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きっかけは【漢字辞典】〜名前の長い孤児が生きる、漢字が魔法になる世界〜   作者: 七瀬
第一章

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85.震える指先と冷たい水



俺たち5人はギルドの裏手へと足を進め、静まり返った倉庫街の一角にたどり着いた。

案内されたのは、粗末な木造建築が立ち並ぶエリアにある大きな倉庫だった。ルナバッグ工房の建設を予定している敷地のすぐ隣に位置しており、カストルさんが将来の商売を見据えて最近買い上げたばかりの場所だという。


「ここよ。中に入る前に、しっかりと口と鼻を塞いでちょうだい」


カストルさんがそう言って、首に巻いていたスカーフを俺に手渡してくれた。エミルダさん、ビルさん、そしてカストルさんもそれぞれハンカチでしっかりと鼻と口を覆っている。

ロンダ婆さんがスカーフをマスクの様にするのを見て、俺も同じように鼻と口を覆い、軋む重い木製の扉を押し開けて中へと足を踏み入れた。


一歩足を踏み入れた瞬間、鼻腔を突いたのは、むせ返るような強烈なカビのような臭いと、湿った土のような澱んだ空気だった。

薄暗い倉庫の床には、幾重にも束ねられた濡れたライ麦の束が、まるで処理を待つ粗大ゴミのように乱雑に積み上げられていた。その異様な光景に、思わず息が詰まる。


「……ひでぇだろ。

乾くとこの黒いのが舞い上がるからって、日に四回は必ず水をぶっ掛けて濡らすように言ってある。

だから倉庫の片隅には、こうして水用の大きな樽とバケツが置いてあんだ」

ビルさんが眉をひそめながら続けた。


「にしても……燃やすにしても乾かないと燃やせないが、乾くと毒が舞い上がる。厄介な代物だ」


指し示された方を見ると、倉庫の隅には俺がすっぽり入れるほど大きな木製の樽と、無造作に放り投げられたバケツが置かれていた。

さらに足元に目を凝らすと、麦を濡らした水と、そこから溶け出した胞子が混ざり合い、濁った真っ黒な水が土の床を汚していた。ほんの一歩間違えば、自分たちがこの猛毒の胞子を吸い込んでしまうという恐怖が、背筋を駆け抜ける。


「エル、やってごらん」


エミルダさんが静かに言った。俺は大きく息を吸い込み、まず鑑定の魔法を発動させることにした。


右手の指先に全意識を集中させる。空間に指を走らせ、金色の筆跡で最後の一画を描ききった瞬間、目の前の空間に眩い金色の光がパッと弾け、柔らかい光を放つ文字の羅列が空中に浮かび上がった。


【《泥麦病》に感染した《ライ麦》】


俺は迷わず、その銀色に光る【泥麦病】の文字に指先で触れた。

瞬間、視界がカッと広がり、脳内に詳細なデータがまるで辞書のページをめくるように展開されていく。


【泥麦病】

概要:ハエなどの虫を媒介として発生するライ麦特有の感染症。小麦や大麦など他の麦へは発生せず、《ライ麦》にのみ特異的に発生する。

特徴:宿主の生育を遅らせ、出穂すると黒いカビのような胞子を麦穂に発生させる。


〈主な症状・リスク〉

胞子を口や鼻から吸い込んだり、汚染された麦を摂取することで、《泥麦中毒》を発症する。


〈対処法〉

■感染が確認され次第、速やかにその周辺の麦の苗を刈り取り、焼却処分を行うこと。

■刈り取る際は胞子を吸い込まないよう、鼻や口を布などで覆って作業を行うこと。

補足:乾燥した状態では風に胞子が舞いやすいため、穂が濡れた状態(雨天や早朝など)で行うのが望ましい。


脳裏に流れ込んできたデータは、先日確認したものと何一つ変わらない。絶望的なまでに重い、取り返しのつかない事実だった。

だが、俺にはこれを取り除くためのもう一つの魔法がある。


――『潔』


初めて清潔箱を作った時の記憶が蘇る。

あの時、頭に思い描いたのは日本の記憶にあった2つの機械だった。


洗濯乾燥機のようなただの洗浄機能だけでは、目に見えないカビや胞子を完全に根絶やしにするには少し頼りない。もう一つ思い出したのは、皮膚科のスリッパ入れや、銭湯のブラシを消毒していた「光の殺菌灯」の記憶だった。


なぜあれで雑菌が死ぬのか当時はよく分からなかったが、あの徹底的な光による殺菌と、洗濯乾燥機のパワフルな洗浄力を組み合わせれば、この厄介な汚染も丸ごと消し去ることができる。


しかし、今回はそれだけではない。

ただの消毒や殺菌ではない。目指すのは、毒素を完璧に分解し、元の「黄金色に輝く美しいライ麦」へと完全に再生させることだ。


(……できる。僕ならできるはずだ……!)


俺は頭の中で理想の「黄金のライ麦」の姿を強くイメージし、再び意識を指先に集中させた。

そして『潔』の魔法陣を一画、一画、丁寧に空間へ描きはじめる。


一画目。金色の光の線が走る。

二画目、三画目……。


だが、文字の輪郭が形作られていくにつれて、俺の心臓の鼓動が嫌な音を立てて激しくなり始めた。

ふと、頭をよぎる。


――もし、失敗したらどうなる?

もし、この魔法がうまくいかず、ただの徒労に終わったら?


今この瞬間も中毒に怯え、飢えと不安に震えている人たちがいる。この冬を越えられずに命を落としてしまう人が出てくるかもしれない。

そんな考えが頭を支配した瞬間、集めていた魔力がふっと霧散し、指先の金色の文字が途中でかき消えるように消えてしまった。


「っ……!」


手元が狂い、冷や汗が一気に額から噴き出す。

指が、カタカタと情けなく震えていた。息がうまく吸えない。目の前がぐらりと揺れたような気がした。


「おい、エル……! 大丈夫か、顔色が真っ青だぞ……!」


後ろから心配そうなビルさんの声が飛んできた。

しかし、それを遮るように、エミルダさんが静かに、けれど厳格な声でビルさんを制した。


「……静かにしな。あの子の邪魔をしてはいけないよ」


エミルダさんのその言葉に、ビルさんはぐっと口をつぐんだ。


(ダメだ……こんなところで怖気づいてどうする……!)


俺はみんなの視線を感じながら、自分の不甲斐なさに奥歯を噛み締めた。

恐怖やプレッシャーに飲まれていたら、魔法なんて発動しない。雑念を断ち切れ。

前世の記憶でも、今世の覚悟でもいい。とにかくこの雑念を振り払わないと。


俺はふと振り返ると、片隅に置かれていた水用の巨大な木製樽へと歩み寄った。

周囲が「おい、何をする気だ……?」と息を呑む中、俺は樽の横に置いてあったバケツを手に取り、そこにたっぷりと溜まっていた冷たい水を勢いよくすくい上げた。


そして――迷うことなく、その冷水を自分の頭からザブッと被った。


「……っ!」


真冬の氷水とはいわないまでも、冷え切った倉庫の井戸水は芯まで凍るように冷たかった。

頭から滴る水滴が頬を伝い、びしょ濡れになった髪が額に張り付く。全身の毛穴が一気にキュッと縮み、頭のてっぺんから足の先まで、文字通り一気に冷やされた。


でもそのおかげで、さっきまでグルグルと嫌な方向へ回っていた頭の中が、嘘のように研ぎ澄まされていく。恐怖もプレッシャーも、冷たい水とともに一気に洗い流されたような感覚だった。


「……ふうっ……!」


俺は大きく息を吐き出し、濡れた前髪を乱暴に手で掻き上げた。

振り返ると、カストルさんやビルさんたちが驚きに目を見開いてこちらを見つめている。だが、もう迷いはなかった。


俺はびしょ濡れのまま、再びあの真っ黒に汚染されたライ麦の束の前に歩み寄った。

そして、今度こそ一切の雑念を捨て去り、右手の指先にすべての魔力と集中を極限まで研ぎ澄ませて叩き込む。


(頼む……! 綺麗になってくれ……っ!)


頭の中で描くのは、完璧な殺菌、徹底的な浄化、そして黄金色の輝き。

『潔』の一文字を、最初の一画から最後の一画まで、一息に、迷いのない完璧な筆致で空間へと描ききった。


その最後の一画が描き終わった瞬間――。


カッ!! と、薄暗い倉庫の内部が、太陽の何倍もの眩しさを放つ圧倒的な金色の光に包まれた。

あまりの強烈な光に、俺は思わず反射的に両腕で目を覆い、その場で強く目を瞑った。倉庫の隙間から漏れ出る光が外まで届いたのか、外にいたらしい誰かの驚きの声がかすかに聞こえたような気がした。


激流のような光が収まるまで、ほんの数秒の時間が永遠のように感じられた。

ゆっくりと、恐る恐る目を開ける。


そこに広がっていた光景を見て、俺は息を呑んだ。


薄暗い倉庫の中。

先ほどまで不気味な黒い泥に覆われていたライ麦の束は、その禍々しい黒ずみが嘘のようにすっかり消え去っていた。濡れているせいか、黄金色とは言わないまでも、先ほどより明らかに色が薄くなり、かつての健康的な穀物の姿を取り戻そうとしている。


さらに驚くべきことに、足元の土の床を汚していたあの真っ黒で不気味な排水の澱みも、跡形もなく綺麗に浄化され、ただの濡れた土に戻っていた。


「……うそ、だろ……」


ビルさんが絶句したような声を漏らす。

エミルダさんは静かに目を細め、カストルさんは両手で口元を押さえたまま、言葉を失いその光景を見つめていた。


俺はまだ震えている右手を伸ばし、もう一度、そのライ麦に向けて震える指先で鑑定の魔法を発動させた。


――『鑑』。


金色の光が小さく瞬き、目の上に新しい文字の羅列が浮かび上がる。

そこには、先ほどまで表示されていた恐ろしい文字はなかった。


【ライ麦】

イネ科の栽培植物で、穎果を穀物として利用する。食用や飼料用として広く栽培される穀物である。寒冷な気候や痩せた土壌などの劣悪な環境に耐性があり、小麦の栽培に不適な地域や季節でも栽培が可能。


そこにはただ、『ライ麦』という純粋な名前と、本来の健全なデータだけが記されていた。


毒素は消えた。泥麦病は死滅した。

このライ麦はもう、誰も傷つけない。ただの人々の命を繋ぐための、安全な穀物に戻ったんだ。


その確信を得た瞬間、張り詰めていた糸がプツリと切れたように、俺の体の力が一気に抜けた。

支えを失った両足がガクンと折れ、俺は膝から崩れ落ちるように、冷たい床へとへたり込んだ。


「エルちゃん……!」


カストルさんたちの慌てた足音が聞こえてくる。口々に声を掛けてくれるけれど、俺の耳にはもう遠くの音のようにしか届かなかった。

俺は冷たい床に手をつきながら、ふぅっと長い息を吐き出した。



ご覧いただきありがとうございます。

次回も明日18時頃投稿予定です


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