65.これからの俺たちと静かな食卓
エリダヌス公爵家の豪華な馬車が見えなくなったあとも、俺たちはしばらくその場に立ち尽くしていた。
けれど、いつまでもそうしているわけにはいかない。
カイを乗せた馬車を見送った俺たちは、そのままもう一つの別れを告げるため、足早に川沿いの船着き場へと向かった。
そこには、王都へと戻る大型の商船が、停泊していて、周りにはザワザワとした人だかりが出来ている。
「じゃあな、エル! ルナ! みんな、また来るからよ!」
船の甲板の上から、フィリップが思い切り大きく手を振った。
カイが出発する前日、孤児院に突然舞い戻ってきた彼は、まるで嵐のように騒がしい一夜を置いて、再び今の居場所である王都へと戻っていく。
その背中には、使い込まれて少しだけ汚れたルナ姉ちゃん特製の軽量鞄が背負われている。
「ああ、気をつけてな! 船から落っこ落ちるなよ!」
俺が叫び返すと、丸太のような腕をした髭もじゃのおじさんが、甲板の上で野太い声を張り上げた。
「おい、フィリップ! さっさと帆を降ろせ! 出航するぞ!」
「へい! わかりました!」
船長らしいおじさんの荒々しい号令に、フィリップは返事を返す。
次の瞬間、彼はひょいと身軽にロープを掴むと、まるで木に登るかのようにスルスルと高いマストの上へと駆け上がっていった。
風を孕む巨大な布を力強く引っ張り、手際よく結んでいく。その姿は、この間まで孤児院の庭を走り回っていたわんぱくな坊主ではなく、すっかり一人前の海の男の様だった。
マストの上で風に煽られながらも、フィリップは満面の笑みでこちらを見下ろしている。
それを見上げながら、俺は思わず小さく呟いた。
「……サルみてぇだな」
「――ねえ、エル兄ちゃん。サルってなーに?」
繋いでいた手をふっと引っ張られ、下を覗き込むと、四歳のダニエルが首をかしげて見上げていた。まるい大きな瞳が、答えを待っている。
(……あっ)
その瞬間しまったと思い、冷や汗がこめかみを伝った
。この世界の子供たちに向かって、前世の記憶にあった動物の名前をうっかり口走ってしまったのだ。このファンタジーの世界に、果たして「猿」という生き物が存在するだろうか? 森の精霊や魔獣ならともかく、自分の知る「サル」がこの世界にいるのかどうか、俺は自信がなかった。
「え、えーっと……! その、なんだ……すごく木登りが上手な、森のな、すっごくすばしっこい動物のことだよ!」
「へえ、動物なんだ!」
ダニエルが納得したように目を輝かせたのを見て、俺は内心でふーっと大きく息を吐き出した。
冷や汗を拭っているうちに、船首に取り付けられた鐘が―ゴーン―と低く響き渡り、ゆっくりと商船が岸壁から離れていく。
甲板の先端で大きく手を振り続けるフィリップの姿が、川の向こうへとだんだん小さくなっていく。
カイに続き、フィリップまでいなくなってしまった船着き場には、水の匂いと、言いようのない静けさだけが残されていた。
孤児院へと帰ると、そこにはいつもと変わらない景色が広がっていたはずだった。
けれど、どこか違っていた。
夕暮れ時の食堂。
長い木製のテーブルには、いつものように温かいスープと黒パンが並んでいる。
しかし、いつもカイが座っていた席は、今はぽっかりと空いていた。フィリップが騒がしくパンを頬張っていた席も、今は昨日と同様にダニエルが座っている。
「……女神様に感謝を」
小さな子どもたちの声に合わせて、俺たちもスプーンを手に取る。
いつもなら、あちこちからお代わりの声が飛び交い、パンの取り合いで笑い声が絶えなかったはずの食堂。今はただ、スープをすするスプーンの音と、食器がぶつかる小さな音が響くだけだった。
一人分の空間が空いただけなのに、空間そのものが広くなったようにすら感じられる。
その静けさが、胸の奥をチクチクと突き刺した。
「おかわりあるからね」
そうアンに声を掛けられてスープを注ぎに行くと、ポツンと一つだけ黒パンが残されていた。
俺の視線に気付いたアンが少しだけはにかみながら口を開いた。
「ついクセで一つ多く作っちゃったの。やっとフィリップが居ないのに慣れたところだったのにね」
笑いながらそう言ったアンの目尻には、堪えきれなかった一筋の涙がキラリと光っていた。その横顔に、胸の締め付けられるような切なさがこみ上げてくる。
誰も何も言わなかった。
けれど、みんな同じ気持ちだった。寂しい。寂しすぎる。
カイも、フィリップも、自分たちの夢に向かって大きく羽ばたいていったのだと頭では分かっていても、ポッカリと空いた穴は簡単には塞がらなかった。
静まり返ったテーブルの上。
俺の前に座っていた小さなダニエルが、スープのせいで口の周りをベタベタにしながら、一生懸命にパンをかじっている。その頬には、トマトの赤い汁がこびりついている。
俺は少し笑ってから息をつくと、自分の手元にあった布巾を手に取り、ダニエルに手を伸ばした。
「ほら、ダニエル。お前、またそんな汚して……」
優しく声をかけながら、その小さな口の周りを丁寧に拭ってやる。
ダニエルはきょとんとした顔で俺を見上げ、それから「へへっ」とはにかんで笑った。その無邪気な笑顔を見ていると、不思議と心のざわつきがスーッと凪いでいくのを感じた。
カイやフィリップが巣立っていって、人数は減ってしまったけれど、この孤児院には守るべき小さな命がたくさんいる。ルナ姉ちゃんがいて、アンがいて、トム兄ちゃんがいて、そしてダニエルをはじめ、可愛い弟や妹たちもいる。
フィリップやカイが外の世界で背筋を伸ばして頑張っているように、俺もこの場所で、年長者の一人としてしっかりとこの孤児院の日常を守らないといけない。
スッと背筋を伸ばし、俺は自分の席へと戻る。
アンの温かいスープを一口含むと、胸の奥で燻っていた寂しさが、確かな決意へと変わっていくのを感じた。
この温かな場所を、俺が守る。
そう心に誓って最後の一欠片の黒パンを噛み締めた。
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次回月曜18時頃投稿予定です
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