69.井戸端会議と失った魔法
畑のじいさんに見せてもらった、不気味に黒ずむライ麦の穂。そしてその目と鼻の先で揺れる若草色の小麦――。
あの日の帰り道に見た光景と指先の生々しい感触は、数日経っても俺の頭から離れなかった。
(……虫食い?……というより、カビや悪い菌のような……)
作業台の前でルナバッグの『軽』の魔法陣の刺繍を、金色に光らせた指先でなぞりながらも、俺の思考はあの黒い穂のことで日を追うごとに埋め尽くされていた。
もしじいさんの言う通り、あの病気が隣の小麦畑にまで伝染したらどうなる?
それに、あの黒ずんだライ麦も「火を通せば食べられる」なんて話もあるみたいだけど、もし万が一、体に害があったら……。
そんな不安を抱えたまま、重い気分の数日を過ごしていた。
エミルダさんの作業場の一画では、ルナバッグの縫製や仕上げを手伝う日雇いの主婦たちが今日も集まり、手を動かしながらいつものように家庭の愚痴に花を咲かせている。しかしいつの間にか別の話題で持ちきりになっていた。
作業場の反対側、冷却箱の検品を行うエミルダさんの隣で、冷却箱の彫り込みを指先でなぞりながらその会話に耳を傾けてしまう。
「ねえ、聞いたかい? 今年のライ麦の様子、やっぱり普通じゃないってよ」
「あぁ、あちこちの畑で真っ黒になって使い物にならなくなってるってね。例年なら、この時期には去年の古いライ麦が安く市場に出回るもんだけど、今年は商人たちが買い占めもあって、一向に値段が下がらないんだよ」
主婦たちの深刻な声が、トントンと布を叩く音や生地を裁つハサミの音に混じって響いてくる。
「粉にして、しっかり火を通してパンにしてしまえば、それでおしまいさって言う旦那もいるけどさ……」
「とんでもない! あんな気味の悪い黒ずんだものを、いくらお腹が空いたからって食べられたもんじゃないよ」
「そうさね。アタシらはまだしも、腹を壊しやすい子どもたちには絶対に食べさせたくないねえ。今年の冬をどうやって越したもんなのか……」
不安と不満が入り混じった井戸端会議のざわめき。
俺は手元の冷却箱に向かって指先を光らせながら、彼女たちの言葉をじっと聞いていた。
主婦たちの言う通りだ。ただの不作ならまだしも黒い粉をまとった作物を口にして、万が一にも子供たちや村の人々が倒れたら――。
ふと気づくと、作業の手を休めた主婦の一人が、俺の隣で眉間にシワを寄せて作業を続けていたエミルダさんのもとへ歩み寄っていった。
「ねえ、エミルダさん……。あんた、王立学園で先生やってたんだろ?あのライ麦の黒いのが、本当に食えるものなのかどうか、魔法であの麦を調べたりはできないかい?」
主婦の切実な頼みに、エミルダさんは作業の手をピタリと止めた。
エミルダさんは迷う様にしばらく口ごもったあと、小さくため息をついて首を横に振った。
「……そうさね『鑑定』の魔法なら、麦の状態を調べることもできるとは思うがね……」
目を見開いて喜ぶ主婦を横目に、エミルダさんは自嘲気味に片方の口角を上げた。
「残念な事にあたしは昔、子供を身ごもった時にいくつかの魔法を失っちまってね。その中の一つが鑑定魔法なんだよ。
何度も試したがあたしにはもう、使えやしないのさ」
「そんな……じゃあ、この町では誰もあの黒い麦正体なんてわからないのかい?」
主婦が絶望に満ちた声を漏らす。エミルダさんは苦い顔をして、窓の外の青空を睨みつけるように言った。
役人に話をするしかないだろうね、と誰かが呟いたが、エミルダさんは鼻で笑うように首を振った。
「お上に訴えたところで、ここの領主様がまともに取り合うかね。あいつが自分の領地の農民のために動くなんて話、聞いたことがないよ。
そもそも、あの領主自身が鑑定魔法なんか使えやしないさ。
それに自分より出来の良い部下や、そんな高度な鑑定魔法が使える人間を身の回りに置いているとも思えないね。威張ることと保身しか頭にない連中じゃあ、畑の草の一本すら見てやしないさ」
エミルダさんの乾いた声が、静まり返った作業場に重く響いた。
役人や領主は頼りにならない。
周囲の大人は不安に怯え、ライ麦の価格は下がらない。
このままでは、あの黒い穂の脅威が、隣の若草色の小麦畑を飲み込み、町全体を破滅へと追い込んでしまうのではないか――。
胸の奥で、じりじりと焦燥感が燃え広がっていくのを感じながら、俺は拳を強く握りしめた。
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次回は金曜18時頃投稿予定です
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