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きっかけは【漢字辞典】〜名前の長い孤児が生きる、漢字が魔法になる世界〜   作者: 七瀬
第一章

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68.黄金色の裏に潜む黒



エミルダさんからライ麦の異変について聞いてから数日経ったある日、作業を終えた俺は最近の日課であるルナバッグ工房の建設現場を覗きに、ギルド裏手の倉庫街に向かった。


そこではトンカンと釘や木材を打つ音に合わせるように、屈強な男たちの賑やかな声が聞こえてくる。

暫く夢中になって見ていると、後ろから声をかけられた。


「アラ、エルちゃん。 まーた覗きに来たのね」


声の主は今日も豪奢なドレスに身を包んだカストルさんだった。


「うん! 段々出来上がるのが楽しみで!!」


「本格的に冬を迎える前には稼働を始めるわよ。材料の帆布もアタシの実家のツテで確保済みだし。冬のうちにどんどん作らないとね」


そう言うカストルさんと暫く建設を見ていると、倉庫街の通りを塞ぐようにして大きな荷馬車が停まっているのが目に入った。肥え太った商人が、腹を揺らしながら手代に大声で指示を出している。


「おい、もっと安く買い叩いてこんか! どうせ今年のライ麦は、もうじきに収穫なんだ。今のうちに去年の分はまとめて買い占めておけ!」


「しかし会頭!農民どもが売り渋りをしてるんでさ。何でも今年のライ麦が不作になるかもしれねぇって…

買い値を上げないことにはこれ以上はもう……」


「うるせぇ!!会頭の俺に逆らうのか!?

ならなおさら、それをなんとかするのがお前の仕事だろ!!」


会頭と商人の足元には、すでに荷馬車に入りきらないほどの麻袋が山のように積み上げられている。

それでも満足しないのか御者から馬用の鞭を奪い取りそれを地面に叩き付け、手代を畑の方角へ走らせた。


「最近ああいう下品な商人が増えたわね…。」


カストルさんはそれを見ながら眉間にシワを寄せて、呟くように言った。



カストルさんと別れ、俺は孤児院へと続く道を少し遠回りして歩いていた。

ふと、孤児院とギルドの間にある広大な畑の脇を通りかかったとき、周りの黄金色の景色とはどこか違う、淀んだような一角が目に留まった。足を止めてじっと見つめていると、畑の端で作業をしていたじいさんが顔を上げてこちらに気づいた。


「おや、あんたトムんとこのじゃねぇか?」


トム兄ちゃんがたまにこの畑を手伝いに出張っている縁で、じいさんは俺のことを「トムの弟分」として知ってくれているようだ。

農作業の帰りには傷がついたり、虫に食われた野菜をたんまり持たせてくれるじいさんが、いつもの優しい笑顔で話しかけてくれた。


俺はふと思い出して、数日前エミルダさんから聞いた話を確かめてみたかった。


「……あのさ、この間ライ麦の畑で変な病気が流行ってるって聞いたんだけど、本当なの?」


俺がそう尋ねると、じいさんはギクリと肩を揺らし、慌てて周囲を見回した。

そしてすこし無理に作り笑いを浮かべて手を振った。


「はは、なんだい急に。大したことじゃねぇよ、たぶんほんのちょっとした虫食いさ。子どもが心配するようなもんじゃないから安心しな」



そう言ってごまかそうとするじいさんだったが、その目は不安そうにうろうろと彷徨っている。



「でも、みんなすごく怖がって聞くし……。ねえ、本当のところを見せてよ」


俺の真剣な視線に押されたのか、じいさんは小さく息をついた。


「……しょうねぇな。トムの弟だ、少し物分かりが早いか。いいか、子どもだからって気味の悪いものはあんまり見るもんじゃないぞ」



そう言いながら、じいさんは足取り重く畑の奥へと歩き、一本のライ麦の穂を慎重に手繰り寄せひとつかみほどのライ麦の穂束を持ってきてくれた。


差し出されたそれを見て、俺は思わず息を呑んだ。

穂のあちこちがまるで泥をかぶったように、不気味に真っ黒く変色している。指で軽く触れれば、煤のような黒い粉が剥がれ落ち、ふわりと風に乗って飛んでいった。それはなんとも言えないおぞましい異様さがあった。


「見てのとおりだ、エル」

じいさんは枯れた声でぽつりと言った。


「今年のライ麦は育ちが悪くてね。やっと収穫だってのに俺にはどうにもこれが食えるとは思えねぇ。

……それに引き換え春に蒔いて秋の終わりに収穫する小麦のほうは、今まさに育っている最中だ。

あの隣の畑に、この黒い呪いみたいな病気がうつっちまったら、俺たちの今年の苦労も、お上への年貢も、冬の食うもんも、すべておしまいだ。


まあ、そんなこと小僧に言っても仕方ないんだかな…」


じいさんはそれ以上言葉を続けず、俺の頭を乱暴に撫でながらため息を吐いた。


所どころ黒く染まったライ麦と、まだ若い若草色の小麦。その対比を目の当たりにして、俺の背筋に冷たいものが走るのを感じた。



ご覧いただきありがとうございます。

次回も明日18時頃投稿予定です


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