38.炎の先の決断
「20年前って?」
髪を少しだけ乱したカストルさんに問いかけると、彼女は眉間にしわを寄せながら、中指をこめかみに当てた。
「エルちゃん、本当に何にも知らなかったのね。今、冷却箱はトム兄ちゃんたちが掘り込みを入れて、そのあとエルちゃんたちが魔法をかけるでしょう? 20年前、そのシステムを初めてやったのが、そこで笑ってる先生なのよ」
「先生が分業を初めてやったってのは、さっき聞いたよ」
「その後が問題なのよ!」
カストルさんが大きくため息を吐くたび、エミルダさんが「ケッケッケ」とカラスのように笑う。
「エルちゃん、既得権益ってご存じ?」
「キトク…ケンエキ…?」
「既得権益ってのは、簡単に言うと今それで儲けている人たちのことよ。例えばみんな、麦は町の粉屋さんから買うでしょ? でも、もーっと安く買える粉屋が新しくできたらどうする?」
「え? そんなの、安いところから買うよね?」
当たり前の事を聞くカストルさんに、俺がきょとんとして答えると、彼女は深く頷いてから続けた。
「そう。みんな安いところから買うのよ。でもそうすると、元々麦を買っていた粉屋は困るわよね? 売れなくなっちゃうから、その粉屋は値段を下げないといけないでしょう?」
――価格競争ってことか。独占禁止法みたいな話だな。
コクコクと頷く俺を見ながら、カストルさんは説明を続けた。
「でもそうすると、今までの粉屋の儲けが少なくなるでしょ?
だからそれが嫌で、新しい粉屋は嫌がらせをされることもあるのよ。
『既得権益を侵害された』ってことで」
理解はできたが、今回の鞄や20年前の冷却箱と結びつかなくてポカンとしていると、エミルダさんが腕を組みながら口を開いた。
「20年前、あたしは新しい粉屋だったんだよ。
掘り込みを自分でしなくていい分、数を作れるから価格は安くできる。
そうすると、貴族の持ち物だった冷却箱が、少しずつ平民も使えるようになっていったのさ」
「じゃあ、そのやり方に既得権益を持っていた人たちが怒ったってこと?」
必死に頭の中でつなげていくと、エミルダさんはニヤリと笑った。
「おや、珍しく理解が早いねぇ。まあ、そういうことさ。
もっとも、その連中に元々あたしが嫌われていたってのもあるんだろうけどね」
「知り合いだったの?」
「知り合いも何も、古い粉屋はねぇ、私を捨てた嫁ぎ先の家だよ」
「トツギサキ…?」
突飛な単語にポカンとしている俺を放って、エミルダさんは続けた。
「学園で教鞭を執っていたあたしは、魔法の腕を見込まれて大きな商家に嫁いだんだ。
すぐ子を身ごもったんだが、子供は生まれてすぐ、女神様の所に帰っちまってね。
さらに出産をきっかけに、あの家が一番欲しかった『鑑定魔法』が使えなくなっちまった。
で、碌に子供も産めない、魔法も使えなくなったあたしはお払い箱ってわけさ」
呆れたように片方の眉だけを上げたエミルダさんは、小さくため息を吐いた。
「離縁は認められていないから、あたしを追い出すだけ追い出してね。
でもあたしも家になんか戻りたくないから、ここで工房を開いたんだ。
それが大体30年ぐらい前さ。そのあと分業した冷却箱を安く売り出したあたしに、あの家は大層ご立腹でね。
家を追い出してから10年も経っているのに、『売上を寄越せ』だの『権利を寄越せ』だの、まあ煩くてねえ」
「で、その時にあちこち駆けずり回されたのが、新しくギルドに赴任してきたばかりのアタシってワケ」
前髪を後ろにふぁさりと掻き上げながら、カストルさんが話を戻した。
「で、先生は今回もアタシに東奔西走しろってことでしょう?」
カストルさんは拗ねたように赤い唇を尖らせた。
「だって、帆布の出どころはお前さんだろう? ギルドも儲かるんだからいいじゃないか。
20年前、『狂装のカストル』なんて言われてたお前さんの地位を不動にしたのも、この冷却箱なんだからね」
カストルさんは諦めたように息を大きく吐いた。
「エルちゃん。今回の軽量鞄、なかった事にして処分する? それとも、量産する?
量産すれば孤児院もお腹いっぱい食べられるけど」
少し怖い顔のカストルさんに見つめられて、怯みながらも答えた。
「こっそり自分たちで使う分だけ作るのはだめなの?」
「エルちゃん。今回の軽量鞄の敵は、貴族女性全体よ。
量産しなきゃいいなんてもんじゃないわ。孤児のあんた達なんか、下手したら消されるの。
貴族女性の情報網、舐めないほうがいいわ。
孤児院から出ていく小さい子に、口止めなんかできないでしょうしね。
……巻き込んで量産、もしくはここですべて焼くか。二つに一つよ」
そう言ってカストルさんは指を小さく金色に光らせ、『火』を描いた。
マッチの火のような小さな炎が、軽量鞄の刺繍の近くで揺らめいている。
その時、俺が思い出したのはルナ姉ちゃんだった。
洗濯物の陰から覗く、淡い金髪。
毎日遅くまで裁縫を教えてくれた、あの白い指先。
俺の糸魔法を見つめる、翡翠色の瞳。
糸魔法を教えた時の、涙。
そして、昨日完成した鞄を見て飛び上がって喜んだルナ姉ちゃんの顔。
どんどんルナ姉ちゃんの刺繍に近づいていく小さな炎を、俺は気づいたら握るようにして止めていた。
「なかった事にしたくないです。お願いします。助けてください!!」
俺は勢いよく頭を下げた。
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