77.禁断の果実
「アボリーリー……? あんた、それがどういうものか分かってて口にしてるのかい……?」
ロンダ婆さんの低い声が、薄暗い店内の空気を凍りつかせた。
厚底の眼鏡の奥から放たれる鋭い視線は、冷たい刃物のようで、俺の背筋に冷たいものが走る。隣に立つ副ギルド長――ビルさんも、ただならぬ気配を察してごくりと喉を鳴らした。
「……ロンダ婆さん、落ち着いてくれ。俺たちは冷やかしで来てるわけじゃない。今、町で流行ってる『泥麦病』の治療に必要なんだ」
「ふん、泥麦病かい。そんな病気聞いたこともないね。それに、アボリーリーがどういう代物か、お前さんは本当に分かって言ってるのかい? 貴族の気まぐれか何か知らないが、迂闊に口にしていい名前じゃないよ」
婆さんは腕を組み、不機嫌そうに鼻を鳴らした。それがただの薬草や木の実ではないということが、彼女のそのまなざしが雄弁に物語っていた。
でも、ここで引き下がるわけにはいかない。トム兄ちゃんが苦しんでいるのだ。
俺は一歩前に出て、カウンターに両手を突いた。
「嘘じゃないんだ! あの黒いライ麦の粉を吸うと高熱と下痢、そして嘔吐が起きる。みんな苦しんでるんだよ!
鑑定の魔法に書いてあったんだ、アボリーリーの実を煎じればその症状が収まるって……!」
「ほう……ガキがずいぶんと大きな口を叩くもんだね。誰がそんな絵空事を信じるいってんだい。お前さんが大層なことを言おうと、貴族の回し者だろうと、アボリーリーのようないわくつきの品をポンと渡すわけにはいかないね」
ロンダ婆さんは冷ややかに鼻で笑い、俺たちの言葉を全く取り合おうとしなかった。
その頑なな態度を打破するため、俺は更に声を張り上げた。
「信じないなら、見てよ! 僕は本当に鑑定の魔法が使えるんだ!」
「はっ、鑑定の魔法かい。そんな大層なもんが……」
疑わしげな目を向けるロンダ婆さんの前で、俺は店内に所狭しと並ぶガラス瓶や薬草の束へ次々と指先を向けた。
――『鑑』。
立て続けに魔力を走らせ、脳内に流れ込んでくる正体を次々に声に出して読み上げていく。
「そこのガラス瓶に入った黒い粉末は『黒胡椒』! 血行を促進して防腐作用があるスパイス!
その隣の黄色い乾燥した花は『カモミール』、鎮静や消化不良を和らげるハーブ!
下の棚の黒っぽい根っこは『竜胆の根』、強い苦味を持つ胃薬だ!」
淀みなく、一切の迷いなく次々と薬効や名称を言い当てていく俺の姿を見て、ロンダ婆さんの眉間に刻まれたシワがみるみるうちに深くなっていき、その目に宿る色が驚愕へと変わっていった。
「……婆さん……。合ってるならそう言ってくれ……それなら信じられるだろ?」
隣でビルさんが眉間にシワを寄せて問いかけるが、ロンダ婆さんは何も言わず、ただキッとした顔で俺を見つめている。
ハアハアと荒い息を整えながら、俺は必死に婆さんを睨み据えた。
「どう……?
これでもまだ、僕の言うことが嘘だっていうの……?」
気圧されたように一歩後ずさったロンダ婆さんは、それでもすぐに表情を険しく引き締めると、やれやれと深い溜息をついた。
その様子を見て、ビルさんはゆっくり一歩前に出て、婆さんの視界を遮るように立った。
「婆さん、安心してくれ。こいつは確かに鑑定魔法が使えるが、高貴な生まれの人間なんかじゃない。エンゴナシンの子だ。……婆さんもよく知ってるだろ、トムの弟分だよ。
そのトムが寝込んでて、その薬が必要なんだ…」
「……エンゴナシンの……あのガキが……」
ビルさんのその言葉を聞いた瞬間、ロンダ婆さんの表情から険しさがスッと消え、代わりにどこか悲しむような、諦めにも似た複雑な色が浮かんだ。彼女は長くこの町で裏も表も見てきた人間なんだろう。孤児院の事情や、そこで育った子どもたちのこともよく知っているらしかった。
「……フン。あのガキの弟分かい。どうりで、変に度胸が座ってるわけだね」
ロンダ婆さんは観念したように肩を落とし、カウンターの奥へと引っ込んだ。ジャラジャラと重い鍵の擦れる音が響いたあと、彼女が戻ってきた手には、小さなガラス瓶が握られていた。
「アボリーリーと言ったね。まさか、この町でこの実をそんなふうに欲しがるヤツが居るとはねぇ。
……坊主、その瓶の中身、自分の目で確かめてごらん」
差し出された小さなガラス瓶の中には、濃い赤褐色をした小さなレーズンのような乾燥した実が入っていた。
俺は息を呑み、震える指先をその瓶にかざして魔力を込める。
――『鑑』。
金色の光が瞬き、目の前に浮かび上がった文字を読み上げる。
「【乾燥させた《アボリーリー》の実】」
「それだけかい?」と面白そうに笑うロンダ婆さんに、俺は首を横に振り、さらにその文字の端にある銀色のハイパーリンクへと指を滑らせた。
瞬間、目の前に新たな情報が展開される。
【アボリーリー】
山間部に広く自生するつる性の落葉低木樹。
挿し木で容易に増やすことが可能であり、荒野のような過酷な環境での栽培にも適している。
【特徴・形態】
秋季には、オレンジ色の房状の小さな実を付ける。
生命力が強く、荒地でも生育しやすい性質を持つ。
【用途・薬効】
実を乾燥させたものは、吐き気止めや下痢止めとして用いられることがある。
【使用上の注意・禁忌】
子宮収縮作用が非常に強いという特性を持つ。
そのため、妊婦への使用や摂取は禁忌とされている。
俺は浮かび上がったすべての文字を、一言一句漏らさずにはっきりと読み上げた。
読み終えた俺に、ロンダ婆さんはじっと視線を向け、静かに問いかけた。
「……よく読めたね。で、坊主。そこに書いてある『子宮収縮作用』ってのが何か、お前さんは分かるかい?」
俺は首を横に振った。隣にいたビルさんも、難しい顔をして腕を組んだまま首を捻っている。
「……いや、さっぱりだな。何かの病気の名前か?」
それを聞いたロンダ婆さんは、呆れたように深く息を吐き出した。
「この坊主はガキだからまだしも、お前さんまでもかい、ビル坊。
これで自分は父親だ、一家の主だと言うんだからねぇ……。
男って生き物は、これだからいけないよ」
フンッと鼻を鳴らすロンダ婆さんに、ビルさんはバツが悪そうに目を泳がせた。
「な、なんだよ急に。父親だからってその薬草の専門的な作用までは……」
「いいかい、よく聞きな」
ロンダ婆さんは声を潜め、しかし重みのある口調で語り出した。
「子宮っていうのはね、女が腹の中で赤ん坊を育てるための袋のことさ。その収縮作用が強いってことは、つまり……腹のなかの未熟な赤ん坊を、無理やり外に押し出しちまうってことなのさ。つまり、流産を引き起こす劇薬だよ」
「なっ……!?」
ビルさんが絶句して目を見開く。俺も、頭をハンマーで殴られたような衝撃を受けた。
ただの吐き気止めや胃腸薬ではない。この実には、お腹の命を奪ってしまうほどの恐ろしい裏の顔があったのだ。
「子供は宝さ。こういう代物はね、真っ当な人間が使うもんじゃない。世間の目を盗んで生きる様な人間たち……
例えば、花街の裏通りなんかじゃ、とびきり重宝されるのさ。理由は言わなくても分かるだろ?」
ビルさんは隣でハッとした表情で拳を握りしめるが、俺は話が読めずその表情を見あげていた。
「その坊主はまだ分からんようだが……まあ、それでいいさ。
ビル、分かったかい。アボリーリーは諸刃の剣だ。使い方を誤れば、人を救うどころか、取り返しのつかない罪を犯すことになる。……あんた達の手に任せていいんだね?」
婆さんの問いかけに、俺は自分の拳を強く握りしめた。
怖いと思った。こんな恐ろしい力を秘めた木の実を扱うなんて、正直足がすくむ。けど――。
「……わかった。妊婦さんには絶対に使わない、絶対に。だから、トム兄ちゃんを救うために、その実を分けてください!」
俺の必死な叫びを聞いたロンダ婆さんは、しばらくじっと俺の顔を見つめていたが、やがてふっと力の抜けた笑みを浮かべた。
「……目をひん剥いて啖呵を切るその目、昔のあいつにそっくりだねぇ。いいだろう、そこまで言うなら持っていきな」
ロンダ婆さんは奥から小さな布袋を取り出し、その中から乾燥したアボリーリーの実を全て出すと、その中から数粒、パラリと俺の手に預けてくれた。
「ただし、言った通りだよ。使い方を間違えるんじゃないかね。それだけで、十分すぎるほどの効果がある代物だ」
「ありがとう、ロンダ婆さん……!」
俺は震える手でその木の実を受け取ると、深い礼を告げ、その場から弾かれたように飛び出した。
隣でビルさんが「おい、待てよエル坊!」と声をかけてくれたが、今の俺の頭には一刻も早くトム兄ちゃんのところへ戻らなければならないという焦りしかなかった。
全速力で走って孤児院の扉を開けると、室内にはまだ淀んだ空気が立ち込めていた。
納屋の毛布の上では、トム兄ちゃんが苦しそうにうめき声を上げながら、脂汗を流している。
「はぁ、はぁっ……待ってて、今すぐ楽にしてあげるから……!」
俺は息つく暇もなく竈に駆け寄り、鍋に水を張って火をくべた。
バチバチと音を立てて薪が燃え上がり、あっという間にお湯が沸騰する。
ぐつぐつと沸き立つ湯の中に、ロンダ婆さんから分けてもらったアボリーリーの実をそっと放り込んだ。
瞬く間に、お湯の色が薄いワイン色に変わり、甘苦いような独特な香りが辺りにふわりと広がる。
実の成分がしっかりと溶け出したのを確認し、俺は鍋からおたまでカップにその煎じた湯を注ぎ入れた。
「トム兄ちゃん……しっかりして。これを飲んで」
俺はベッドに駆け寄り、震えるトム兄ちゃんの身体を優しく起こした。
熱く濁った煎じ薬を、こぼさないように少しずつ、彼の乾燥した唇へと含ませていく。
「ん……、これ、は……苦ぇ……」
「いいから、全部飲んで。そうすれば、楽になるから……!」
俺の必死な願いが通じたのか、トム兄ちゃんはうわ言のようにうめきながらも、カップ一杯の煎じ薬をすべて飲み干してくれた。
飲ませ終えた瞬間、俺は全身の力が抜けてしまい、その場でヘナヘナと床に座り込んでしまった。
緊張の糸がプツリと切れ、汗まみれの額を袖で拭う。
――あとは、効果が出るのを待つだけだ。
どうか間に合ってくれ。トム兄ちゃんを苦しみから救ってくれ。
祈るような気持ちで、俺は静かに眠りに落ちていく兄ちゃんの顔を見つめ、ホッと長い息を吐き出した。
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