狐の耳が聞いたもの
レーナが来て四日目の朝、門番のケイが駆け込んできた。
「領主様! 東の街道から人の群れが!」
俺は設計図から顔を上げた。
「人数は」
「十……いや、もっといます。二十はいるかと。子どもも混じってます」
レーナが作業台から立ち上がった。ゴルドが鍛冶場の扉を開けて外を見ている。
俺は立ち上がり、外へ出た。
東の街道に、確かに人影が見えた。遠目でも、足取りがおかしいとわかった。疲弊しきった動き。荷物はほとんど持っていない。何日も歩き続けた集団の、特有のシルエットだ。前世でも見たことがある——長距離の避難者、自然災害で移動を強いられた人たちの歩き方。あれは、選んで歩いているのではなく、歩くしかないから歩いている人間の足取りだ。
近づくにつれて、詳細が見えてきた。
耳だ。
頭の上に、三角形の耳が立っている。狐の耳だ。子どもたちのそれはまだ元気よく動いているが、大人たちのものはぺたりと頭に伏せている。服はどれも擦り切れて、顔には疲労と警戒が混在していた。
集団の先頭に、一人だけ走り出てきた人物がいた。
「領主さまですか!」
元気な声だった。
見た目は十二歳ほど。小柄な体に不釣り合いなほど大きな目が、まっすぐに俺を見ていた。銀灰色の尻尾が揺れている。服はボロボロだったが、声には力があった。迷いがない。この集落の中で、彼女が前に立つことに決めたんだろうと思った。
「そうです」
「わたし、ミラといいます! あの、お願いがあって来ました。わたしたちをここに入れてもらえませんか。他に行くところがなくて」
後ろの集団を見た。大人が十二人、子どもが七人。全員、亜人だ。狐耳と尻尾を持った獣耳族。その顔に浮かんでいるのは希望ではなく、疲労と恐怖と——わずかな、縋るような何かだ。
「どこから来ましたか」
「南のシュリア領です。二週間前に……その、追い出されました」
「追い出された」
「亜人は住むなって。突然言われて、家も畑も置いたままで……」
ミラの声が、少しだけ揺れた。だがすぐに顔を上げた。
「泣いてる場合じゃないですよね。まず状況を説明します。わたしたちは——」
「わかりました」
俺は遮った。
「入ってください」
ミラが目を丸くした。
「え?」
「疲れてるでしょう。話はご飯を食べながら聞きます」
後ろでフィーネが「領主様」と声を上げた。
* * *
「政治的リスクを考慮してください」
フィーネが帳簿を抱えたまま、低い声で言った。
亜人たちを宿舎へ案内してから、俺とフィーネは執務室に入っていた。レーナとゴルドは宿舎の手配を手伝っている。
「隣領との関係があります。シュリア領はヴァルデンの南に接しています。うちが亜人を受け入れたと知れば、シュリアは抗議してくる可能性がある。最悪、国境での小競り合いに発展します」
「それは考えてます」
「王都の貴族の中には、亜人を領内に置くこと自体を問題視する者もいます。中央から圧力が来る可能性もゼロではない。現時点でヴァルデンはまだ注目を集めていない。この件で目立つと、それが変わります」
「わかってます」
俺は窓の外を見た。宿舎の前で、スープの鍋が設置されている。ケイがよそいながら子どもたちに配っていた。子どもたちが鍋に群がっている。何日ぶりの温かい食事だろう。
「フィーネさん」
俺は彼女を見た。
「俺が追放される前、王都では何人もの人間に門前払いをされました。理由は身分です。庶子の三男。それだけで、話を聞いてもらう価値もないと判断された」
フィーネが黙った。
「あなたは不正を告発して商会を追われた。理由は何でしたか」
「……都合の悪い真実を言ったから、です」
「ゴルドはドワーフだから、王都の鍛冶組合に入れない。レーナは汚職を告発して軍を追われた」
俺は立ち上がった。
「この領地に来た人間に、俺は共通点があると思ってます。追い出された人間が来てる。俺が追い出されたこの場所に。それが偶然だとは思えない」
「……」
「この土地に来たい人は全員受け入れます。フィーネさん、リスクは把握した上で言ってます」
長い沈黙があった。
フィーネが眼鏡を押し上げた。
「……わかりました。では、受け入れた場合の収支計画を立てます。十九人分の食糧と住居のコスト、それに対してどういう形で領地の生産力を上げるか。一週間で試算します」
「よろしく頼みます」
フィーネが出て行った後、俺は窓の外を見た。宿舎の前で、子どもたちが走り回っていた。ミラが何か叫びながらその後を追いかけている。大人たちはまだ警戒を解いていないが、子どもはそうではない。子どもは正直だ。安全だと感じれば、すぐに動き出す。
いい徴候だと思った。
* * *
翌日の朝、ミラが鍛冶場の入口に立っていた。
「カイル様! すごいことがあります!」
「何ですか」
「地面の下に、なんか大きなものを感じます!」
俺は手を止めた。
「感じる?」
「魔素です。すごく濃い。地下の深いところから……なんか、うごめいてる感じ? 他の場所と全然違う。ずーっと奥まで繋がってる感じがして」
俺は彼女を見た。
「それ、いつから感じてたんですか」
「昨日、ここに着いたときから。でも今日になってもっとはっきりしてきました。ここ、魔素がすごく豊かじゃないですか」
「……どの方向ですか」
ミラが指を差した。
北東。
古代都市の設計図の中心部と、ほぼ一致していた。
《構造解析》を発動した。
地下探索モードで北東方向を走査する。《構造解析》でも地下三十メートルまでは確認できていた。そこには魔素鉱脈の層がある。だが——もっと深い場所に、何かある気がしていた。三十メートルより下。俺のスキルが届かない深さに。ミラの「うごめいてる感じ」という表現が気になった。
「ミラさん、もう少し詳しく教えてもらえますか。どれくらい深いと思いますか」
「ん〜……すごく深い。でも大きい。建物みたいな形をしてる気がします」
建物。
古代都市の設計図を思い出した。あの規模なら、地下百メートル以上に構造物が眠っていてもおかしくない。地表の廃墟は全体の一部にすぎない可能性があった。
「ミラさんは、こういう感知ができる人が集落に他にもいますか」
「うちのおばあちゃんと、あとリクがちょっとできます」
「三人いれば十分です。よかったら手伝ってもらえませんか。地下の地図を作りたいんです」
ミラが目をきらきらさせた。
「できます! 何すればいいですか!」
「まずは位置を教えてもらうだけでいいです。俺が記録します」
「やります! やります! あ、でもまず服を変えてもいいですか。昨日もらった新しい服、まだ着てないから。きれいな服で仕事したい」
俺は少し笑った。
「もちろんです」
ミラが駆け出していった。その小さな背中の尻尾が、元気よく揺れていた。
ゴルドが俺の隣に立って言った。「なんか懐いてんな、あの子」
「そうですね」
「いいことじゃないか。若が笑うの、珍しい」
「……そうですか」
「ああ。いつも設計図しか見てねぇから」
俺は返事をしなかった。ゴルドはそれ以上何も言わず、鍛冶場に戻っていった。
* * *
ミラたちの感知能力は、想像以上だった。
三人を領地の各所に立たせて、それぞれが感知した魔素の濃度と方向を聞き取り、俺が三角測量で位置を特定する。四時間で、地下の魔素鉱脈がおおまかに把握できた。
結果は——規模が俺の予想を上回っていた。
「三つの主要鉱脈が、北東の一点に向かって収束してます」
俺はフィーネに地図を見せた。
「鉱脈の収束点が……古代都市設計図の中心と重なります」
「それは偶然ではないですね」
「おそらく、古代都市は意図的に鉱脈の上に建設されています。都市のエネルギー源として魔素を利用していた可能性がある。今の魔素炉は地下鉱脈の一端を掠っているだけにすぎない」
フィーネが数字を走らせた。
「この規模なら……魔素炉を十基並列で動かせます。理論値で」
「そうなります」
「……現在の炉は一基で理論値の三倍。十基で三十倍のエネルギーが出せる計算ですね」
しばらく沈黙があった。
「この数字を表に出したら、王都が動きます」
フィーネが静かに言った。
「わかってます」
「アルヴィン様の耳にも届きます」
「……それも、わかってます」
俺は地図を畳んだ。今はまだ動く時期ではない。基盤が整っていない。人手も、防壁も、食糧の備蓄も——まだ足りない。
窓の外ではミラが宿舎の前で子どもたちと何か遊んでいる。笑い声が聞こえた。昨日まで疲弊しきっていた集落の子どもたちが、もう走り回っている。
ここに来た理由が、少しずつ増えていく。守るべきものも、同じように。
* * *
夜、ミラが俺のところに来た。
「カイル様、ちょっといいですか」
「何ですか」
「昼に感知してて……気になることがあって」
ミラが少し躊躇するような顔をした。
「さっきもう一度、ちゃんと集中して感知してみたんですけど」
「うん」
「地下に……すごく大きなものがあります。建物より大きい。広場みたいな形をしてて、中に何かいっぱい詰まってる感じがする。それが……眠ってる感じがします」
眠ってる。
「どのくらい深いですか」
「すごく。わたしが今まで感じたことのない深さです。おばあちゃんも、そんな深くまで感知したことないって言ってました」
百メートル以上か。それとも、もっと深いか。
「ありがとうございます。それは大事な情報です」
「怖くないですか。なんか大きいものが下にいるの」
「怖いかどうかより、確かめたくて仕方ない気持ちの方が大きいです」
ミラが少し笑った。
「カイル様って、変な人ですね」
「そうかもしれません」
「でも……好きですよ、そういうの。わたしたちのこと、迷わずに入れてくれたじゃないですか。おばあちゃんが言ってました。ここが最後だって覚悟で来たって。でも来てよかったって」
俺は言葉を探した。上手い返し方がわからなかった。
「……一緒に作りましょう。この場所を。みんなで」
「はい!」
ミラが元気よく返事をして、宿舎の方へ走っていった。
* * *
その夜、ミラが感知した情報をレーナに伝えながら、俺は地図に書き込みを加えた。
「地下に広場程度の構造物があるとすれば、古代都市の公共施設か、あるいは動力施設の中枢だ」
「そこに何があるかわかれば、設計の方針が大きく変わりますね」
「そうです。掘るのはまだ先ですが、方向性は決まってきました」
古代都市の中心部。まだ誰も掘り起こしていない場所に、何かが眠っている。
翌朝、フィーネが血相を変えて執務室に飛び込んできた。
「領主様。北の街道から早馬が来ています。王都からの書状です」
差出人の封蝋を確認した。
ヴェルムント侯爵家の紋章だった。
……ああ、なるほどな。
もうそっちの耳に届いたか。




