ルナ姉ちゃんの不安と金貨の報酬
公爵夫人からの書簡を孤児院に持ち帰ると、院長先生は文字通り腰を抜かしそうになってひっくり返った。
「こ、これは一体……! 公爵家から、カイを従僕として召し抱えるだと……!?」
白髪を揺らしながら目を丸くして驚く院長先生の横で、トム兄ちゃんは「すげえじゃんカイ! 大出世じゃねぇか!」と、自分のことのように喜んでカイの頭をくしゃくしゃになるまで撫でた。
アンも嬉しそうにカイを抱きしめ、照れくさそうに耳を赤くするカイの姿を見ながら、孤児院の食堂全体が、祭りのような熱気に包まれていた。
――ふとその奥を見ると、賑わいの輪から少しだけ離れた場所で、ルナ姉ちゃんが微かに俯いていた。
ルナ姉ちゃんは使い終わった食器を持って、誰に言うでもなく小さく息を吐いてから、一人で洗い場に向かった。
その背中があまりにも寂しそうに見えて、俺はそっとその後を追った。
夕暮れ時の洗い場はひんやりとしていて、食堂の賑やかな声が少しだけ遠く聞こえた。
「ルナ姉ちゃん……?」
声をかけると、ルナ姉ちゃんはびくりと肩を震わせ、慌てたように笑顔を作って振り返った。
「……どうしたの、エル。みんなのところに戻らなくていいの?」
「いや、ルナ姉ちゃんこそ……ギルド長室にいる時からなんか変だよ……?」
俺がそう尋ねると、ルナ姉ちゃんはしばらく言い淀むように唇を噛みしめ、それから、絞り出すような小さな声で本音を零した。
「……ねえ、エル。カイはあんなに喜んでるけどさ、本当に大丈夫なのかな……」
ルナ姉ちゃんの淡い翡翠色の瞳には、かすかな不安の色が浮かんで、ゆらゆらと揺れていた。
「公爵家なんて、周りはみんな本物のお貴族様ばかりなんでしょ?
使用人だって、代々仕えてる家系の人とかだろうし、平民のメイドだってお金持ちの立派なご息女ばかりだって聞いたわ。
そんなところに、孤児院育ちのカイが一人で入っていって……
もし、身分のことで嫌な思いをさせられたり、陰で馬鹿にされたりしたら……」
そこまで言って、ルナ姉ちゃんはグッと唇を噛み締めた。
姉ちゃんは知っているのだ。貴族社会の厳しさや、自分たち平民――ましてや孤児という境遇が、時としてどれほど冷たく扱われるかを。
カイはあんなふうに笑っているけれど、きっと誰も知らないところで辛い思いをするかもしれない。そう思うと、送り出すのが怖くてたまらないのだと、その震える瞳が物語っていた。
ルナ姉ちゃんの言葉を聞きながら、俺の脳裏には、あの痛々しい記憶が蘇っていた。
あの赤髪の男の子に「みなしご」と罵られ、ルナ姉ちゃんに作ってもらった財布をボロボロにされたカイが、怒りと悲しみのあまり、制御しきれない凍結魔法を作業場で暴発させた――。
あの時、泣きながらガタガタと震えていたカイの小さな背中を、俺たちは必死で抱きしめた。
カイはクールで大人っぽく見えるけれど、だからこそ傷ついても弱音を吐かないところがある。それを知っているルナ姉ちゃんが、広くて冷たい貴族の屋敷に一人で飛び込むのを不安に思わないわけがなかった。
「……大丈夫だよ、姉ちゃん」
俺はできるだけ力強く、はっきりとそう告げた。
「カイは頭がいいし、人の表情を読むのも得意だもん。それに、あの公爵夫人が見込んで引き抜いたんだよ。きっと大丈夫だよ……」
俺の言葉に、ルナ姉ちゃんは少しだけ頼りなげにうなずいたが、その表情から不安が完全に消えることはなかった。
翌日の朝、俺とルナ姉ちゃんは、カストルさんに呼ばれてギルド長室へと再度向かっていた。
今回のルナバッグ大量生産の報酬を受け取るためだ。
執務机で仕事をしていたカストルさんは、昨日の視察の時とは打って変わって、いつもの鮮やかなドレスに身を包んだ優美な姿俺たちを出迎えてくれた。
「あら、二人ともいらっしゃい。昨日はよく頑張ってくれたね」
カストルさんはふわりと微笑むと、俺たちをソファーに案内し、今回の報酬について説明してくれた。
「今回のルナバッグ700個の売上総額は、大金貨56枚になるわ。
ただ……これから本格的な工房を建てるための資金や、職人さんたちへの人件費、材料費や納める税金を差し引く必要があるの。
そこからアタシの取り分を除いた残りがあなたたちの報酬よ。
でも、年端もいかない子どもに、いきなりそんな大金を持たせるのはどうかと思ってね……」
帳簿の数字をポカンとした顔で見る俺を見ながら、カストルさんはクスクスと笑ってこう続けた。
「だから、当面の生活費や必要な買い出しができるように、今回は二人に『大金貨1枚』を現金として渡すわ。
残りの利益は、それぞれの名義でギルドの安全な口座にきちんと預金しておくから安心してちょうだい」
そう言って、カストルさんは金色の大きな硬貨をコトリと机の上に置いた。
平民の俺たちからすれば、この大金貨1枚だって一生分の貯金のようなものだ。それを見て、俺とルナ姉ちゃんは思わず顔を見合わせた。
「ありがとうございます、カストルさん。
あの、このお金で……買いたいものがあるんです……」
ルナ姉ちゃんが少し緊張した面持ちで尋ねると、カストルさんは「もちろんよ」と優しく頷いた。
「せっかくのお買い物だもの。子どもだけで高価な商店街を歩いていたら、悪い商人に足元を見られかねないわ。よかったら、アタシが付き添ってあげる」
さすがはカストルさん、どこまでも気が利く。
「ぜひお願いします!」
俺たちが頼み込むと、カストルさんは鮮やかな赤い唇を吊り上げ、俺たちを上質な店が並ぶ大通りへと連れ出してくれた。
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