52. 貴人の来訪
「えっ…?!」
ルナ姉ちゃんは驚きに声を詰まらせ、ガシャンッと静かな孤児院の食堂に甲高い音が響き渡り、持っていたスープの器を取り落とした。
「今……なんて?」
ぽかんとした俺がカストルさんに聞き返すと、後で一つに括った髪を解きながら、口を開いた。
「だから! エリダヌス公爵夫人がこの孤児院と、工房の見学をご希望なのよ!」
「え……? ええっ、ご、希望って……いつ来られるんですか……っ!?」
ルナ姉ちゃんの顔が一気に真っ青になり、パニックで両手があたふたとうろたえ始めた。
カストルさんは額の汗を拭いながら、息を整えて告げた。
「あいにく、向こうのご都合が急に決まってね。見学は――四日後よ。今すぐ知らせなきゃと思って、馬を飛ばしてきたのよ」
「よ、四日後――!? ちょっと、みんな! 大掃除!
今すぐ孤児院と作業場を徹底的に掃除しなきゃ!」
ルナ姉ちゃんは先ほどまでの動揺を吹き飛ばすように、うろうろとあたりを動き始めた。
その尋常ではない慌てぶりを見て、カイが口を開いた。
「ルナ姉ちゃん、なんでそんなに慌ててるの?」
その言葉に、ルナ姉ちゃんはカッと目を見開いて、カイに詰め寄った。
「だって、刺繍協会の会長よ? あたしたちお針子やそれを目指す人間にとって、神様みたいな存在なのよ?!」
お針子を目指すルナ姉ちゃんにとって、刺繍協会の会長を務めるエリダヌス公爵夫人は、雲の上の文字通り手が届かない存在らしい。
「床を雑巾がけして! 窓の隅の埃も払って!
それで……あぁ、下の子たちの服も新しいのを用意しなくちゃ!」
そうして次の日から、ルナ姉ちゃんの鬼気迫る指揮の元、孤児院全体が嵐のような大掃除に突入した。
だが、そのただ中で、俺とカイの二人はどこか呑気に首を傾げ合っていた。
「……なんか、ルナ姉ちゃんめちゃくちゃ焦ってるけどさ、そんなにすごい人なのか?」
「さあな。貴族って言っても、カストルさんやエミルダ先生みたいに、普通のおばさ……いや、お姉さんだろ?」
俺たちがそう首をかしげていると、掃除の手を止めたアンが、青い顔をしてコソコソと耳打ちしてきた。
「ちょっと、二人ともバカなこと言わないの!
貴族って言ったら、平民なんて虫けらみたいに思ってる人もいるのよ?
私、聞いたことあるんだから。昔、貴族の馬車の前を横切っただけで、御者に鞭打ちにされた子どもがいたって……!」
「えっ、まじかよ……」
カイがヒクヒクと眉をひそめ、顔を青くした。
さらに、天井のクモの巣を掃除していたトム兄ちゃんも、重々しい顔で口を挟んだ。
「本当だぞ。俺も父さんから聞いたことがある。 貴族の乗る馬に蹴り飛ばされて亡くなった奴がいるって話だ……」
その言葉に、周りで聞いていた孤児院の子どもたちは「ひっ……!」と小さく息を呑んだ。
エミルダさんやカストルさんのように、平民や自分たちのような孤児と対等に言葉を交わし、あまつさえ食事をするような貴族は、この世界では圧倒的な例外らしい。
俺たちやカイは、その本当の恐ろしさをまだよく分かっていなかったけど、周りの大人や年長者たちの怯えようを見て、だんだんと胸がつかえるような違和感が広がってきた。
―やばい……もしかして、俺たち全員、礼儀がなってないとかで処刑されたりするのか……?
そこからの四日間、孤児院の中は常にソワソワと落ち着かない空気に包まれていた。
毎晩「もし失礼があったらどうしよう」と天井を見つめ続けている。
日中もエミルダさんの作業場から帰ると、すぐあちこち掃除を始める。
俺たちも緊張に押し潰されそうになりながら、ただひたすらに「何事も起こりませんように」と祈り続けた。
そして――恐怖と緊張の四日間が過ぎ去り、いよいよ迎えた来訪の当日。
よく晴れた空の下、俺たちはギルドの前でぴっと背筋を伸ばして整列させられていた。
張り詰めた空気の中、誰もが息を潜めている。
そんな緊張感に包まれたそこに、カストルさんが姿を現した。
今日のカストルさんは、いつもの艶やかなドレスではない。ビシッと仕立てられた端正な騎士服――男性の正装に身を包んでいた。
引き締まった体躯に、見事な気品を纏ったその男装姿は、息を呑むほどにかっこいい。
それを見た、隣に並ぶ日雇いの主婦たちが「キャッ……!」と黄色い声をあげ、一斉に頬を赤らめて色めき立った。
―なんでこんなカッコイイのにオネエなのかねぇ…
緊張しながら、内心呟いた俺の隣で、ルナ姉ちゃんは自分の胸元をぎゅっと押さえ、心臓の音を抑えるように必死で深呼吸を繰り返している。
その時だった。
ガタゴト、と重厚な車輪の音が表通りから響いてきた。
現れたのは、絢爛豪華な四頭立ての大きな馬車だった。
威厳を放つ紋章が描かれたその馬車が、ギルドの前に静かに停車する。
周囲の空気が一瞬で凍りついたように静まり返った。
カストルさんがスッと前に出る。
ゆっくりと馬車の扉が開き、そこからカストルさんのエスコートで上品に足を降ろしたのは――アイボリーの気高いドレスをまとった、息をのむほど美しい初老の女性だった。
そして、その後ろからひょっこりと、俺より少しだけ年下の、上品な顔立ちの男の子が顔を出した。
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次回も明日18時頃投稿予定です
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