70.日常に混ざる黒い影
作業場での重苦しい会話を思い返しながら、俺は足取りも重く孤児院へと帰路についていた。
俺はエミルダさんの言葉が頭から離れなかった。現状誰もあの黒い麦の正体がわからない。
しかも領主様があてにならない―ってこういうときのための領主なんじゃないのか?!
まあ、政治家が役に立たないのはいつの時代もどの世界も同じなのか……
俺はため息を吐いて去年より少しだけくすんだ色のライ麦畑を見つめた。
もし、このままあの不気味な病気が隣の小麦畑にまで広がったら取り返しのつかない事態になってしまうんじゃ――。
そんな暗い気持ちを抱えたまま歩いていると、後ろから聞き慣れた明るい声がかけられた。
「おっ、エルじゃねぇか。お疲れさん!」
振り返ると、額にうっすらと汗をにじませたトム兄ちゃんが歩いてきた。その手には使い古された農具が握られている。どうやら今日は、知り合いの農家から頼まれてライ麦の刈り込みの準備を手伝いに行ってきたらしい。
「トム兄ちゃん、お疲れ様。……あのさ」
カイやフィリップが王都へ旅立った今、トム兄ちゃんは唯一俺が気軽に弱音を吐ける相手になっていた。
俺は胸につかえていた不安を抑えきれなくなり、思い切って声を落として尋ねた。
「最近、ライ麦の畑で変な病気が流行ってるって聞いたんだけど……俺実物を見たんだ。あの、真っ黒になってるやつ……」
俺の深刻そうな顔を見て、トム兄ちゃんは「ああ、そのことか」と苦笑いを浮かべた。
「聞いたか。確かに今年のライ麦はひどいもんな。俺も手伝いの先であの真っ黒な穂を見たときはギョッとしたぜ」
「じゃあ、みんなが言ってるみたいに、やっぱりあれは危険なんじゃ……」
エルが言いかけると、トム兄ちゃんは「ははっ」と明るく笑い飛ばし、励ますように俺の肩をポンと叩いた。
「大丈夫だって、エル。大人たちは色々心配してるけどさ、現場の農家のおっちゃんたちは『多少見た目は悪くても、しっかり洗って天日干しにしてから粉にすりゃあ普通に食えるさ』って言ってるやつがほとんどだぞ。今年の不作でみんなピリピリしてるから、余計に怖がって噂が大きくなっちまってるだけさ」
そう言って笑いながら、乱暴に俺の頭を撫でてくれた。
でも、あの日の帰り道にお爺さんに見せられた、指に煤のようにべったりとつくおぞましく黒ずんだライ麦の感触を思い出すと、その言葉を手放しで信じることはどうしてもできなかった。
その日の夜。
夕食の片付けが一段落した食堂で、アンがエプロンのポケットから小さな硬貨を取り出し、俺に差し出した。
「エルかトム兄ちゃん、明日帰りに市場に寄ってきてくれない?
今くらいの時期なら、そろそろ去年の古いライ麦が安く市場に出回るはずだから、帰りに買ってきてほしいの」
アンはいつもの優しい笑顔でそう言った。
孤児院には小さな子供たちがたくさんいる。限られた予算の中で、アンは毎日やり繰りに頭を悩ませながら、みんなのお腹を満たすために必死で働いてくれているのだ。
アンが差し出した小銀貨5枚。例年であれば、それで大袋のライ麦が買える額だった。
しかし、小さい子の面倒を見ていてほとんど孤児院を出ないアンはまだ知らない。
あの黒いライ麦の噂も、市場から古いライ麦が消えていることも、あの日見た様に買い占めをする商人が居ることも――。
それを知っているはずのルナ姉ちゃんや、今日現場を見てきたトム兄ちゃんも、アンに心配をかけまいと思ったのか、そのことについては何も言わないまま、静かにアンから受け取った小銀貨を俺に手渡した。
誰も悪くない。誰もが家族を守ろうとしているだけなのに、その歯車が、最悪の結末へ向けて静かに回り始めているような気味が悪さを覚えた。
翌日の午後。
作業場では、主婦たちが今日も黒い麦の噂で持ちきりだった。
「ねえ、聞いたかい? 隣町のほうじゃ、もう安いパンも手に入りにくくなってるってよ」
「今年は春先の天気がおかしかったから、そもそも麦の生育自体が良くなかったんだよねぇ……。やっとの思いで収穫できるって時期になって、あんな真っ黒になっちまうなんて、お天道様は一体何を考えてるんだか」
主婦の一人が悔しそうに針を進めながら愚痴をこぼす。
不安の色は日を追うごとに濃くなり、町全体が目に見えない恐怖に締め付けられていくようだった。
そして夕方。
俺はトム兄ちゃんと一緒に、買い出しのために町の中心にある市場へと向かった。
並み居る露店や穀物問屋が立ち並ぶエリアへ足を踏み入れると、異変はすぐに肌で感じられた。
いつもなら穀物を積んだ麻袋が山のように並び、活気に満ちているはずの空間が、どこかピリついた重い空気に包まれている。
穀物問屋の店先で、トム兄ちゃんが掲げられた値札を見て思わず足を止めた。
「……おいおい、マジかよ」
俺もその隣に並び、値札の数字に目を凝らした。
そこには、普段であれば小銀貨5枚程度で買えるはずのライ麦一袋の値段が、なんと小銀貨8枚という価格で書き記されていたのだ。普段の1.5倍以上の高値になっている。
「うそだろ……。新しいライ麦ならともかく古いライ麦でこの値段かよ…
こんな値段じゃ、どこの家だって買えやしないぜ」
トム兄ちゃんが眉間に深いシワを寄せ、困惑したように頭をかいた。商いたちが買い占めを行ったせいか需要と供給のバランスが崩れているみたいだ。
アンから預かった小銀貨は5枚。これじゃ半分の中袋がやっと買える計算になる。
(どうしよう……。このままじゃ、孤児院のみんなに黒パンを食べさせてあげられない……!)
頭の中でアンの優しい笑顔と、小さな子供たちの顔がよぎる。
「……待ってて、トム兄ちゃん」
俺は胸元を探り、ルナバッグ工房の作業の報酬やこれまでの貯えを入れた財布を取り出した。
ルナ姉ちゃんが俺のために刺繍を入れてくれた宝物だ。
アンから預かった5枚に、この財布からさらに小銀貨を足せば、値上がりした分の代金を支払うことができる。
「エル? お前、それ……」
「いいんだ、トム兄ちゃん。」
俺は自分の財布から硬貨をじゃらりと出し、店員に突き出した。
予定よりも多くの硬貨を支払うことで、どうにかライ麦を一袋、そして自分の財布からさらに追加して、もう一袋余分に支払いを済ませた。
手元に残ったのは、寂しくなった自分用の財布の軽さだけだった。
購入した二つの重い麻袋を、俺とトム兄ちゃんで手分けして持参したルナバッグに詰め込む。
鞄はパンパンに膨れたけど、軽量魔法のおかげで肩に食い込むような重さは感じない。
しかし、その軽さとは裏腹に胸の奥に広がる言いようのないずっしりとした重さが、帰り道の夕闇の中でひたすら重くのしかかっていた。
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