79.混乱の渦
ギルドのロビーに足を踏み入れた俺の目に飛び込んできたのは、まさに地獄絵図のようなパニックの光景だった。
いつもなら仕事の依頼書や冒険者たちの喧騒で賑わうはずの空間が、怒号と悲鳴、そして不安に狂いかけた農民たちの叫び声で完全に埋め尽くされている。
「どうしてウチのカミさんには薬をくれねぇんだ!」
「麦が病気だなんて嘘だろ!? じゃあこの一年の俺たちの生活はどうなるんだよ!」
「ふざけるな! デタラメを並べて買い取りを拒否する気か!」
カウンターの向こう側では、職員たちが慌てた様子で対応に追われ、頭を抱え込んでいた。副ギルド長のビルさんが必死に声を張り上げて群衆を宥めようとしているが、パニックに飲まれた人々の耳には全く届いていない。
カストルさんは昨日から役人の元へと直訴に走ったままで、まだ帰還していないらしい。
彼がいない今、この混乱を鎮められる決定的な証拠を示せるのは――ここにいる人間の中で、俺の鑑定しかなかった。
でも、その鑑定魔法こそがこの混乱を産み出していると思うと思う様に声が出なかった
「みんな、落ち着いて聞いてよ……!」
俺は精一杯声を張り上げ、群衆の前に飛び出そうとした。だが、その声は怒号にかき消され、誰一人として聞き入れてはくれない。
それどころか、血走った目を向けた屈強な農民の一人が、苛立ちに任せて俺を睨みつけた。
「ガキの言うことなんて信用できるか」「ふざけた悪戯を並べ立てて、一体何のつもりだ!」「こんなガキの言うデタラメに踊らされてたまるか!」
疑いの声が、怒号に変わって俺へと襲いかかる。
背筋が凍るようなプレッシャーに足がすくみかけたその時だった。
「――そこまでにするんだ。汚い声を張り上げるんじゃないよ、お前たち」
凛とした、しかし貫禄を感じさせる低く響く声が、ギルドのロビーの空気を一発で切り裂いた。
その声の主の方へ、群衆の視線が一斉に引き寄せられる。
割れた波のように群衆が左右に分かれると、そこから現れたのは、いつも気だるげにギルドの入口に陣取っているエミルダさんと、そしてあの偏屈で鳴らすロンダ婆さんの二人だった。
「エミルダさん……! ロンダ婆さん……!?」
俺が驚きに目を見張る中、エミルダさんはいつもの涼しげな表情のままゆっくりと歩み出て、俺の前に立った。そして、集まった農民たちを冷ややかに見据えて声を張り上げる。
「この子が言っていることは、一言一句すべて本当だよ。あの子の持つ鑑定の魔法に狂いはない。あの黒い麦は『泥麦病』に冒されている。間違っても、口に入れたり吸い込んだりしちゃいけない代物さね」
エミルダさんが言い切ると、その隣でロンダ婆さんがふんと鼻を鳴らした。
「そうだねぇ。アタシの店にある香辛料も薬草も、この坊主は一発ですべて正確に言い当ててみせた。こんなガキの悪戯だと喚く暇があるなら、耳の穴をかっぽじって現実を見るんだね。お前らが干してるあの麦は、毒の塊だよ」
貴族であるエミルダさんと、町で一番の年嵩であるロンダ婆さんが揃って太鼓判を押したことで、さっきまで暴れていた農民たちの怒号が徐々に鎮まり始めた。どよめきが広がり、人々は気まずそうに顔を見合わせる。
「だがよ……! じゃあ俺たちの妊婦の女房はどうなるんだよ! あの薬は妊婦には使えねぇって聞いたぞ!」
誰かが恐怖に引きつった声で叫んだ。
その言葉を聞いた瞬間、俺の胸がズキッと痛んだ。そうだ、トム兄ちゃんにはアボリーリーが効くけれど、お腹に子供を宿した女性たちには絶対に使えない。
俺はたまらず、エミルダさんに向かって一歩踏み出した。
「エミルダさん! アボリーリーが使えない妊婦さんたちには、何か治療魔法が使えないの!? このままじゃ……!」
俺の必死な問いかけに、エミルダさんは悲しげに、しかしハッキリと首を横に振った。
「ダメだね、エル。そもそも妊婦自身が魔力や魔法を無理に身体に巡らせるのが良くないのと同様に、外から治療魔法を施すのも、母体やデリケートな胎児の身体には刺激が強すぎる。かえって悪影響を及ぼすとされてるんだよ」
「そんな……じゃあ、打つ手は無いってことかよ……!」
絶望しかけた俺の肩を、ぽんと叩く者がいた。振り返ると、ロンダ婆さんが険しい顔のまま、しかしどこか力強い目で俺を見ていた。
「絶望するのはまだ早いねぇ、坊主。
……確かに、アボリーリーほど劇的な効果はないし、完全に病を消し去るわけにはいかないがね。だが、妊婦の身体に障らない、安全な下痢止めや吐き気を抑えるだけの煎じ薬なら、なんとかできないことも無いよ」
「本当……!」
「あぁ。伊達に年取ったわけじゃないさ。任せておくれ」
ロンダ婆さんの心強い言葉に、周囲の空気が少しだけ和らいだ。
その様子を少し離れた場所から見ていたエミルダさんは、フッと小さく笑うと、ロンダ婆さんの方に視線を向けた。
「相変わらず口が悪いねぇ、ロンダ姉さん。貴族嫌いのアンタが、よくここまで来てくれたもんだ」
エミルダの言葉に、ロンダ婆さんはチッと小さく舌打ちをした。
「ふん、アタシは貴族なんて人間は一様に大嫌いさね。人の苦しみも知らずにふんぞりかえっている連中ばかりだからねぇ。
だがね、エミルダ、お前が信用できると言うなら……この坊主の事は信用してやろう。お前さんは貴族にしちゃずいぶんまともな様だからね」
そうロンダ婆さんに視線を向けられると、「私なんかよりねぇ……」とエミルダさんは意味ありげに笑みを浮かべ、窓から見える山をちらりと一瞥した。
「今、この町のために一番泥まみれになって動いてくれているのは、アタシたちよりももっと信頼できる、もう一人の『貴族』だよ」
「……はっ?」
エミルダさんのその言葉に、ロンダ婆さんは怪訝そうに眉根を寄せた。
「お前がそこまで言う人間なんて、どうせまた気まぐれな食えない貴族の坊っちゃんか何かだろうさ。一体、誰のことだい?」
「ふふ、そりゃぁカストルことさ。あの子は寝ずに山を超えて領都に馬を走らせてるよ。領主のところへ直訴しに走ってくれたのさ。誰よりも誇り高い、立派な貴族だよ」
エミルダさんがそう告げた瞬間、ロンダ婆さんはまるで信じられないものを見るような目をし、そして――盛大に顔をしかめて吐き捨てるように言った。
「ほう……?あのカストルがねぇ……
あんな派手なドレスを引きずって、頭から変な飾りをつけた、けったいな格好をした狂装者がねぇ」
「そうさ、あの子のセンスはともかくとして、根性は本物さ」
それを聞いた俺はグッと拳を握りしめ、自分にできる次の行動へと意識を切り替えた。
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