82.ウールのブランケットとヤギのミルク
空がすっかり濃紺の夜闇に染まっても、ロンダ婆さんの店の奥ではランタンの明かりが煌々と揺れていた。
俺とロンダ婆さんは、棚に並ぶ無数のガラス瓶を一つひとつ手に取り、解毒効果があるとされる薬草や香辛料を片っ端から鑑定魔法で調べ続けていた。
「この薬草は解毒の反応が早いけど、その分継続利用には向かないって……」
「こっちはどうだい、坊主」
「うーん、これもダメだ。心の臓への負荷が高すぎて、衰弱した体には耐えられない……」
「なら…こっちは?」
「これも妊婦には禁忌だって……」
「母体にとっちゃ、胎の子は異物と捉えられる事もあるって言うからねえ……」
カチャカチャと瓶が触れ合う音が、静まり返った夜の店内に響く。
解毒作用が強く、それでいて母体や胎児に悪影響を与えない奇跡のような薬を探す。頭が割れそうに痛むほど魔力を使い続け、文字通り無数のデータを脳内で処理し続けた。
どれくらい時間が経っただろうか。
窓の外の空気が少しずつ冷たさを失い、濃紺の闇がうっすらと淡い紫色へ移り変わろうとする朝方――。
「……っ、ふぅ……」
限界を超えた魔力の消耗と疲労感に耐えきれず、俺は電池が切れたようにその場で意識を手放した。
次に目を覚ました時、耳に飛び込んできたのは野太いヤギの鳴き声と、庭先を駆け回る鶏の賑やかな声だった。
「ん……あれ……?」
寝ぼけた頭で体を起こそうとすると、自分の体にフワッと軽い感触のものが重なっているのに気づいた。見ると、俺の肩には温かい毛糸のブランケットが丁寧に掛けられていた。
あたりを見回すと、いつの間にか店の奥にある古びたソファーの上に寝かされていたらしい。
俺は慌ててブランケットを畳み、ちょうどキッチンの方から作業の音が聞こえてきたのでそちらへと足を向けた。
「おや、起きたかい、寝坊助さんよ」
フライパンで卵を焼きながら、ロンダ婆さんが振り返ってフッと笑った。
「あの、これ……ありがとうございます。ソファー、使っちゃってすみません……」
「いいさね、小さい子供が真っ暗になっても働いたんだ。それくらい当然だろ。ほら、そこに畳んで置いておきな」
ロンダ婆さんに言われた通り、俺は畳んだブランケットをソファの端にちょこんと置いた。
すると、テーブルの上には湯気の立つ温かい朝食が用意されていた。
こんがりと焼かれた卵に、香ばしい黒パン、そしてカップに注がれた真っ白なミルクが並んでいる。
「お腹が減ってるだろ。食べな」
「いただきます!」
俺は、まずはカップのミルクを一口飲んで思わず目を見張った。
「んっ……!? このミルク、いつも孤児院で飲んでるやつと味が全然違う……! なんか、すごく甘くて味が濃い……!」
俺の反応を見て、ロンダ婆さんは得意げに鼻を鳴らした。
「当たり前さね。そいつは牛の乳じゃなくて、ウチの庭で飼ってるヤギのミルクだからね」
「ヤギ……?」
へぇと思いながら、俺は思わず首を傾げた。
「あの、どうしてヤギなんですか? ミルクにするにしても肉にするにしても、牛のほうが体が大きくて色々取れる気がするんですけど……」
それを聞いたロンダ婆さんは、私のこの老いぼれた体で、あんなでかい牛を一人で捌くなんざ無理な話さね。とガラガラと笑った。
「それに、ヤギはいいのさ。毛を刈れば、自分で糸を紡いでこういう毛布や衣類が作れるからね」
そう言って、婆さんはさっき俺が畳んでソファーに置いたブランケットを、あごでしゃくってみせた。
「それにねぇ、ヤギの乳ってのは、使い道が驚くほど多いのさ」
ロンダ婆さんは自分の手元のカップに口をつけ、懐かしそうに目を細めた。
「あたしはこうして薬屋をやっているがね、この辺りじゃ『産婆』も兼ねているんだよ。お産のときに母親の乳がうまく出ないなんてことはよくある。
そんな時、牛の乳じゃ赤ん坊の胃腸には少し重すぎるが、ヤギの乳なら母乳に近くて赤ん坊の体に馴染むのさ。だから、いざという時に分けられるようにこうして飼っているのさね」
「へぇ……! ロンダ婆さん、薬だけじゃなくて、お産の世話までしてたんだ……」
産婆という言葉を聞いた瞬間、俺の頭の中で昨夜から引っかかっていた疑問が急に膨れ上がった。
「あの、ロンダ婆さん。さっきから気になってたんですけど……アボリーリーの『子宮収縮』って、具体的にどういうことなんですか?」
俺の問いに、ロンダ婆さんは手元のスプーンを止め、少し真剣な顔つきになった。
「おや、お前さんはそこが気になってたのかい。……まず子宮っていうのはね、女の人がお腹の中で赤ん坊を育てる部屋のようなものさ。そこが収縮するってことは、つまり、お腹のなかがギュッと急激に縮こまるってことだね」
「ギュッと……?」
「あぁ。妊娠中に、お腹がカチカチに硬くなって張る状態になるんだよ。アボリーリーみたいな強い薬はそれを無理やり起こさせるから危険なんだけどね……。でもね、そんな劇薬を使わなくたって、人間の体ってのはデリケートなのさ。
過酷な労働で疲れたり、体が芯まで冷え切ったりしただけでも、お腹が張って子宮の収縮が起きちまうことがあるんだ。だから妊婦には、冷えや無理な労働は大敵なのさね」
孤児院という環境で育った俺は、小さな子供や赤ん坊は見慣れていても、妊婦の体の内側の変化なんて知る由もなかった。
前世の日本でも妊婦さんが身近にいた事は無かったような気がする。婆さんの説明を聞いて、ようやくその恐ろしさがリアルに実感できた。
「じゃあ……もし、そんな風にお腹が張ってしまったり、冷えたりしたら、どうするんですか?」
俺が尋ねると、ロンダ婆さんはふっと含みのある笑みを浮かべた。
「言ったろ? ヤギのミルクは使い道が多いのさ」
婆さんは立ち上がり、キッチンの棚から大きな瓶を二つ差した。
「アーモンドと、それから胡桃をすり鉢で細かく挽いてね。それをこのヤギのミルクでじっくり煮立てて温かいスープにして飲ませると、冷えた体が芯から温まって、お腹の張りがウソみたいにスッと落ち着くことが多いのさ。昔からの、産婆の知恵ってやつさ……」
その言葉を聞いた瞬間――。
俺の脳内で、昨夜から『鑑』で調べ続けた膨大な薬草や栄養素のデータが、カチリと音を立てて噛み合った。
隣に立っていたロンダ婆さんも、同じようにハッとした顔で目を見開き、そして同時に――テーブルの上のカップに入った真っ白なヤギのミルクを、びしっと指差した。
「「あっ……!」」
声が重なった。
俺の胸の内で、心臓がバクバクと激しい音を立て始める。震える指先でカップのミルクを示しながら、俺は息を呑んで叫んだ。
「ロンダ婆さん……! もしかして、それ……! それにあのアボリーリーを煎じたら、どうなると思う……!?」
俺のその言葉に、コクコクと小刻みに首を縦に動かし、そしてこれまでにないほど深く、不敵な笑みを浮かべた。
「……おや、面白い事考えるねぇ。しかし坊主、あたしも同じこと考えたよ。
……フッ、やってみるかい?」
婆さんはすぐにキッチンへ引き返し、戸棚からアーモンドと胡桃の入ったガラス瓶を掴むと、力強く振り返った。
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