67.秋の足音と黒いざわめき
カイが旅立ち、フィリップが王都へと戻り、少しだけ寂しくなった孤児院の空気を反映するように、夏の日差しもいつの間にか柔らかくなり、穏やかな秋の気配へと移り変わっていた。
エミルダさんの作業場を間借りする形で始まったルナバッグ工房は、今やエリダヌス公爵家を筆頭に、その派閥の貴族や商人たちからの注文が殺到するほどの大盛況を見せていた。
あまりの需要の多さに、間借りした作業場はフル稼働を再開した。
その一方、カストルさんが進めてくれていた裏通りの工房の建設も急ピッチで進められている。
農作業が一段落する冬の間は日雇い労働者を集めやすいため、冬の初めの本格稼働を目指して着々と進められているところだった。
そんな忙しない日々の中、俺の生活リズムもすっかり定着していた。
午前中はエミルダさんの作業場で、冷却箱などの魔法道具の製作という修行を行い、午後はルナバッグの加工に参加する。
カイやフィリップがいない寂しさはまだ心のどこかにあったけど、自分が果たすべき役割が増えたことで、立ち止まっている暇などなかった。俺は孤児院の兄貴として、しっかりと毎日を積み重ねていた。
しかし、そんな穏やかな日常の裏で、ギルドの空気が少しずつ変わり始めたのは、麦の穂が黄金色に肥え、収穫の時期を迎えつつある頃だった。
ギルドの出入り口を行き交う農民や商人の表情が、日を追うごとに目に見えて暗くなっていき、あちこちで深刻そうに頭を突き合わせる姿が増えてきた。
依頼の掲示板の前でも、ピリピリとした重苦しい空気が漂っている。
(最近、みんななんだかピリピリしてるな……。何かあったのかな…)
不審に思った俺は、その日の午前中の作業の合間、エミルダさんに思い切って尋ねてみた。
エミルダさんは作業の手を止め、使い古したハンカチで額と手をぬぐってから、複雑そうに小さく息をついた。
「気づいたかい、エル。……近頃ね、ライ麦の畑で異変が起きているんだよ」
「ライ麦に、異変?」
「ああ。ライ麦の穂がね、不気味に黒く変色してしまう病気が発生しているらしいんだよ。ライ麦といえば、平民が普段食べている黒パンの材料だろう。それがあちこちの畑でダメになっているらしくてね」
エミルダさんの言葉に、俺は思わず眉をひそめた。黒パンといえば、アンが毎日焼いてくれる孤児院でも欠かせない食べ物だ。
それが不作となれば、俺たちの生活にどれほどの打撃があるか想像もつかない。
「それじゃあ、農家の人たちは大変じゃないですか……! 収穫が減ったら、俺たちも冬を越せないんじゃ……」
俺の心配に、エミルダさんは首を横に振った。
「いや、それがね……。みんなが一番恐れているのは、自分たちの食べる分がなくなることだけじゃないんだよ」
エミルダさんは窓の外、遠くに見える黄金色の畑のその先へと視線を向けた。
「税としてお上――領主に納めるのは、ライ麦ではなく『小麦』さ。
幸いなことに、今回の病気が発生しているのはライ麦の畑ばかりで、税として納める小麦のほうにはまだ被害が出ていない。だから、税が納められなくて縛り首は免れる、と見られてはいるんだ」
「じゃあ、小麦が無事なら、とりあえず税金の心配は……」
「問題は、ここからなんだよ」
エミルダさんは憂鬱そうにため息をついた。
「みんなが怯えているのは、『この黒くなったライ麦の病気が、隣の小麦畑にまで伝染するんじゃないか』ってことさ。
それに、多少見た目が黒く変色しているだけで、中身まで腐っているわけじゃない。『少し気味は悪いけれど、火を通せば食べられるんじゃないか』って考える者もいれば、『いや、そんな気味の悪いものを食べたら病気になる』って怯える者もいてね。町全体が不安で持ちきりなのさ」
エミルダさんの説明を聞きながら、俺は胸のざわめきを抑えられなかった。
見た目が黒いだけのただの不作なのか、それとも、もっと深刻な害がある病気なのか――。
当時の俺たちにはまだ知る由もなかったが、この「ライ麦の黒い穂」こそが、のちに領全体を揺るがす恐ろしい事態の引き金になるとは、この時は誰もまだ気づいていなかった。
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次回も明日18時頃投稿予定です
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