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きっかけは【漢字辞典】〜名前の長い孤児が生きる、漢字が魔法になる世界〜   作者: 七瀬
第一章

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88.ルナバッグ工房始動



木枯らしが冷たく吹き抜け、明日にも初雪が降りそうな寒空の下、いよいよ「ルナバッグ工房」が本格的な始動を迎えた。


通常、午前中はエミルダさんの作業場で魔法の勉強をしている俺も、今日は記念すべき初日だからと、俺もルナ姉ちゃんと一緒に朝からルナバッグ工房へと向かった。

道の先に見えてきた真新しい建物を見上げた瞬間、俺たちは思わず「うわぁ……」と声を揃えて感嘆の声を漏らした。



木造で建てられた真新しい建物の屋根には、まるで降り注ぐ太陽のような鮮やかな黄色い塗装が施されている。青空の下でひときわ目を引くその屋根は、見る者の心をパッと明るくさせてくれた。

さらに、入り口の脇に掲げられた「ルナバッグ工房」と書かれた大きな木製の看板には、思わず目を奪われるような、見たことのない美しい紋章のような記号が丁寧に描かれていた。



「すごいね、エル。本当に私たちの工房ができたんだ……」

ルナ姉ちゃんが胸の前で両手を組み、感動に瞳を潤ませながら呟く。俺も深く頷きながら、ワクワクする気持ちを抑えて足を踏み入れようとした。



その時、背後から馬のいななきと、重たい車輪が地面を軋ませる音が聞こえてきた。

振り返ると、ずっしりと後ろの荷台に荷物を積んだ大型の馬車が近づいてきて、工房の目の前でピタリと止まる。中からからひらりと降りてきたのは、いつものように鮮やかなドレスを身にまとったカストルさんだった。



「あら、おはよう。二人とも、ずいぶん早いのね」


カストルさんは低く通る美しい声で微笑み、馬車の荷台で忙しそうに木箱や大きな鍋を下ろし始めた使用人たちを一瞥した。

それから、鍵をガチャリと開けて工房の重い扉を押し広げる。


「さ、中に入ってちょうだい。今日からここがあなたたちの新しい戦場よ」


俺とルナ姉ちゃんが後に続いて中に入ると、そこには広々とした温かみのある空間が広がっていた。

室内には、職人たちが余裕を持って並んで座れる大きな作業机が全部で7つ、整然と配置されている。さらにその一番奥の一角には、子どもたちが退屈しないよう、柔らかそうな厚手の絨毯が敷かれた安全な託児スペースが綺麗に仕切られていた。


手元の細かい作業が見えやすいように窓がたっぷりと取られており、部屋の壁際にはどっしりとした大きな黒い薪ストーブが鎮座している。

カストルさんの指示で、中に入ってきた使用人たちが手際よく薪を運び込み、ストーブのなかに火をくべると、パチパチと心地よい音を立てながら、室内がじんわりと優しい温かさに包まれていった。



そうしているうちに、今日の作業に参加する職人たちが続々と集まってきた。

以前、エミルダさんの作業場を間借りしていた時から手伝ってくれていた顔馴染みの職人たちの姿はもちろん、見知らぬ顔の職人たちも何人か混じっている。初めての大きな工房に少し緊張しているのか、ソワソワと辺りを見回しながら入ってくる姿があちこちに見られた。


使用人たちが運び込んだ大量の木箱や籠が部屋の隅に積み上げられていくのを見て、俺は思わず首を傾げた。

「カストルさん、あれは何が入ってるんですか?」

「ふふ、あれは後でのお楽しみよ」

カストルさんは悪戯っぽくウインクを返すと、皆の前に立って軽く手を叩いた。



「さあ、皆さん!!初日からこんなにたくさん集まってくださってありがとう。

ギルド長でもあるので知っている人も多いと思いますが、この工房主のカストル・ゲミニーよ。

本日からどうぞよろしくね。


で、この工房で作る軽量鞄、『ルナバッグ』の発案者のルナちゃんとエルちゃんよ。


そして、普段はこのハリーがここの管理人として入ります。鍵の明け閉めや給金の計算も一任してるから、何か分からないことがあったら遠慮なく聞いてね。」


そう急に名前を呼ばれた俺たちは、いつの間にか隣にいたくすんだ金髪の男性と一緒に慌てて一礼をした。


カストルさんの簡潔で気風のいい挨拶が終わると、いよいよ作業が開始された。

布を裁断し形を整える縫製班と、糸魔法と刺繍、軽量魔法で仕上げを行う付与班に分かれ、それぞれが持ち場についていく。

集まった職人たちは経験豊富なベテランが多く、みんな手際がとても良かった。作業が始まってすぐに、手慣れたおばちゃんたちの間で世間話や井戸端会議の花が次々と咲き始め、工房の中は一気に賑やかな活気に満ちていく。


そんな中、部屋の隅に置かれた薪ストーブの上には、いつの間にか大きな金属製の鍋がかけられていた。蓋の隙間から、なんとも食欲をそそるいい匂いが部屋いっぱいにふわりと立ち込めてくる。



俺はいつものように指先から糸魔法で糸を出しながら、その賑やかな職人たちの様子をぼんやりと眺めていた。すると、アンの朝ごはんを食べたはずの胃袋がその匂いを察知したのか、「グゥー……」と盛大な音を立てて鳴り響いてしまった。


隣で俺の出した糸を受け取りながら器用に刺繍を施していた若いお姉さんが、その音に気づいて「ふふっ」と小さく吹き出した。


「あら、もうお腹すいたの?朝ごはん食べれなかった?」

「あ、いや、その……食べたんだけど……」


恥ずかしさに思わず顔が赤くなり、俺は慌てて作業に意識を戻そうと目を泳がせた。


そして、待ちに待ったお昼時になると、カストルさんが手を叩いて作業を止めた。


「みなさん、お疲れ様! 初日は特別よ、みんなで温かいものを食べましょう!」


カストルさんの合図で、使用人たちが大きな籠から人数分のパンとスープを次々と配っていく。

配られたスープの湯気を嗅いだ瞬間、たまらず俺は喉を鳴らした。

大きな角切りのベーコンがこれでもかとゴロゴロ入った濃厚なスープは、見ているだけで体が温まる。添えられたパンも、普段孤児院で食べている硬い黒パンとは比べ物にならないほどふんわりと柔らかいものだった。


「いただきまーす!」


一口スープを口に含んだ瞬間、旨味と塩気が口いっぱいに広がり、思わず頬が緩む。ゴロゴロしたベーコンを噛み締めながら、柔らかいパンをスープに浸して食べる。冷えた体に温かい栄養が染み渡り、さっきまでの緊張や疲れが一気に吹き飛んでいくようだった。



午後の作業もその温かな空気のままスムーズに進んだ。

託児スペースの方に目を向けると、赤ちゃんや少し大きくなった子どもたちが柔らかい絨毯の上でおもちゃを使いながら楽しそうにはしゃいでおり、それを時折手が空いた職人や母親たちが優しい笑顔で見守っている。仕事場と生活が温かく調和した、理想的な空間だった。



やがて夕方を告げる鐘が鳴り響き、初日の作業が無事に終了した。

道具を片付け、職人たちが笑顔で「お疲れ様でした!」と言い合いながら帰路についていく。


俺もルナ姉ちゃんと一緒に工房を後にし、夕暮れの冷たい空気が漂う道を孤児院へと歩き出した。

少し前を歩くルナ姉ちゃんの背中をぼんやりと見つめながら並んで歩いていると、ふと、ルナ姉ちゃんが足を止めて振り返った。


冷えた頬を少し赤らめながら、彼女は照れくさそうにはにかみ、小さな声でこう言った。

「ねえ、エル……。ずっと言いたかったの。

あたしをお針子にしてくれて、本当にありがとう」


予想もしていなかった言葉に、俺は心臓を突かれたようにドキリとした。

気恥ずかしさと嬉しさが同時に押し寄せてきて、どう返事をしていいか分からず、俺はただ「べ、別に……ルナ姉ちゃんは元々お針子だろ!」とそっぽを向きながら、ごまかすように曖昧に笑った。



ご覧いただきありがとうございます。

次回も明日18時頃投稿予定です


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