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銀髪の工兵

朝の霧がヴァルデンの廃墟に薄く漂っていた。


魔素炉の低い唸り声が、その霧を少しずつ押し退けている。起動して三日目。出力は今日も理論値の三倍を維持していた。俺はその数値を確認しながら、手元の設計図に赤いインクで書き込みを加えた。


外壁の修繕計画だ。


現在の防壁は、崩れかけた石積みが辛うじて形を保っているだけだった。魔獣の一群を退けたあの夜から、俺はずっとそのことが気になっていた。《構造解析》で見ると、壁の内部構造は無惨なものだった。応力の集中点が至るところにある。主要な荷重の受け口が崩れれば、残りは連鎖的に倒れる構造だ。あれでは巨体の魔獣が一頭突撃しただけで崩壊する。


問題はわかっている。解決策も、材料の見当もついている。足りないのは人手だ。ゴルドは鍛冶の仕事がある。フィーネは帳簿から目を離せない。俺一人で設計して施工するには、時間が足りなすぎた。


「若、お客さんだ」


ゴルドの声に、俺は顔を上げた。


鍛冶場の入口に立っていたのは、見慣れない人物だった。


長身の女だった。銀髪を後頭部でまとめ、額に工兵用のゴーグルをかけている。着ているのは軍服を改造した作業着——くすんだ緑色の上着に、腰には工具が並んだベルト。立ち姿が妙に整っていた。民間人の立ち方ではない。訓練を受けた人間の、体に染み込んだ姿勢だ。


「……ヴァルデン領主、カイル・ヴェルムント殿でよろしいですか」


声は低く、落ち着いていた。


「そうです。あなたは?」


「レーナ・グランヴィルといいます。元王国騎士団第三工兵隊、三等工兵長」


第三工兵隊。俺はその名前を記憶の中で探った。確か、王国の要塞建築やインフラ整備を専門とする部隊だ。実力は高いが予算は少なく、騎士団内では冷遇されている——というのはゴルドから聞いた話だ。ゴルドが「工兵隊なら、こういう仕事ができる人間がいるんだが」と言っていたのを思い出した。


「元、ということは今は?」


「退役しました。一年前に」


短い答えだった。追及を拒むような言い方ではなく、ただ事実を述べているだけという感じだった。


俺は彼女の手を見た。指の節が厚く、右手の親指と人差し指に硬い胼胝がある。設計ツールを長年握り続けた人間の手だ。引退してまだ日が浅いはずなのに、胼胝がまだ生きている。仕事を続けていたか、それとも続けたくて続けられなかったか。どちらかだ。


「それで、俺に何か」


「噂を聞きました。辺境の廃領地に赴任した若い領主が、廃墟の地下に古代魔素炉を起動させ、浄水設備を三十分で設計したと。それだけではなく、魔獣の一群を非戦闘員だけで退けたとも」


レーナの目が、鍛冶場の奥——魔素炉の排熱管が走っている壁——へと移った。


「……それが本当かどうか、確認しに来ました。それと」


彼女は懐から一枚の紙を取り出した。俺が先日フィーネに依頼して作らせた、簡易版の防壁設計図だ。


「貴領の防壁設計図を拝見しました。率直に申し上げます。あれは素人の机上の空論です」


ゴルドが低い声で「あん?」と言った。


俺は手を上げてゴルドを制してから、レーナに向き直った。


「具体的に、どこが問題ですか」


「全部です」


彼女は遠慮しなかった。


「まず基礎構造。現在の石積みは、中央集中型の応力設計になっています。魔獣の衝撃荷重を一点で受け止める形だ。あれでは大型個体が一頭来るだけで崩壊する。次に、門の左右非対称。左翼の壁厚が右翼の七割しかない。防御の薄い側から必ず破られます。それに壁の高さが均一すぎる。内側の通路がない防壁は、弓兵の展開ができない。それから——」


「待ってください」


俺は彼女の言葉を遮った。


「全部、俺も把握してます」


レーナが目を細めた。


「では、なぜあのような設計図を?」


「あれは現在の設計図です。将来の設計図ではない」


俺は手元の紙を裏返した。裏面に、改修案の走り書きがある。


「今の壁を壊して作り直す資材も人員もない。だから今は補強で凌いで、来月から順次作り直す予定です。優先度の高い箇所から」


レーナが紙を覗き込んだ。眉が動いた。


「……この、補強材の配置は」


「応力の分散です。中央集中を避けて、三点支持に変える。完璧ではないけど、今の壁に手を加えるとすればこれが現実的な最善です」


「……」


彼女は黙っていた。


「せっかくだから、本題に入りましょうか」


俺は立ち上がった。


「魔素炉、見ますか」


* * *


魔素炉の前に立ったレーナは、しばらくの間、口を閉じたままだった。


出力計の数値が、炉の側面に刻まれた目盛りを遥かに超えて振れている。管を流れる熱変換済みの魔素が、ガラス管の中で青白く光っていた。三日前の起動から、一度も止まっていない。揺らぎもない。安定した出力だ。


「……動いてる」


独り言のような声だった。


「はい」


「古代規格の炉が……現代の魔素で……」


「効率は現代炉の八倍出てます」


レーナがゆっくりと振り返った。


「八倍」


「燃焼部の設計が根本的に違うんです。現代の炉は魔素を強制燃焼させる方式だけど、これは魔素の流れを整流して共鳴させる。エネルギー損失が桁違いに少ない」


「……そんな設計、文献で見たことがない」


「俺も最初は驚きました。《構造解析》で分解してみると、古代の技術者がとんでもないことをやってたのがわかって」


俺は炉の側面に手を当てた。


「配管の断面形状が、位置によって微妙に違うんです。流体力学的な最適解に沿って形が変わってる。多分、現代の加工技術だと再現できない。だからこそ誰も解析できなかった」


レーナがしゃがんで、炉の底部を覗き込んだ。ゴーグルを下ろして、細かい部分を確認している。プロの目だと思った。素人が炉を見るときは全体を見る。専門家は細部を見る。


「……火属性魔術で補修した跡がある」


「ゴルドがやりました」


「精度が高い。ドワーフですか」


「そうです」


レーナが立ち上がり、炉全体を見渡した。長い沈黙が続いた。炉の唸りだけが鍛冶場に響いていた。


「わかりました。本物です」


断言だった。


「それで——防壁の話に戻りましょう。先ほどの補強案、あれは応急処置として正しい。ただ、長期設計の話を聞かせてもらえますか。本来どういう防壁を作るつもりですか」


俺は設計図を広げた。


「ここに座ってください。長くなります」


二人で床に図面を広げた。ゴルドが離れた場所で腕を組んで見守っている。フィーネが帳簿を持ったまま入口に立ち、声を掛けずに様子を窺っていた。


俺は話しながら、同時に鉛筆を走らせた。


「まず地形の利用。ヴァルデンの東側は岩盤が露出してるので、そこを背面として自然の防壁にする。南と北の壁を重点的に作り込む。西は谷になってるから、鉄格子の水門で対応できる。谷の落差を使えば、敵の侵入路を一本に絞れます」


「……岩盤の位置、正確にわかるんですか」


「《構造解析》で地下三十メートルまで見えます」


レーナの鉛筆が止まった。


「……それは、地質調査なしで基礎設計ができるということですか」


「はい。地盤の固さや地下水脈の位置も把握できます」


彼女は何かを堪えるような顔をした。第三工兵隊では地質調査に何週間もかけると聞いたことがある。それが要らないと言われたら、確かに言葉を失うだろう。


俺は続けた。


「壁の構造は、外面を石積み、内部を魔素強化コンクリートで充填する複合構造にします。ポイントは充填材の配合——魔素炉の副産物として出る結晶スラグがあって、それを混ぜると引張強度が格段に上がる。通常の石灰モルタルの三倍は出るはずです」


「魔素スラグを建材に……そんな技術、聞いたことがない」


「多分、現代では誰もやってないと思います。でも理論的には行ける。先週、小さな試験体を作ってみたらいい結果が出ました。来週からゴルドと一緒に本格的な実験をする予定です」


「試験体の結果データはありますか」


「あります」


俺は手元から別の紙を引っ張り出した。レーナが素早く数字を走査した。指先が数値をなぞる。これも、データを見慣れた人間の動きだ。


「……配合比率を変えた実験も必要です。この比率だと低温環境での脆化が起きる可能性がある」


「それは俺も気になってました。どのくらいの低温を想定しますか」


「ヴァルデンの冬は氷点下三十度まで下がります。辺境の気候データは手持ちがあります」


鉛筆が走り続けた。断面図、基礎の配置、門の構造、弓兵の射角を考慮した狭間の角度——そして壁の頂部に設ける巡回路の設計。レーナが問いを挟み、俺が答え、そのたびに図面に線が加わっていく。気づいたら三十分が過ぎていた。


俺は鉛筆を置いた。レーナを見ると、彼女は手元に走り書きをしたメモを持って、図面と見比べていた。


「……」


彼女は長い間、黙っていた。


ゴルドが小さな声で言った。「若、お嬢さん固まってるぞ」


「レーナさん?」


彼女が顔を上げた。


その目に、俺は見たことのない感情を見た。困惑ではなく。衝撃と——なんだろう。寂しさに似た何かだ。


「……私が、この壁の最適設計を考え始めたのは十年前です」


声が、少しだけ揺れていた。


「第三工兵隊に配属されて最初の任務が、辺境要塞の防壁診断でした。あのとき既存の設計の欠陥を見て、自分なりに最適解を探し始めた。休みのたびに計算して、文献を漁って、隊の演習のたびにデータを取って……」


彼女は自分のメモを見た。


「十年かけて、ようやく去年、この構造に近い答えに辿り着きました」


俺の図面を指した。


「あなたは、五分で描いた」


静かな声だった。


「俺の場合は《構造解析》があります。スキルのアシストがある。条件が違います」


「……そうですね」


彼女は一呼吸置いた。


「でも、スキルがあっても、何が最適かわからなければ答えは出ない。構造力学の判断は、スキルでは代替できない。あなたの設計には、知識と経験の裏付けがある」


俺は何も言わなかった。


「あなたは何者ですか」


レーナが、真っ直ぐに俺を見た。


前世の記憶が頭をよぎった。三十年間、土木設計の仕事をして、徹夜で計算して、現場を走り回って、そして倒れた。その全部が今の俺の中にある。転生前の俺は、まともに評価される機会すら得られなかった。


「ただの設計好きです」


俺は言った。


「それと、人手が欲しい。レーナさん、ここで働いてもらえませんか」


彼女は少しの間だけ目を瞑った。それから、口の端をわずかに上げた。


「……条件を聞かせてください」


ゴルドが後ろで「よっしゃ」と小さく言った。


* * *


夕方、採用条件の話し合いを終えたあと、レーナは魔素炉の前に一人で立っていた。


俺が通りかかると、彼女は振り返らずに言った。


「一つだけ、聞いていいですか」


「どうぞ」


「この領地の将来図——あなたの頭の中にある最終形は、どんなものですか」


俺は少し考えた。


「人が来たがる場所にしたいです。追い出された人、居場所のない人、腕はあるのに認められなかった人。そういう人が来て、自分の仕事ができる場所。技術が正当に評価される場所」


レーナが小さく息を吐いた。


「……そうですか」


「何か?」


「いいえ」


彼女は炉を見たまま答えた。


「ただ……それは、私がずっと欲しかったものだと思いました」


俺は返事をしなかった。何か言うより、黙っている方がいいと思った。魔素炉の青白い光が、二人の影を壁に映していた。


翌朝、レーナは工具一式を担いで正式に門を潜った。ゴルドが出迎えて、無言で手を差し出した。レーナが、同じく無言で握り返した。それで十分だったようだった。


防壁改修工事が、始まった。

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