78.安堵と混乱
いつの間にか、俺はトム兄ちゃんのベッドに凭れるようにして眠り込んでしまっていたらしく、気が付くと鶏の鳴き声と窓からの光で目が覚めた。
「ん……あれ……?」
寝ぼけた頭で体を起こそうとしたが、両肩にずっしりと重い違和感があった。見ると、そこには見覚えのある粗末な毛布が丁寧に掛けられていた。
視線をずらすと、すぐ隣の簡易ベッドにはトム兄ちゃんが横たわっている。昨日の朝、苦痛に歪んでいたその顔は穏やかな寝息を立てており、頬にはしっかりと血色が戻っていた。呼吸も荒くなく、額に手を当ててみれば、熱はすっかり引いている。
「……よかった……。本当に、効いたんだ……」
安堵のあまり、全身から力が抜け、大きく息を吐き出した。
カチカチと固まっていた体をほぐすように大きく伸びをすると、ふと食堂の方から話し声や、食器が触れ合う賑やかな物音が聞こえてきた。
俺は毛布を畳み、ベッドの上のトム兄ちゃんの毛布もそっと掛け直してから、食堂へと足を向けた。
食堂の扉を開けると、そこではアンが忙しそうに鍋をかき混ぜていた。エプロン姿の彼女は、俺の姿に気づくとふっと呆れたような、でもどこかホッとしたような顔で振り返った。
「やっと起きたのね、エル。昨日、夕方に帰_り着いたきり、トム兄ちゃんの部屋にずっと籠もりっきりだったじゃない。心配で見に行ったら、エルまでトム兄ちゃんの横でぐっすり眠ってたんだもん」
アンの言葉に、俺は気まずそうに頭を掻いた。
「あはは……ごめん、アン。ちょっと疲れちゃってさ」
すると、食堂から籠に入れた洗濯物を持ったルナ姉ちゃんが顔を出し、心配そうな顔で声を掛けてきた。
「ホントよもう。あたしとアンじゃ、エルをベッドに運ぶのなんて無理だったから、せめて風邪をひかせないように毛布だけは掛けたけどさ……。エル、あんた昨日からろくに食べてないでしょ? 自分まで倒れたりしないでよ?」
「うん、平気だよ。見てのとおり、すごく元気だから!」
俺が笑って見せると、ルナ姉ちゃんはやれやれと肩をすくめて作業に戻ろうとする。俺はそれを呼び止めると椅子に腰を下ろし、昨日から起きていた出来事を二人に詳しく説明した。
町中で流行っている病気が「泥麦病」という麦の病気であること。そして、ロンダ婆さんの店で手に入ったアボリーリーの実を煎じて飲ませたおかげで、トム兄ちゃんがこうして快方に向かっていること。もちろん、アンとルナ姉ちゃんには「妊婦には絶対に使っちゃいけない劇薬の効果がある」という点についても、厳重に言い聞かせておいた。
「――ってわけなんだ。だから、アボリーリーの効果は確かだし、トム兄ちゃんももう大丈夫だと思う」
ホッとした表情のルナ姉ちゃんとは裏腹に、アンの顔色は悪く、小さく手が震えているのが見えた。
丸一日近く何も口にしていなかったせいか、緊張が解けた途端、激しい空腹感が一気に押し寄せてきた。
自分の腹の音を聞いたアンは、呆れたようにため息を吐きながらも、すぐに温かいスープの入った木製の器を俺の前にドンと置いてくれた。
「はいはい、これでも食べて落ち着きなさい。ほんと、危なっかしいんだから」
「ありがとう、アン!」
俺はスプーンを手に取ると、具だくさんのスープをかき込むように夢中で口に運んだ。染み渡るような温かさと優しい塩気が、空っぽの胃袋に染み渡っていく。生き返るような心地がした。
食事を終え、一息ついた俺は、懐から大切に包んでいたアボリーリーの入った小さな布袋を取り出した。
「アン、これ。ロンダ婆さんから分けてもらったアボリーリーの残りだ。煎じれば泥麦病の吐き気や下痢に効くけど……さっきも言った通り、絶対に妊婦さんには近づけちゃダメだからね。使い方を間違えると大変なことになるから、大事なところにしまっておいて」
アンは少し緊張した面持ちでその布袋を受け取り、こくりと頷いた。
「わかったわ。大切に保管しておくし、誰にも変な使い方はさせないようにする」
孤児院の家族たちが無事で、トム兄ちゃんも回復に向かっている。それを確認して安心した俺は、次に自分がやるべきことを思い出した。
カストルさんは昨日、代官のところへ直訴しに馬を走らせたはずだ。町全体の麦畑が泥麦病に侵されていると判明した今、町がどう動いているのかを確認しなければならない。
「それじゃあ、ちょっとギルドに行ってくる!」
「気をつけていってらっしゃい!」
アンとルナ姉ちゃんに見送られ、俺は孤児院を飛び出した。
朝の爽やかな空気を吸い込みながら、俺は足早にギルドの建物へと向かった。昨日は閑散としていた通りにも少しずつ人が戻り始めているが、誰もが顔を青くし、不安そうな目を漂わせている。
やがて見えてきたギルドの扉を押し開けた瞬間、俺は自分の目を疑った。
――そこは、まるで戦場のような騒然とした空間になっていた。
いつもなら仕事の依頼票を見つめる冒険者たちがたむろしているはずのホールが、怒号と悲鳴と、苦情を訴える農民たちの叫び声で埋め尽くされている。
「どうしてウチのカミさんには薬をくれねぇんだ!」
「麦が病気だって?じゃあこの一年の俺の稼ぎはどうなるんだ!」
「あの薬、もっと寄越してくれ!」
カウンターの向こう側では、職員たちが血走った目で対応に追われ、頭を抱え込んでいた。
(……すごいことになってる……!)
カストルさんの直訴が受け入れられ、役人が動き出したのか、あるいは俺の鑑定がパニックを引き起こしてしまったのか。
俺は圧倒的な熱気と混乱に満ちたギルドのロビーに足を踏み入れ、息を呑みながらその中へと進んでいった。
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次回も明日18時頃投稿予定です
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