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きっかけは【漢字辞典】〜名前の長い孤児が生きる、漢字が魔法になる世界〜   作者: 七瀬
第一章

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71.入り込んだ黒



黒い麦に日に日に不安が増す中、いよいよライ麦の収穫期が本格的に始まった。


今朝早くからトム兄ちゃんは「今日からしばらくは収穫の手伝いで畑に通い詰めだ」と言って、いつもより早めの身支度を整えていた。


「じゃあな、エル。もし早く帰ったら薪割っといてくれ」


そう言って笑うトム兄ちゃんを見送りながら、俺は胸の奥で渦巻く嫌な予感をどうしても拭い切れずにいた。あの日の畑で見たじいさんの困惑した顔と、おぞましいほどべったりと真っ黒に染まったライ麦の穂が頭から離れなかった。



その日は、麦の収穫のために普段ルナバッグ工房で縫製や仕上げを手伝ってくれる日雇いの主婦たちもまばらだった。

作業場はいつもより静まり返っていて、閑散とした空気が漂っている。そんな落ち着かない雰囲気のせいか、俺はどうしても仕事に集中できず、清潔箱を仕上げる手が止まってしまっていた。


「コラ、エル。手が止まっているよ。どこに気を取られているんだい」


作業台の反対側から、エミルダさんの鋭い声が飛んできた。

「ごめんなさい……」

慌てて手を動かし直すものの、頭の中はトム兄ちゃんが向かった黒い麦の畑のことでいっぱいだった。




夕方、日が傾きかけて肌寒さを感じる頃、頼まれたとおり薪を割っているとトム兄ちゃんが孤児院へと戻ってきた。


「ふう、疲れた……!」


そう言って裏庭に入ってきたトム兄ちゃんの姿を見て、俺は思わず息を呑んだ。


収穫の作業がよほど重労働だったのか、あるいは黒い穂を大量に刈り取ったせいなのか、トム兄ちゃんの服のあちこちが、まるで古いかまどの掃除でもしたかのように真っ黒に汚れていた。服だけではない。手も、腕も、そして首筋に至るまで、細かい黒い煤のようなものがびっしりと付いている。



「お疲れ様、トム兄ちゃん……って、すごい汚れだね」

俺が驚いて声をかけると、トム兄ちゃんは苦笑いしながら自分の服をはたいた。


「ああ、今年のライ麦は一段と酷くてよ。穂に触るだけで、あの真っ黒な粉が煙みたいに舞い上がるんだ。

参っちまうぜ」


ぼやくようにトム兄ちゃんが上着を脱いでいると裏口から声をかけられた。


「ちょっとトム。そのまま家に入らないでよ。

小さい子たちもいるんだから、しっかり体を洗ってから入ってね」


ルナ姉ちゃんが眉間にシワをよせて心配そうにしながら桶と古布を持っている。


「わかってるって、ルナ。今から井戸で水浴びしてくるよ」


トム兄ちゃんはそう言うと、手桶と古布を受け取って外の井戸へと向かった。



まだ秋の始めとはいえ、夕暮れの風はすでに冷たくなっている。そんな中、トム兄ちゃんは井戸から直接汲み上げた冷たい水を、思い切り頭から被った。


「冷たっ……! さっさと流さねぇと風邪ひいちまうな」


少し背筋を丸めながら寒そうに冷水を浴びるトム兄ちゃんの背中を見て、俺は慌ててそばに駆け寄った。


「トム兄ちゃん、ちょっと待ってて!」


俺は手桶の水に手をかざし、指先をわずかに光らせた。


『温』


魔力を込めて桶の水に向けて描くと、井戸水の冷たさは消えて、湯気の立つ心地よいお湯へと変化した。


「おっ……すげえな、エル。魔法でお湯を作ってくれたのか?」


トム兄ちゃんは目を丸くして驚いた顔をしたあと、心底嬉しそうな笑顔を浮かべて言った。


「ありがとな、生き返るぜ」

そう言いながら、温まったお湯と手拭いで、トム兄ちゃんは懸命に顔や体の汚れを拭き取っていく。



「そういえばさ、農家のおっちゃんたちが面白いことを言ってたぞ」


タオル代わりの古布で腕をゴシゴシと擦りながら、トム兄ちゃんはふと思い出したように口を開いた。


「なんでも、5年前くらいにも今回と同じようにライ麦の穂が黒くなったことがあるらしいんだ。そのときは、しばらく風通しのいいところに当てておいたら、黒い穂が元の色に戻って普通に食えたんだとよ」


「……えっ、それ本当なの?」 


俺が思わず聞き返すと、トム兄ちゃんは気楽そうに頷いた。


「ああ。だから今回も、きっとただの天気のせいで、ここから1週間くらい雨が降らねぇでこのまま乾かせば、ライ麦の乾燥も終わるし、市場の値段もそのうち落ち着くだろうってさ。

だから、あんまり心配するなよ、エル」


トム兄ちゃんはそう言いながら古布で水が入った耳の中を拭きながら独り言のように呟いた。


「うわ、耳の中まで真っ黒だ。どうりで昼間っから鼻がむず痒い訳だ。こりゃ鼻の中まで真っ黒だな」


そう言ってもう一度トム兄ちゃんは顔を洗い始めた。


俺はその言葉を聞いた瞬間、背筋に冷たいものが走った。


――あんなふうに舞い上がる粉を、トム兄ちゃんは丸一日吸い込み続けていたの……?



「ふう、これで少しはマシになったか?」


トム兄ちゃんは満足そうに笑い、温まった体でタオルを肩にかけた。


「あ、ああ……そうだね」


俺は、その言葉に相槌を打ちながらも、トム兄ちゃんから目を離せなかった。


水で濡らして拭いたはずなのに、坊主頭のうなじや、荒い息をする鼻の穴のまわりには、落としきれなかった黒い煤がまるで染み込んだようにこびりついて、真っ黒になっている。

耳の奥や鼻の粘膜にまで、あの不気味な黒い粉が入り込んでいるとしたら……


それを「ただの汚れだ」と笑うトム兄ちゃんの背中を見つめながら、俺は胸の奥でざわめく不安の波を抑えきれなかった。


ご覧いただきありがとうございます。

次回も明日18時頃投稿予定です


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