86.手札と新たな繋がり
「エル……! 大丈夫かい、おい!」
遠くからビルさんの必死な声が聞こえた気がした。
ガクンと折れた両足は自分の体重を支えきれず、冷たい土の床に崩れ落ちている。意識がふっと沈みかけたその時肩を優しく支えられ、華やかな花のような香りが鼻をくすぐった。
「無理もないわ。あんな大量のライ麦の汚染を一瞬で根絶やしにしたんだもの。随分と気力と神経をすり減らしたでしょう?」
目の前でそう言って苦笑したのは、カストルさんだった。
彼に支えられながらゆっくりと立ち上がると、倉庫の中に積まれていた他の黒い麦の山が目に入った。まだこの倉庫や他の場所にも、処理を待つ泥麦が山ほど残っている。
「……俺、まだやります。休んでる暇なんてないです」
「バカを言いな。今日いきなり全部を浄化できるわけじゃないよ。まずは一度ギルドに戻って、しっかり体を休めなさい」
エミルダさんとカストルさんに両側から支えられ、俺はふらふらの足取りで倉庫を後にした。
しかしその次の日から、俺たちは文字通り不眠不休で清潔魔法をかけ続ける戦いが始まった。
――それから5日間のことだった。
エミルダさんの家に泊まり込み、朝から晩まで町中の倉庫を回って黒い麦を浄化していく。
最初は「本当に大丈夫なのか」と怯えていた農民たちも、黄金色に輝きを取り戻したライ麦を見て、次々と涙を流して感謝の言葉を寄こした。
もちろん、俺にこの魔法を教えてくれたエミルダさん自身も『潔』の魔法を使うことができる。
彼女が倉庫に積まれた麦に向かって指先を走らせると、眩い光が弾け、見事に泥麦病の黒ずみを消し去ってみせた。
しかし、エミルダさんは鑑定の魔法が使えないため、その麦が本当に完全に無毒化され、安全な状態になったのかを自分の目で確信することができない。
「さあ、エル。私の魔法じゃ、見た目は綺麗になっても中身の安全までは保証できない。だから……最終的な確認は、全部お前のその鑑定を通してもらうよ」
「はい、任せてください!」
そこからの俺たちは作業を分担する事にした。
エミルダさんが広範囲の麦に次々と清潔魔法を掛けて洗浄・殺菌し、その傍らを俺が走ってすべての束に鑑定魔法陣を描き、安全性を確定させていく。
分業体制をとったことで作業効率は爆発的に跳ね上がり、町中の倉庫に積まれていた膨大な量の黒い麦を、5日間かけてすべて浄化し切ることに成功した。
それが終わるとカストルさんはギルドの執務室で、領主側へ向けた短い文書をまとめていた。
「――これでよし。領主サマの役人には、『町中の泥麦の処理はすでに完了した』とだけ使いを出しておくわ」
ギルド長室の机でペンを置きながら、カストルがフッと息をついた。
その様子を側で見守っていた俺は、ふと疑問に思って尋ねた。
「あの、カストルさん。どうして領主に詳しい浄化の方法を教えないんですか? 魔法が使えるなら、もっと大々的に報告したほうが……」
俺のその素朴な疑問に、カストルは苦い笑みを浮かべ、エミルダさんが代わりに呆れたようにため息をついた。
「お前は本当に世間知らずだねぇ、エル。あんな腐り切った領主の下で、そんな便利な魔法の秘密をホイホイ差し出してみみなさいよ」
「え……?」
「あの領内ならね」と、カストルが真剣な表情で引き継ぐ。
「『お前が一人で町のすべての麦を浄化して回れ』なんて無理難題を押し付けられるのがオチよ。
それに、もし少しでも処理しきれない部分が残ったり、集中力が切れて失敗したりしたら、『お前のせいで民が飢えた』ってすべての責任を被せられて、最悪の場合は異端者扱いされて首を飛ばされかねないわ。
……手札というものはね、一番危うい時まで隠しておくものなのよ」
権力者たちのドロドロとした裏側を聞かされ、俺は思わずゴクリと生唾を飲み込んだ。確かに、あの領主のやり口を見ていれば、俺の能力なんていいように搾取されてポイ捨てされるのが目に見えている。
「でも……もし、この事を知らずに別の場所でまた黒い麦を食べてしまう人が出たらどうするんですか?
それは心配じゃないですか……?」
俺が不安そうに眉を寄せると、カストルは首を横に振った。
「その心配はね、エルちゃんがするべきものじゃないわ。この町の役人や政治家が頭を悩ませるべき仕事よ。……まあ、確かに住民が再び中毒で倒れるのは防ぎたいけれどね」
カストルは少し思案したように顎に手を当て、それからフッと微笑んだ。
「そうだわ。私の方から、実家のツテを使って『現在、市場に出回っている黒い麦には危険な毒があるから絶対に口にするな』という情報だけは、商人のネットワークを通じてこっそり流しておくわ。それだけでも被害は最小限に抑えられるはずよ」
「実家のツテ、ですか?」
俺は思わず首を傾げた。そういえば、カストルさんの実家についてはこれまであまり聞いたことがなかった気がする。
「そういえば、ルナバッグ工房のための大量の帆布も、カストルさんの実家から仕入れているんですよね? 一体、ご実家はどんなお仕事を……?」
俺がそう問いかけると、カストルは「あら?」と目を丸くした。
隣で書類を整理していたエミルダさんも、手を止めて「おや」という顔をする。
「エル、お前……フィリップから何も聞いていなかったのかい?」
「フィリップって……あの、船乗りの見習いをしている、あの……?」
「そうよ。あの子はね、私の実家が所有している船舶商会で見習いをやっているの。
つまり、フィリップの雇い主…というか、私の実家がその商会を営んでいるのよ」
――マジか。
俺は頭の中で一瞬思考が停止した。
ルナバッグの為の帆布を大量に融通してくれたのも、そもそもカストルさんがこの辺境の町でギルド長をやっている背景も、すべて彼の実家である貴族家の船舶商会と繋がっていたのか。
そして何より、あのフィリップが働いている船乗りたちも、カストルさんの実家の船に乗っているということになる。
俺がポカンと口を開けて固まっていると、エミルダさんがやれやれといった風に頭を振った。
「まったく、世間というのは狭いものだねぇ。お前の兄弟が、巡り巡ってカストルの実家で世話になっていたなんてね」
その事実を知った瞬間、俺の脳裏に一つのアイデアが閃いた。
「……待ってください。それなら――!」
俺は慌ててカストルに向き直った。
「フィリップも、エミルダさんの作業場で魔法の練習をしたとき、清潔魔法を使えるようになっていたはずです!
だったら、カストルさんからフィリップに向けて、この黒い麦の浄化方法を手紙で伝えてもらえないですか……!?
船乗りたちなら、いろんな港町や船着き場を回っているから、もし他の地域でも泥麦病が流行っていたら、フィリップがその場で浄化して教えられるかも!」
俺の熱のこもった提案に、カストルは目を見張り、そしてふっと嬉しそうに柔らかい笑みを浮かべた。
「……なるほどね。あの子にそんな真似ができるかしらと思ったけれど、エルがそこまで言うなら、試してみる価値はあるわね」
カストルは机の引き出しから上質な羊皮紙を取り出し、サッと新しい羽ペンを手に取った。
「分かったわ。弟のポリュクスに向けて、個別にこの特別な『浄化と鑑定の連携手順』について、細かく手紙を書くわ。あの子にとっても有益な情報だもの」
「お願いします!」
頭を下げる俺の横で、今度はエミルダさんが口を開いた。
「しかし、フィリップは鑑定魔法は使えないだろ?教えてもいないんだから、それはどうするんだい?」
「それはご心配なく。
我がゲミニー家には優秀な魔法使いが沢山居るの。鑑定魔法が使える人間もね。船舶商会に常駐してる人間も居るはずだから、それも合わせて伝えるわ」
カストルさんはサラサラと迷いのない手つきで羽ペンを走らせ、弟に向けた手紙を書き始める。
その様子を、俺は期待と安堵が入り混じった胸で、じっと見つめていた。
鑑定魔法と、清潔魔法、そしてカストルさんの商売のネットワークと家族の繋がり――。
それぞれの想いが一本の線で結ばれ、この町だけでなく、もしかしたらもっと広い世界へと、救いの手が伸びようとしていた。
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