奮闘と、冷酷な現実
カストルさんが領主への直訴に旅立ってから、丸一週間が経とうとしていた。
その間、ギルドの前には毎日大鍋が据えられ、湯気が絶え間なく立ち上っていた。
俺の提案で作られた「経口補水液」――嘔吐や下痢で失われた水分と塩分を効率よく体に吸収させるための飲み水に、ロンダ婆さんが調合した妊婦用の煎じ薬、そして一般用のアボリーリーの実を溶かし込み、町の人々へ配るための拠点と化していたのだ。
「しかしエル、水に塩、それに糖分を調合するなんて、一体どこでそんな知恵を身につけたんだい?」
大鍋をかき混ぜながら、ロンダ婆さんが渋い顔で俺に尋ねる。
「あ、ええと……! 鑑定の魔法で、そういう知識が頭に入ってきたんだよ!」
俺は視線をそらしながら慌ててごまかした。前世の知識などと言えるわけもなく、すべては魔法の力だと言い張るしかない。実際、先行してそれを飲ませているトム兄ちゃんは、あれほど苦しんでいた脱水症状が引き、徐々に血色が戻ったのだから説得力は十分だった。
はじめ、俺は「苦しんでいる人たちなのだから、薬はすべて無料で配ってもいいのでは?」と主張した。
しかし、それを聞いた副ギルド長のビルやロンダ婆さんには、即座に反対された。
「甘いこと言うんじゃないよ、エル坊」と、ロンダ婆さんは鼻を鳴らした。「こんな状況でタダで薬を配りゃあ、どうなるか分かったもんじゃないね。我先にと買い占めて、裏で法外な値段で転売するクズが必ず出てくる。本当に必要な人に行き渡らなくなるのさ」
「そうだ。だからこそ、適正な対価を払う必要がある」
と、副ギルド長もうなずいた。「平民の日当より少しだけ上、エールの大瓶一本分くらいの値段……小銀貨2枚にしよう」
薬の効き目や砂糖の価格を考えれば破格の安さだが、それでもタダではない。この価格設定のおかげで、買い占めを防ぎつつ、本当に必要な人に行き渡らせることができた。
そして、一番の問題はその大量の製薬に必要不可欠な「大量の砂糖」だった。
かつてルナバッグの報酬として手に入れた貯えから大金貨3枚を捻出しても、それほど多くの量を買うことはできそうになかった。
頭を抱える俺に、にやりと笑ったロンダ婆さんは、俺の手からその大金貨をさっとすくい取り、市場の裏道に消えていった。
しばらくすると、ロンダ婆さんの引く荷車には、精製前の二級品の黒糖に近いものが大量に載せられていた。ロンダ婆さんが独自のツテを頼り、顔馴染みの商人に無理を言って値切ってもらい、どうにかそれをかき集めて確保したらしい。
限られた資金と人脈を総動員して支え合ったその地道な努力の甲斐あって、6日目を迎える頃には、町中で寝込んでいた患者のほとんどが劇的な回復を見せ始めていた。孤児院のベッドで静養していたトム兄ちゃんも、今ではすっかり顔色が良くなり、食堂の椅子に座ってスープを啜れるまでに戻っている。
――しかし、すべての不安が消え去ったわけではなかった。
ギルドの片隅で、重苦しい空気が漂っていた。
「……頼む、何とかしてくれ……!」
青ざめた顔で頭を下げ続けるのは、一人の若い農夫だった。彼の妻はもともと体が弱く、さらに妊娠初期のつわりが酷かったため体力もなく、泥麦病の中毒症状を人一倍重く受けてしまっていたのだ。
町中の人々が快方に向かう中、その女性だけが今だに高熱と激しい嘔吐の末に意識を失い、いよいよ命の危機に瀕していた。
「手遅れになる前に……アボリーリーの薬を使ってくれ! 流産したっていい、カミさんの命を助けてくれ……っ!」
男の必死の懇願に、周囲の空気が凍りついた。
アボリーリーは強力な子宮収縮作用を持つ。つまり、それを飲ませればお腹の赤ん坊はほぼ確実に失われる。母親の命を救うための苦渋の選択だった。
その場に居合わせたロンダ婆さんは、その家に出向き険しい顔のままベッドに横たわる妊婦を診察したが、やがてゆっくりと頭を振った。
「……厳しいね。身体が弱りすぎている。アボリーリーの子を流す力は体力も奪うんだ。これ以上体力を奪うのは得策じゃないね……」
「そんな……そんなこと……!」
夫はその場に崩れ落ち、嗚咽を漏らした。
俺は唇を噛み締め、拳を固く握りしめた。これだけの薬を作って、多くの人を救ってきたのに、目の前で失われようとしている命を救えない。鑑定の魔法があっても、どうすることもできない現実が突き刺さる。
誰もが絶望の淵に沈みかけた、その時だった。
轟音のような蹄の音が遠くから響き渡り、ギルドの前で止まった。
ガチャンッ! と、ギルドの重い正面扉が乱暴に押し開けられた。
「――っ、はぁ、はぁっ……!」
荒い息を響かせながら、そこに立っていたのはカストルさんだった。
しかし、いつもの華やかなドレス姿とは打って変わり、男性としての正装だが、それも泥まみれに汚れている。顔色は青白くやつれきっており、あまりの憔悴ぶりに誰もが言葉を失って彼女を見つめた。
カストルはフラフラと足元をよろつかせながらロビーに入ると、血走った目をエミルダや俺に向け、震える声で絞り出した。
「……ダメ、だったわ……」
その絶望的な一言に、ギルド内の空気が完全に凍りついた。
「役人の答えは……『孤児のたわごとなぞ、信じるに値しない』……それだけだったわ……」
領主側は、彼らの必死の訴えを――泥麦病の恐怖も、人々が苦しんでいる現実も、すべて鼻で笑って一蹴したのだった。
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