りしめていた。
嬉しかった。生まれて初めて、誰かが――父が、あんなにもまっすぐに自分を守ってくれた。市場の男たちの嘲笑に、今まで何度も一人で耐えてきた。声が出せない自分を庇ってくれる人など、いなかった。
だが同時に、体の芯が冷えるような感覚があった。
あの時の父の目。人を殴り倒しながら、まるで――どこか遠くを見ているような、空虚な目。優しい父の顔の下から、アリシアの知らない誰かが顔を覗かせたような、そんな違和感。
アリシアは家に着くなり、震える手で紙に文字を書いた。
『父さん、痛いところない?』
嘘だ。本当に聞きたいことは、それではなかった。
「大丈夫だよ」
レンはそう言って、娘の頭を撫でた。その手はもう、いつもの優しい手に戻っていた。だが、アリシアの喉の奥には、言葉にならない唸り声が、行き場を失ったまま溜まっていた。父さんは、変わった。声には出せない。だが、確信していた。
その週末、レンは学院の資料室に一人残り、埃をかぶった生徒名簿をめくっていた。
「――アレクサンダー・オーブリー、と」
退学者の記録は、通常なら破棄される。だが学院の事務仕事は杜撰で、古い名簿がそのまま棚に眠っていた。レンは指でページをなぞり、住所欄に目を留めた。
『ロヴァルト郊外・北街道沿い』
スラムに逃げ込んでいたのは、あくまで一時しのぎだったのかもしれない。実家、あるいは縁者の家がそこにあるようだった。レンは名簿の写しを手早く取り、資料室の鍵をかけて出た。
その足で、レンは錬金術準備室に立ち寄った。誰もいない放課後の準備室で、精製用の坩堝、天秤、蒸留器の一部――学院の備品を、迷いなく鞄に詰め込んでいく。借りるだけだ。すぐに返す
自分にそう言い聞かせながらも、レンの手つきに躊躇はなかった。三十年間、正しく、真面目に生きてきた男の手が、初めて一線を越えていた。
北街道沿いの家は、古びてはいるが、スラムの隠れ家とは違う、まともな暮らしの匂いがした。レンが戸を叩くと、しばらくして顔を出したアレクサンダーは、レンの姿を見るなり顔をこわばらせた。
「……なんで、ここが分かった」
「学院の名簿を見ればいい話だ。存外、単純だよ」
レンは招かれもせずに家に上がり込み、持参した鞄を机に置いた。
「用件は簡単だ。私には技術がある。だが売り捌く度胸も、伝手もない。君にはそれがある。二人で組めば、今の暮らしとは桁の違う金が稼げる」
アレクサンダーは苦い顔で腕を組んだ。
「先生イカれちまったのか?あんたに作れるとは思えない」
レンは鞄から錬金術道具を取り出しながら、静かに言った。
「組まないなら、治安部隊に突き出すだけだ」
アレクサンダーの顔から、血の気が引いた。
「……脅す気か」
「取引と呼んでくれ」
沈黙が落ちた。窓の外で、乾いた風が北街道の砂埃を巻き上げる音だけが響いた。
やがてアレクサンダーは、机に拳を打ちつけ、深く長い息を吐いた。
「……分かったよ。分かった、くそ。あんたには勝てねえ」
スラムに程近い、朽ちかけた廃倉庫。二人が最初の仕事場に選んだのは、そこだった。
持ち出した学院の道具を並べ、レンは黙々と作業を始めた。素材を計り、温度を確かめ、蒸留の速度を秒単位で調整していく。魔法陣は一つも使わない。ただひたすらに、素材そのものの性質と向き合う、地道な工程だった。
「……おい、魔力も込めずに、それだけ手間かけて何が――」
アレクサンダーが呆れたように口を挟みかけたとき、蒸留器の先から、一滴の液体が滴り落ちた。
ランプの灯りを受けて、それはサファイアのように澄み切った、深い澄碧色に輝いていた。
「……は」
アレクサンダーは言葉を失った。今まで見てきたどんな粗悪なポーションとも、いや、学院で見た優秀な生徒たちの作品とも、まるで質が違った。透明度、色合い、そのすべてが完璧だった。
「試してえ」
「やめろ。売るだけにしよう。それは目に垂らして使用するんだ。あんまりやりすぎると失明する。」
「わかったよ先生、でもこれはヤバいぞ」
アレクサンダーは掠れた声で笑った。恐怖と、抑えきれない興奮がない交ぜになった笑いだった。
「純度百パーセント。不純物は限りなくゼロに近い」
レンは試験管を灯りにかざしながら、静かに、しかしどこか誇らしげに言った。
「これに、名前が要る」
しばらくの沈黙のあと、アレクサンダーが呟いた。
「……澄碧色、女の涙みてぇだな。それも、ただの女じゃねえ。人を狂わせる女の」
「魔女の涙、か」
レンはその言葉を、口の中で転がすように繰り返した。
「悪くない。さあ始めよう。」
廃倉庫の外では、夜のロヴァルトが、いつも通りの喧騒を続けていた。




