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きっかけは【漢字辞典】〜名前の長い孤児が生きる、漢字が魔法になる世界〜   作者: 七瀬
第一章

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73.俺の家族



作った経口補水液を俺はスプーンですくい、ぐったりしているトム兄ちゃんへ一口ずつ丁寧に流し込んでいた。

しかし、まだうまく飲み込めていないのか、咳き込みながら苦しげな息を吐いている。


そこに、納戸の引き戸が静かに開いた。

「エル、トムの様子はどう……?」

心配そうな顔をしたルナ姉ちゃんとアンが、様子を見に顔を出してきた。


俺は反射的にすっと立ち上がり、二人の視線からトム兄ちゃんを隠すように身体で遮った。

「ルナ姉ちゃん、アン……大丈夫だよ。まだ熱はあるけど、さっき水分は飲ませたから」

「そう……でも、そんな狭い納戸じゃ大変でしょう? 私たちも手伝うわ」

ルナ姉ちゃんが中に入ろうとしたのを、俺は慌てて押しとどめた。


「ううん、いいんだ! 二人は小さい子たちの面倒があるし感染るといかないから……

それに、僕がしっかり面倒見るから。ね?」 


必死に作った笑顔でそう告げると、ルナ姉ちゃんは少し驚いたような顔をしたあと、複雑そうに眉を下げた。


「……そう? 何かあったらすぐ呼ぶのよ?」


「うん、わかってる!」


二人が去っていくのを確認し、俺は小さく息を吐き出した。

――二人を中に入れなくてよかった。


俺の中には、強い警戒心があった。

あの黒い麦が原因なのは間違いないと思っている。

だけど、前世の歴史の授業で習った教科書のなかには、不衛生な水や食べ物から爆発的に広がるチフス、ペスト、あるいは赤痢といった恐ろしい記憶もちらついていた。


万が一、これがただの中毒ではなく、人から人へとうつる感染症だったとしたら――?

孤児院で弟や妹たちの世話を普段から一手に引き受けてくれているルナ姉ちゃんとアンを、絶対にこの空間に近づけるわけにはいかない。


それに、きっとトム兄ちゃん自身も、こんなに弱り切った姿をふたりに見られたくはないはずだ。


「はぁ……はぁ……、エル……」

薄い毛布の中で、トム兄ちゃんが苦しそうにうわごとを呟いた。

「ここにいるよ、トム兄ちゃん」


それから、俺の看病の時間が始まった。

嘔吐は枕元に小さな木樽を置いてなんとか受け止められたものの、下痢のほうはそうはいかない。

トイレの回数は多く、意識が朦朧としているなかで間に合ったり間に合わなかったりで、納戸の床やトム兄ちゃんのズボン、毛布はすぐに汚れてしまった。


その度におれは、何度も手元に魔力を集中させた。


『潔』


ふわりと指先から放たれた金色の淡い光が布や床をなぞるたび、嫌な汚れや臭いは綺麗さっぱりと消え去っていく。何度もそれを繰り返すうちに、俺も疲れで額にじっとりと汗が滲んでいた。


「ごめんな……エル。汚えのに……こんなとこ見せて……」


うわ言の合間に、トム兄ちゃんが掠れた声で申し訳なさそうに呟いた。汚れた毛布を綺麗にする俺の手元を見て、痛めているのだろう。


でも、俺は手を止めず、優しく首を横に振った。


「トム兄ちゃん、何言ってるの。僕がさ、おねしょした時とか、ダニエルのおむつ替える時、『汚い』って思ったことある?」


「いや……そりゃ……無ぇけど」


「それと一緒だよ。俺たち家族なんだから当たり前でしょ」


そう明るく笑ってみせると、トム兄ちゃんは力なく、しかしどこか救われたような苦笑いを浮かべてまた目を閉じた。




夕暮れ時になると、アンが心配して「これなら食べられるかもって思って……」と、麦をスープ状にとろとろに柔らかく煮込んだお粥のような差し入れを持ってきてくれた。

さすがに固形物は無理だったが、夜はそのお粥の汁気をスプーンで少しずつトム兄ちゃんに口に含ませ、新しく作ったスポーツドリンクで水分を補給し。



その夜は、エミルダさんから借りっぱなしになっていた魔法ランプに明かりを灯し、一晩中看病を続けた。


そして、長く険しい夜が明けて――翌朝。


激しい嘔吐と下痢の波は、どうにか峠を越えたのか夜のうちに治まっていた。しかし、安心したのも束の間、続く高熱がトム兄ちゃんの身体を容赦なく蝕んでいた。

額に当てた布はあっという間に熱を帯び、全身から玉のような汗がびっしりと吹き出している。


「っ……熱い……」


うなされるトム兄ちゃんの様子を見て、俺は魔法で作った温かいお湯で濡らした布を絞り、トム兄ちゃんの身体にこびりついた汗や汚れを丁寧に拭き取っていく。熱で火照った肌を少しでも和らげようと懸命に体を拭くと、トム兄ちゃんは少し和らいだ顔色で眠りについた。


でもこの状況を、自分一人で抱え込んでいるわけにはいかない。

今は、小康状態でもいつまた急変をするかわからない。

それに職人のおばちゃんや農家のおじさんたちも、同じ様に腹痛や発熱に侵されている。


俺は異変の真相を掴むため、そしてトム兄ちゃんを救う手がかりを得るため、俺はカストルさんとエミルダさんにこの状況を伝えるべく、急ぎ足でギルドへと走った。

ご覧いただきありがとうございます。

次回水曜の18時頃投稿予定です


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