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きっかけは【漢字辞典】〜名前の長い孤児が生きる、漢字が魔法になる世界〜   作者: 七瀬
第一章

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72.熱を呼ぶ黒



翌日も、その次の日も、トム兄ちゃんは朝早くからライ麦の収穫へと向かった。


「じゃあな、エル」


そう言って元気に家を出ていく背中を見送るたび、俺の胸のうちは言いようのない不安に締め付けられた。


毎日仕事から戻ってきたトム兄ちゃんは、決まって全身を真っ黒な煤まみれにして帰ってきた。

服も顔も、そしてむき出しの腕や首筋も、あの黒い粉に染め上げられている。


最初の二日間は、トム兄ちゃんより早く帰った俺が井戸水に『温』の魔法をかけてお湯を作り、汚れを落とす手伝いをしていた。だが、3日目の夕方――その日は刈り込みの最終日ということもあり、トム兄ちゃんは俺が帰ってくるよりも早く畑から戻っていた。

 


俺が帰った時には、トム兄ちゃんは「わざわざお湯を作ってもらうのも悪いし、さっさと済ませちまうよ」と笑い、井戸から汲み上げたばかりの冷たい水を容赦なく頭から被っていた。



「トム兄ちゃん、ちょっと待って!

まだ体が冷えるからお湯にしたほうが……!」


「はは、大丈夫だって! 汗かいたからこの冷たさが逆に気持ちいいんだよ」


そう言って彼は、冷水を浴びたままバシャバシャと体を洗い流してしまった。




3日間にわたる過酷なライ麦の収穫がようやく終わりを迎えた、その翌日の朝だった。


「うっ……頭痛ぇ……腹も、ぐるぐると……」


2段ベッドの上から起き上がろうとしたトム兄ちゃんが、転げ落ちるようにベッドから降りて激しく顔を歪めた。額には脂汗がべったりと滲み、顔色は土のような色をしていた。


「トム兄ちゃん! どうしたの……っ?」


慌てて駆け寄ると、トム兄ちゃんは力なく苦笑いを浮かべた。


「はは……昨日、夕暮れに冷たい水で水浴びなんかしたからかもな。どうやら盛大に風邪をひいちまったみたいだ……。エルが言ってた通りだったな……

心配しないでちゃんと仕事行ってこいよ」


トム兄ちゃんにそう言われたけど、ザワザワと胸が騒ぐのを感じた。


―本当に風邪?あの黒い粉を吸い込んだせいじゃないの?

不安と焦燥を抱えたまま身支度を済ませて、俺は後ろ髪を引かれながら作業場へと向かった。



しかし、作業場に足を踏み入れた瞬間、異様な空気に足が止まった。この3日間で町中のライ麦の収穫が終わったはずなのに、作業場に復帰するはずの日雇いのおばちゃんたちの姿がほとんど見当たらない。ぽつんと空いた席が、やけに目についた。



「カストルさん、みんな……どうしたんですか?」


作業場の隅でルナバッグを数えていたカストルさんに尋ねると、その手を止め、深刻そうな顔で小さく息をついた。


「来てないのよ。なんでも、今朝から突然激しい腹の痛みに襲われて、嘔吐や下痢が止まらないって人があちこちにいてね。職人さんたちも何人か寝込んでるみたい」



その言葉を聞いた瞬間、心臓が大きく跳ね上がった。

――トム兄ちゃんと同じだ。やっぱり、あれは風邪なんかじゃなくてあの黒いライ麦が原因なんじゃ……!


「カストルさん、俺、ちょっと急用で戻ります!」

木箱をなぎ倒すようにして、俺は全速力で孤児院へ引き返した。




家に戻ると、状況はさらに悪化していた。

小さい弟達にうつるとよくないからと、トイレの近い納戸に移動したトム兄ちゃんは、薄い毛布に包まりながら激しい嘔吐と止まらない下痢、そして発熱に襲われ、ぐったりとしていた。


呼吸は浅く、唇は白く乾いて、明らかに激しい脱水症状を起こしている。

カップに魔法で水を出して飲ませたけど、飲んだ傍からそれ以上の量を吐き戻してしまう。


このままでは、トム兄ちゃんが干からびてしまうんじゃ…何か水分を、それもただの水ではなく、失われた塩分と糖分を補給できるものを入れなければ――!


(――そうだ、あれだ!)


脳裏に浮かんだのは、前世の日本で風邪のときによく飲んでいたスポーツドリンク。経口補水液とも呼ばれるあれなら……

幸いなことにアイスクリームを作ったときに使った砂糖の残りが、まだ戸棚の奥にあるはずだ。


詳しい比率はわからないけれど、味なら何となく覚えている。材料は水と砂糖、それとほんの少しの塩。



俺は台所へ走り込むと、震える手で見よう見真似で何度も味見をしながら必死に経口補水液を調合した。鍋を火にかけ砂糖と塩を溶かしてそれを冷まし、カップに注いで何度へと急ぐ。


「トム兄ちゃん、お願いだから目を覚まして……! これ飲んで!」


ぐったりとしているトム兄ちゃんの頭を抱え起こし、スプーンで少しずつ、その水分を口に含ませていく。

甘みと塩気が混ざった液体が喉を通り、しばらくすると、トム兄ちゃんは苦しげに喉を鳴らしながらもそれを飲み込んでくれた。



まだ熱は下がらない。顔色の悪さも変わらない。

それでも、これを飲んでくれれば脱水の危機はどうにか凌げる。

でも根本的な「何か」がトム兄ちゃんの体を内側から蝕んでいるという事実には変わりがなかった。



ご覧いただきありがとうございます。

次回も明日18時頃投稿予定です


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