87.冬の足音と戻ってきた日常
町を覆っていた泥麦病の暗い影がようやく消え去り、町にはかつての日常と、それ以上の活気が戻ってきていた。
飢餓の恐怖から解放されたギルド前には、買い出しを急ぐ主婦たちの弾んだ声が行き交い、市場の店先には再び色鮮やかな野菜や黄金色の穀物が並び始めている。
ライ麦の浄化を始めてから数日後。
俺は約1週間ぶりに、我が家である孤児院へと帰還した。
「エル!! お帰りなさい!」
玄関の扉を開けるやいなや、アンが嬉しそうな声を上げて出迎えてくれる。ダニエルも駆け寄ってきて俺のお腹に抱きついてきて、その小さな背中に軽く手を置いて頭を撫でてやると、胸の奥がふっと温かさで満たされた。
夕食のテーブルに並んだのはカボチャがゴロゴロと形を残したまま煮込まれた、ミルクたっぷりの温かいシチューだった。
そして少しだけ焼きムラがあって不格好な、でもアンが一生懸命焼いてくれたライ麦の黒パン。
スプーンでシチューをすくい、素朴なパンをしっかりと噛み締めながら味わった瞬間、なぜか急に視界が熱くなり、じんわりと涙がこぼれそうになった。
もし今回の泥麦病が大事になれば、アンのこの黒パンは食べられなかったかもしれない。
そう思うと胸が締め付けられるような、じんわり温かくなるような不思議な気持ちになった。
翌朝。
いつものように心地よい朝の光が差し込む中、パコンッ、パコンッ、とリズミカルな音が窓の外から聞こえてきた。
身を起こして耳を澄ますと、すっかり体調が回復したトム兄ちゃんが、裏庭で薪を割っている音だった。その力強い響きを聞きながら、俺は深い安心感に包まれ、再び目を閉じた。
泥麦病のせいで一時的にストップしていたルナバッグ工房の建設も、一気に最後の仕上げへと動き出した。
職人たちの手によって次々と内装が整えられ、作業用の頑丈な机や椅子の搬入も無事に完了する。建物の隅々まで真新しい木の香りが漂うその場所は、週明けにはいよいよ本格始動を迎える手はずとなっていた。
これからの俺のスケジュールも、新しい形に落ち着くことになった。
午前中はこれまで通りエミルダさんの作業場に通って魔法の勉強をしながら清潔箱や冷却箱を作成する。
午後は新しく完成したルナバッグ工房へと向かう。そこで、縫製が終わったルナバッグに軽量魔法を施し、最後の仕上げを行う流れになった。
工房の新設に伴い、ルナバッグのアイデアを出したルナ姉ちゃんと俺に対して、カストルさんから毎月「小金貨1枚」の報酬が固定で支払われることになった。
平民の子供にとって、小金貨1枚が毎月確実に入ってくるというのは、もはや破格の収入と言っていい。
夕方、エミルダさんの作業場でその話を伝えると、彼女は手元の薬草を整理しながら、フッと満足そうに鼻を鳴らした。
「ふん、上出来じゃないか。まあお前たちの働きを考えれば当然の報酬さね」
「ありがとうございます! これで孤児院の生活もかなり楽になりますし、冬の備えも完璧です」
俺が嬉しそうに笑うと、エミルダさんは作業の手を止め、ふいに鋭い視線を向けて釘を刺した。
「調子に乗るんじゃないよ、エル。
お前は5年後、王都の学園に行くだろう? 特待生になれば学費や寮費は免除されるとはいえ、向こうでの生活には制服代や学用品、授業で使う魔導具の購入なんかに想像以上のお金がかかるんだよ。
浮かれて無駄遣いせず、今のうちにしっかり貯めておきな」
「は、はい……! 肝に銘じます」
エミルダさんの現実的でありがたい忠告に、俺は思わず背筋を伸ばして頷いた。
工房の準備が進むにつれて、そこで働く職人たちも続々と集まってきた。
以前、エミルダさんの作業場を間借りしたルナバッグ工房で作業を手伝ってくれた顔馴染みの職人たちを中心に、手先の器用な主婦の女性陣や少し足の悪いベテランの老人など、多様な背景を持つ人々が多数応募してきた。
カストルさんは当初、週6日勤務の常勤職人と、これまで通りの日雇いでの職人をそれぞれ募集していたのだが、どちらの枠も想定を大きく上回る申し込みがあったという。話を聞けば、中には「この工房で働くために」と、隣町に家族を残して単身で出稼ぎにやってきた若い女性たちもいるらしい。
カストルさんは急遽、自分の屋敷の敷地内にある使用人部屋を増設し、そういった出稼ぎの職人たちが安心して寝泊まりできる環境を調えた。
彼はいつもの華やかなドレスを身にまとい、朗らかな声で「若いお嬢さんを預かっておきながら、住まいも用意できないなんて、ゲミニー家の名前に泥を塗るようなものだわ」と朗らかに笑った。
そうしてカストルさんの周りには、自然と彼の商才と人柄を慕う人々が集まり、新しい雇用が着実にこの町に根付いていこうとしていた。
孤児院の家族の笑顔があり、エミルダさんの厳しい指導があり、そしてカストルさんたちと作り上げた新しい仕事の場が動き出す。
そうして短くも、あまりにも濃密で波乱に満ちた秋の季節はあっという間に過ぎ去り、町にはいよいよ本格的な冬の足音が近づいてきていた。
冷たく澄んだ空気が痛いほど頬を刺す季節のなか、俺たちはそれぞれの場所で、新しい季節を迎えようとしていた。
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次回も明日18時頃投稿予定です
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