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きっかけは【漢字辞典】〜名前の長い孤児が生きる、漢字が魔法になる世界〜   作者: 七瀬
第一章

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65.別れと遠ざかる馬車



その日の夜、久しぶりに俺とカイ、そしてフィリップの三人で遅くまで食堂に残っていた。


テーブルの真ん中に置いた、エミルダさんから借りた魔法ランプのオレンジ色の柔らかな灯りを囲むようにして、俺たちは食べ終わったアイスクリームの器を前に、他愛のない話からこれまでの話を語り合った。


「――それでね、ルナバッグが正式に公爵家に採用されて、なんと公爵夫人が直接視察に来たんだよ」


俺が少し得意げにそう話すと、フィリップは目を丸くして驚いた声を上げた。


「すっげえじゃねぇか! エルもルナ姉ちゃんも、そんな大事になってたのかよ!」


「しかも、その孫のザウラク君をカイが子守りした縁で、明日から公爵家に従僕として奉公に入ることになったんだ」


俺がそう続けると、フィリップは目を大きく見開いて驚き、それからカイをじっと見た。


「おいおいマジかよ! もしかして、さっきのアイスクリームって、その大出世を祝うご馳走だったのか? てっきり、俺の帰りを祝って特別に作ってくれたのかと思ったぜ!」


「生憎だな、フィリップ。お前が帰ってくるなんて、誰も微塵も予想してなかったよ」


カイは呆れたように片眉を上げつつも、どこか嬉しそうな、穏やかな笑みを浮かべてカップの水を飲んだ。


それから、話題はフィリップの現在の生活へと移っていった。

王都での暮らしはどうなんだと尋ねると、フィリップは少し遠くを見るような目をしながら、腕を組んで答えた。


「うーん、そうだな……。寝泊まりしてるのは『船乗り小屋』って呼ばれてる、おっさんたちと雑魚寝する寮みたいなところなんだ。最初は勝手が違ってビビったけどさ」



「大変なんじゃないか?」と心配する俺に、フィリップは苦笑しながら首を横に振った。


「まあ、最初は一緒に見習い奉公に入ったお坊ちゃん連中は泣き言ばっか言ってたけどよ。俺にしてみりゃ、孤児院と大して変わんねぇよ。

赤ん坊たちの夜泣きがおっさん達のいびきに変わったってだけさ。

それに、暇を見つけて台所の手伝いをしてやるとさ、飯炊きのおばちゃんが『よく働くねぇ』って、毎回特別に夕飯を山盛り食わせてくれるんだ。おかげで、体のデカさだけは誰にも負けねぇぜ」


そう言って胸を張るフィリップの姿は、すっかり一人前の海の男のように逞しくなっていた。


さらに、フィリップは自分の足元にあった大きな荷物をゴソゴソと漁り始めると、中から乾燥させた干し魚や、噛み締めると旨味が出る干し肉、甘酸っぱい干し果物などを次々と取り出してテーブルの上に並べた。



「これ,みんなにお土産な。積荷が濡れちまって売り物にならなくなったやつを、会頭の親父が格安で買い取ったんだ。それを『故郷に帰る奴らに配ってやりな』って、船乗り仲間たちが分けてくれたんだよ。

孤児院に帰るって言ったら、みんな『それならたくさん持たせてやれ』って、余分に持たせてくれてさ」


テーブルの上に山盛りにされたお土産の数々を見つめながら、俺は胸が熱くなるのを感じた。フィリップが王都という外の世界でも、ちゃんと周囲の人に愛され、大切にされて生きていることが痛いほど伝わってきたからだ。


やがて夜も深く更け、これ以上起きていたら小さい子どもたちが起きてしまう時間になった。

俺たちは片付けを終えると、久しぶりに孤児院の二段ベッドへと潜り込んだ。


古いベッドが軋んで音を立てないように、みんなで息を殺しながらそっとハシゴを登り、上のベッドへと滑り込む。

「おい、赤ん坊が起きちまうだろ」「お前こそ、静かにしろよ」なんて薄暗い闇の中で小さな声で、昔と何も変わらない距離感でクスクスと小さく笑い合った。


3人で過ごす最後になるであろうこの夜を忘れないようにと噛み締めて、俺たちはそれぞれの薄い布団に体を落ち着かせた。



---



翌日の朝。


食堂の一角で、カイはルナ姉ちゃんが数日かけて仕立ててくれたばかりの真新しい服に袖を通していた。

雪のように白いシャツに、上品で深い紺色のトラウザーズ。カイがこれから育っていくことを考えて、ルナ姉ちゃんが袖や裾を少し長めに折り込み、ウエストや後ろ身頃に丁寧にダーツを入れてくれた特別な一着だ。

少し大き目に作ったトラウザーズがずり落ちないよう、しっかりとした肩ベルトが付いている。


そして、背中にはフィリップとお揃いの刺繍が入った、世界に一つの「ルナバッグ」がしっかりと背負われていた。


「……似合ってるわよ、カイ」


ルナ姉ちゃんは少し目を潤ませながらも、精一杯の笑顔を作ってカイの襟を整えてやった。


俺たちはカイを送り出すため、一緒にギルドへと向かった。

朝の澄んだ冷たい空気を吸い込みながら、一歩一歩、背筋を真っ直ぐに伸ばして歩くカイの背中。いつもより少しだけ大きく見えるその後ろ姿を、俺はルナ姉ちゃんの隣で見つめながら歩いた。


やがてギルドの前に到着してしばらく待つと、遠くの方からパカパカと蹄の音と、土煙をたてながら馬車が近づいてきた。

しかしそれが普通の馬車ではなかった。


「……おい、あれ……」


俺が思わず馬車の方を指差して呟く。

近づいてくるのは、ただの迎えの箱馬車なんかではなかった。漆黒の艶を持つ車体に、エリダヌス公爵家の誇り高い紋章が黄金で刻まれ、気品あふれる毛並みの四頭の馬が堂々と向かってくる。王都の貴族が乗るような、あまりにも大げさで豪華絢爛な馬車だった。


馬車が到着したと同時に、ずしりと重い扉が内側からゴトリと開いた。すると――。


「カイ――ッ!!」


小さな影が車内から勢いよく飛び出してきて、一直線にカイの体に飛びついた。

突然のことに「うわっ……!」とバランスを崩しかけながらもカイがしっかり受け止めたのは、公爵家の御曹司であるザウラク君だった。

ザウラク君はカイの服の裾をぎゅっと両手で掴んだまま、その顔をカイの胸にすり寄せるようにして離れない。


そして、その馬車の開いた扉の奥から、さらにもう一人の人物が優雅に姿を現した。

上品なドレスに身を包んだエリダヌス夫人その人だ。


その圧倒的な存在感を放つ貴婦人の姿に、ギルドの前にいた周囲の人々は一瞬で息を呑み、静まり返った。

そして、その場にいたカストルさんは、弾かれたように驚きながらもドレスのまま騎士のように跪いて優雅に礼をした。

それに続くように、俺たちも慌ててその場に跪く。


ギルドの入口付近がピリッとした緊張感に包まれる中、エリダヌス夫人は困ったような、少し気まずそうな笑みを浮かべながら俺たちを見下ろした。


「……ごめんなさいね。この子が、『どうしても僕が一番にお迎えに行くんだ』って聞かなくてねぇ。

おばあちゃま、すっかり押し切られちゃったわ」



きまりが悪そうに扇子で口元を隠す夫人の姿に、俺たちは思わず肩の力が抜けるのを感じた。

夫人は、ザウラク君をようやく宥めすかすと、カイの全身を上から下へとゆっくり見渡し、ふっと感嘆の息を漏らした。


「あら……。とてもいい仕立ての服ね」


夫人のその言葉に、カイは少しだけ照れくさそうにはにかみ、背負った鞄のベルトにそっと手をかけた。


「はい……。ルナ姉ちゃんが仕立ててくれました」


カイがルナ姉ちゃんを見ながら誇らしそうにそう答えると、夫人は目を細めて同じくルナ姉ちゃんを見ながら優しく頷いた。


「そう。さすがはカストルが見込んだお針子だわ。細かい所まで本当に丁寧な仕事ね。きっと、あなたのためにたくさん考えたのね」


その褒め言葉を聞いて、遠くで見ていたルナ姉ちゃんは、嬉しさのあまり両手で口を覆い、こぼれそうになる涙を必死にこらえていた。



お別れの時間は、あっという間にやってきた。

ザウラク君を片手で優しく抱かかえたまま、カイは馬車のステップへと足をかけた。そして、乗り込む直前に振り返り、俺たちの方をまっすぐに見据えて小さく手を振った。


「じゃあな、エル、ルナ姉ちゃん。みんなも、元気でな」


「いってらっしゃいカイ! 頑張れよ!」


俺が叫ぶと同時に、馬車の重厚な扉が閉ざされ、車輪が静かに動き出した。

だんだんと遠ざかっていく美しい紋章の馬車を、俺たちはいつまでも立ち尽くして見送り続けた。


馬車の窓から、小さなザウラク君と並んでこちらに手を振り続けるカイの姿が、少しずつ、確実に小さくなっていく。

馬の蹄の音が小さくなるにつれて、ルナ姉ちゃんとアンの目から、大粒の涙がとめどなくこぼれ落ちていった。


「もう……あんな立派になっちゃって……うっ、うぅ……」


ハンカチで目を押さえて泣きじゃくるルナ姉ちゃんたちを見て、隣に立っていたフィリップは、やれやれといったふうに肩をすくめながらも、ニカッと笑った。


「おいおい、ルナもアンも泣きすぎだろ。俺の時より盛大に泣いてんじゃねぇか」


そう言いながらも、フィリップの瞳の端にも、光るものがキラリと溜まっていた。彼は慌てて手の甲で目を拭うと、優しい声で呟いた。


「……まあ、ふらっと帰ってこれる俺と違って、カイがあの大きな屋敷から簡単に帰ってこれるわけじゃねぇもんな……。寂しくなるよな」


赤くなった俺の鼻先をからかうようなフィリップに、俺は照れくさくなって、思わず問いかけた。


「……フィリップ、お前そんなこと言って。船からなんてそんな遠くまで見えねぇだろ」


俺の問いかけに、フィリップは鼻をすすりながら、照れくさそうに笑ってみせた。


「見えたさ。王都の船乗り小屋で、先輩たちに『お前、頭はそこそこだけど、目と耳だけはやけに鋭いな!』ってめちゃくちゃ褒められたんだぜ。だからさ、あいつがどこまで行くのか、この目でしっかり焼き付けてやるんだ」


フィリップはそう言うと、今度こそ我慢しきれなくなったのか、目尻に溜まっていた涙をしっかりと拭い、馬車が消えていった大通りの方を、ずっと、ずっと見つめ続けていた。


ご覧いただきありがとうございます。

次回も明日18時頃投稿予定です


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