55.貴人の提案
突然のエリダヌス夫人からの提案に、作業場の空気は一瞬で水を打ったように静まり返った。
「……え?」
俺はあまりに突飛な話に、ぽかんと口を開けて夫人をまじまじと見つめてしまった。
「じゅうぼく……?」
話の展開があまりにも斜め上に転がったことで、俺の頭の中が完全に真っ白になっていた俺は、夫人の言葉をそのまま口にした。
俺の驚く様が、余程可笑しかったらしい夫人は、開いた扇子の裏で小さく笑ってからそれを胸元に下ろし、優雅な笑みを崩さないまま俺の目をまっすぐ据えた。
「驚くのも無理はないわね。もう少し具体的に話してあげましょうか」
夫人は優雅にドレスの裾を整えると、落ち着いた声で続けた。
「私が望む一番の役目は、ザウラクの遊び相手、そして共に学び成長する『従者』としての務めよ。
ザウラクはあの通り引っ込み思案でね、同年代の刺激があれば…と思っていた所なのよ。
そして、お互いに大人になった折には、護衛や身の回りの世話も行う従僕、フットマンとして我が家に正式に仕えてもらうことになるわ」
続く夫人の言葉には単なる気まぐれではなく、しっかりとした思惑と切実な事情が隠されていた。
「実を言うとね、うちの屋敷で長年フットマンとして仕えてくれている忠実な使用人がいるのだけれど……長年、子どもに恵まれなくてね。
そろそろ、将来を見据えて優秀な跡取り、つまり養子を探していたところなのよ」
その説明を聞いて、周囲の職人たちは小さくざわめいた。
「お貴族様の従僕なんて一生安泰だ」「女の子なら下働きでさえ貴族の家にお勤めが出来れば嫁の貰い手に困らない」など口々に話をしている。
エリダヌス公爵家の従僕の養子に入るということは、平民の身分である俺にとって、一気に貴族社会の庇護下に入り、一生の安定が約束されることを意味するらしい。
孤児院で育った俺にとって、これ以上ないほどの破格の好条件だった。
だが、俺の中で引っかかっていることが一つだけあった。
「あの……俺、勉強して、王立学園への特待生入学を目指しているんです。それはどうなりますか……?」
エルがそう問いかけると、夫人はふっと優しげに微笑んで首を振った。
「それは……難しいわね。
ザウラクが学校に行っている間も、従者見習いには日々の務めがあるもの。
主であるザウラクが学校で学んでいる間も、従者見習いには、屋敷での護身術や行儀作法、当主を支えるための勉強が待っているわ」
夫人の言葉に、エルは「なるほど……」と納得しつつも言葉に詰まる。
続く夫人の話では、執事の子供なら主の身の回りの世話をする名目で学園内へ付き添うため、公爵家が費用を出して通わせることもできるらしい。
もっとも、執事は通常なら下位貴族の子弟が務めるものだという。
「確かに、王立学園の門戸自体は、平民に対しても広く開かれているわ。
もちろん、莫大な入学金と授業料がかかるから、実際に通うのは裕福な貴族や大商人の息子たちがほとんどだけれどね。」
夫人は少し眉根を寄せながら、「もちろん…」と続けた。
「その分、学費が免除される『特待生』は貧しい平民の子供でも、圧倒的な成績や才能があれば選ばれることもあるわ。
でも、その倍率はかなり高いのよ?
なれるか分からない奨学生と、確実に一生安泰の従僕見習い。どちらを選べば賢いかなんて、考えなくても分かるんじゃなくて?」
目の前にある「公爵家の従僕」という安定した未来と、自分で道を切り開く「王立学園への特待生」という夢。
その二つの選択肢に、作業場全体が重苦しい沈黙に包まれたその時だった。
パンッ――と両手を合わせる乾いた音が響いた。
振り返ると、そこにはいつもの不敵な笑みを浮かべたエミルダさんが、どっしりと腕を組み仁王立ちをした。
「そもそもシャーロット、アンタは分かってないねぇ。
エルはね、あんなお上品な屋敷で主人の世話をしたりお茶を淹れたりするような従者にも、執事にも……向いてないのさ」
エミルダさんにシャーロットと呼ばれた夫人は、わずかに目を細め、言葉の続きを固唾を呑んで待った。
ご覧いただきありがとうございます。
次回、明日18時頃投稿予定です
★や評価、ブックマークなども
本当にありがとうこざいます。
励みにしておりますので、よろしければポチッとしていただけますと幸いです。




