3 掌握
最初の一瓶が完成した翌日、アレクサンダーは一人、スラムの奥にある古い廃屋を訪れていた。
入口で用心棒に耳打ちすると、しばらくして奥の部屋に通される。そこにいたのは、ロヴァルトの北区での密売を仕切る元締め――ローラン。恰幅のいい体に、値踏みするような目つきの中年男だった。アレクサンダーがまだ粗悪なポーションを売り歩いていた頃から世話になっている相手だ。
「久しぶりだな、坊主。しばらく顔を見せなかったが……何かいい話でも持ってきたか?」
「ああ。とびきりのをな」
アレクサンダーは緊張を押し隠しながら、懐から例の小瓶を取り出した。澄碧色の液体が、薄暗い灯りの下でも鮮やかに輝いている。
「これを、市場に流してほしい。量は用意できる。値は――5万デナールでどうだ?一瓶で」
ローランは瓶を受け取り、光にかざした。値踏みするような目が、みるみる細くなっていく。
「……坊主」
瓶の中身を指先に一滴垂らし、匂いを確かめたローランの声は、先ほどまでの気安さが消えていた。
「お前が、これを作ったのか?」
「そう、だが」
「噓をつくな」
ローランは瓶をテーブルに叩きつけるように置いた。
「俺は伊達に何十年もこの商売をやってねえ。お前の腕は知ってる。粗悪品しか作れなかった坊主が、こん
な高い純度の代物を、急に作れるようになるわけがねえだろうが」
アレクサンダーは言葉に詰まった。ローランはそれを見て、確信を深めたように目を細めた。
「それに、もう一つ聞きたいことがある」
ローランの声が、一段と低くなった。
「三日前、東区の精製所に治安維持部隊が踏み込んだ。うちの若いのが二人、しょっ引かれた。あの一件の
少し前、お前は部隊に見つかりかけて逃げたそうじゃないか。――お前、命惜しさに何か喋ったんじゃねえのか」
「そんなこと、してねえ!」
アレクサンダーは思わず声を荒げたが、ローランの目に浮かんだ疑念は消えなかった。
「……にしても妙だな。お前が急に、独力じゃ絶対に作れない上物を持ってくる。裏切って口を割った直後に、な」
ローランが顎をしゃくると、部屋の隅にいた大柄な男――ローランの従弟、ヴァストが音もなく動いた。アレクサンダーの腕が、後ろから捻り上げられる。
「なっ――放せ!」
「案内してもらおうか、坊主」
ローランは立ち上がりながら、冷たく笑った。
「その『上物』を、どこの誰が作ってるのか。そして、お前が本当に裏切り者かどうか――白黒つけようじ
ゃねえか」
廃倉庫の扉が、蹴破られるように開いたのは、その日の夕刻だった。
レンが作業台に向かっていたところへ、後ろ手に縛られたアレクサンダーを引きずるようにして、ローランとヴァストが踏み込んできた。
「大人しくしてろよ、爺さん」
ヴァストがアレクサンダーの首筋にナイフを突きつけながら、レンに向かって顎をしゃくった。
「――やっぱりな」
ローランは工房の中を見回し、並んだ精製器具に目を留めて、確信したように頷いた。
「坊主、お前の相棒か。地味なじじいがこんな腕を隠してるとはね」
「話を通そう」
レンは両手を軽く挙げ、努めて冷静な声で言った。心臓は早鐘を打っていたが、それを表に出さないだけの自制心は残っていた。
「私が作った。だが、私を殺して困るのは君たちの方だ。ライバルを消したいのはわかるが、この製法を知っているのは、今のところ私だけだからね」
「舐めた口をきくじゃねえか」
ヴァストがアレクサンダーの首にナイフを押し当てた。皮膚が薄く裂け、血の玉が浮かぶ。アレクサンダーが呻く。
「レシピを教えろ。今すぐにだ。でなきゃ、こいつの喉を先に掻っ切る」
レンは一瞬、目を閉じた。開いたとき、そこにあったのは、恐怖ではなく――昏い、静かな決意だった。
「分かった。見せよう」
「材料はこれだ。まずこの結晶を、この溶液に――」
レンは淡々とした口調で説明しながら、手元の作業を進めた。天秤に素材を乗せ、坩堝に注ぎ入れる。傍から見れば、それはただの精製工程にしか見えなかった。
だが、レンの指先は、いつもの澄碧色の液体を作る手順とは、微妙に違う動きをしていた。不安定な結晶の分量を、あえて過剰に。反応を抑えるはずの中和剤を、あえて加えない。
「ここからが肝心だ。この反応を、近くで見ておくといい」
レンがそう言うと、興味を抑えきれない様子のヴァストが、坩堝を覗き込むようにぐっと身を乗り出した。
次の瞬間だった。
坩堝の中で、澄碧色の液体が急激に泡立ち、白く発光したかと思うと――閃光と共に、耳をつんざく爆発音が工房内に轟いた。
衝撃波が倉庫全体を揺らし、埃と煙が舞い上がる。
煙が晴れたとき、覗き込んでいたヴァストの姿は、そこになかった。首から上を失った体が、力なく崩れ落ちる音だけが響いた。
「――ヴァスト!!」
ローランの絶叫が倉庫にこだました。爆発の余波で吹き飛ばされたローランの左腕は、肩の付け根から千切れ、床に転がっていた。激痛にのたうちながら、彼は残った右手でその場から這って逃げようとした。
レンは、自分の耳鳴りの向こうで、アレクサンダーが呆然とこちらを見ているのに気づいた。拘束から抜け出したアレクサンダーの手には、爆発の混乱の中で奪い取ったナイフが握られていた。
「――あんた……最初から、これを……」
「生き残るためだ」
レンの声は、驚くほど平静だった。手は微かに震えていたが、それは恐怖からではなく、何か別の感情――自分でもまだ名前のつけられない何かからくるものだった。
その夜のうちに、二人はヴァストの遺体を処理した。
レンが調合した強酸性の溶液を満たした穴に、遺体を沈める。骨まで残さず溶かし切るには時間がかかったが、朝までには跡形もなくなっていた。
意識を失ったローランは、アレクサンダーの家の二階、鍵のかかる納戸に運び込まれ、簡易的な止血だけを施されて監禁された。
「……殺すしかない、よな」
翌日、アレクサンダーは疲れきった声で言った。
「あいつを生かしておいたら、俺たちの正体はバレたままだ。腕を失っても、ローランには手下がまだいる。仕返しに来るに決まってる」
「分かっている」
レンは静かに頷いた。頭では理解していた。だが、爆発で人が死ぬのと、意識のある人間の喉を自らの手で裂くのとでは、天と地ほどの隔たりがあった。
「だが、私にはできるか、分からない」
「じゃあ、決め方を変えよう」
アレクサンダーは懐から古い硬貨を一枚取り出した。
「表が出たらあんた。裏が出たら、俺がやる」
硬貨が宙を舞い、床に転がった。
表だった。
納戸の扉を開けたとき、ローランは床に座り込み、失った左腕の付け根を右手で押さえていた。血の気の失せた顔が、レンを見上げる。
「……殺しに、来たのか」
「そのつもりだ」
レンはナイフを手に、一歩近づいた。だが、ローランの空虚な、肩から先のない左腕の断面を見た瞬間、手が止まった。
この男にも、家族がいるかもしれない。故郷が、生きてきた理由が
「……聞かせてくれ」
レンは自分でも驚くほど掠れた声で言った。
「お前が、この商売に入った経緯を。どんな人生を歩んできたのか」
「知らないほうがやりやすいぞ」
ローランは怪訝な顔をしたが、死を目前にした人間特有の諦観からか、ぽつぽつと語り始めた。貧しい生ま
れ、幼くして親を失ったこと、この裏社会以外に生きる術がなかったこと――。
レンはその話に耳を傾けながら、次第に迷いが深くなっていくのを感じていた。この男を、本当に殺していいのか。
そのとき、ローランの視線がわずかに揺れ、右足の爪先が不自然に動いたのに、レンは気づいた。
――靴
視線を落とすと、ローランの靴底の一部が僅かに浮いている。隠された刃の柄らしきものが、わずかに覗いていた。片腕を失ってなお、最後の一手を仕込んでいたのだ。
レンの中で、迷いが凍りついた。
「……分かった。お前の話は、聞かせてもらった」
レンはナイフを鞘に収めるふりをして、静かに言った。
「今夜、ここから逃がしてやろう。誰にも言わない、と誓うなら」
ローランの顔に、安堵の色が浮かんだ。その一瞬の隙を、レンは見逃さなかった。
油断したローランがわずかに体の力を抜いた刹那、レンは素早く踏み込み、その首筋にナイフを一閃させた。
ローランは声を上げる間もなく、床に崩れ落ちた。
ローランの遺体もまた、同じ穴の中へと消えていった。骨も、記憶も、痕跡も残さずに。
朝日が昇る頃、レンとアレクサンダーは、無言のまま倉庫の外に立っていた。焼け焦げた跡と、酸の匂いだけが、昨夜の惨劇を物語っていた。
「……これで」
アレクサンダーが低く呟いた。
「北区は、俺たちのものだ」
レンは答えなかった。ただ、自分の両手を見下ろしていた。三十年間、素材を計り、薬を調合してきた手。その同じ手が、昨夜、一人の男の命を絶った。
罪悪感はあった。だが、それ以上に――レンを支配していたのは、静かな、氷のような満足感だった。




