最初の一歩は井戸から
広場に集まった領民は、三十一人だった。
老人が多い。足の悪い者、腕のない者、片目の者。逃げ出せなかったのではなく、逃げ場がなかった者たちだと一目でわかった。その中に、数人の子供がいる。目がぎらぎらしていた。飢えているのか、それとも警戒しているのか。たぶん両方だ。
俺は広場の中央に立って、短く告げた。
「カイル・ヴェルムントです。ここの領主になりました。今日から一緒に、この領地を建て直します」
誰も声を上げなかった。拍手もなかった。当然だ。前の領主は一週間で逃げた。その前の領主代理は三日で逃げた。言葉より結果を見せるしかない。
「まず水の問題から手をつけます。今、皆さんが使っている井戸を見せてもらえますか」
老婆が手を挙げた。「領主さまが飲まれるような水は出ませんよ。茶色くて、臭くて——」
「問題ないです。現状を確認したいだけです」
案内されたのは、広場の端にある石組みの井戸だった。
覗き込むと、確かに濁っている。薄い赤みがかった茶色。鉄分? いや、違う。前世で下水処理の現場を見ていたときの感覚が戻ってくる——これは単純な錆ではない。
「《構造解析》」
地下構造が展開した。
井戸は地下十五メートルの地下水脈に繋がっている。その水脈の上流——二百メートルほど東——で、魔素鉱脈と水脈が交差していた。
鉱脈から染み出した高濃度の魔素が、水に溶け込んでいる。水の流れに沿って下流に広がり、この井戸に到達している。
汚染経路が完全に見えた。
「……ああ、なるほどな」
「何がなるほどなんですか」
隣でゴルドが腕を組んでいる。昨日のうちに橋の補修を引き受けると言ってくれた男だ。今朝はもう革エプロンを着けて広場に来ていた。
「汚染源は上流の鉱脈です。水脈と交差している地点から魔素が溶出している。だからこの井戸だけ綺麗にしても意味がない——源流を断つか、途中で濾過するかしないと」
「源流を断つ……鉱脈を塞ぐのか?」
「それは損失が大きすぎる。鉱脈は後で使います。濾過の方がいい」
俺は地下構造を頭の中で展開したまま、計算を始めた。
水脈の流量。魔素の溶出量。必要な濾過面積。素材の特性——
前世で浄水場の設計に関わったことがある。仕組みは基本的に同じだ。物理的な濾過層、活性化した吸着層、そして沈殿槽。ただし、こちらの世界では魔素という追加変数がある。
魔素を吸着するのに適した素材は何か。
《構造解析》が自動で周囲の物質を走査した。広場の石材。川沿いの砂。ゴルドの工房に積んである金属の残材——
そこで止まった。
工房の隅に、黒っぽい鉱石が積んである。表面が細かく結晶化していて、魔素に対して強い吸着特性を持っている。
「ゴルドさん、工房にある黒い鉱石、使えますか」
「ありゃ粉砕してもうまく使えなかった残材だぞ。捨てるに捨てられんで溜まってる」
「ちょうど良かった。それがメインの濾過材になります」
ゴルドの眉が上がった。
俺は広場の地面にしゃがんで、図面を描き始めた。土の上に、石で線を引く。
まず沈殿槽。次に三層構造の濾過槽——砂層、砕いた黒鉱石層、炭化木材層。最後に貯水槽。水脈から直接引き込むのではなく、地表近くに引き上げてから流し込む設計にする。そうすれば魔素の溶出圧が下がる。
三十分後、俺は図面を完成させた。
「できました」
振り返ると、いつの間にかゴルドだけでなく、領民の半数ほどが周囲に集まっていた。
ゴルドが地面の図面を覗き込んでいる。しばらく黙って眺めた後、ゆっくり立ち上がった。
「若……」
「何か問題がありますか」
「問題じゃなくて——」ゴルドが頭を掻いた。「こんな図面、王都の魔導技師でも描けんぞ」
「水処理の設計です。素材を変えてますが、基本的な理屈は——」
「そういう問題じゃない」ゴルドが俺を指さした。「王都の魔導技師は、三ヶ月かけて現地調査して、半年かけて設計して、さらに一年かけて施工する。それをあんた、三十分で描いた。しかも現地の廃材だけ使う設計で」
領民たちがざわめいた。
「本当に、これで水が飲めるようになるのかい」老婆が図面を指さした。
「飲めるようになります。ただし条件があって——」俺は立ち上がった。「作るのを手伝ってもらえますか。俺一人では掘削が間に合わない」
「やります」
手を挙げたのは、腕のない老人だった。義手の先が鉤になっている。
「俺も」
「わたしも手伝う」
次々に声が上がった。
ゴルドが俺の隣に立った。低い声で言う。
「……昨日まで、誰も動こうとしなかった。何をやっても無駄だって思ってたからな」
「そうですか」
「あんたが来て、一日も経ってないのに」
俺は特に何も答えなかった。答える代わりに、先頭に立って歩き始めた。
「では掘削から始めます。まず水脈の引き込み口——広場から東に百二十メートルの地点を掘ります」
工事が始まった。
俺が《構造解析》で最適な掘削ルートを指示し、領民たちが掘る。ゴルドが鉱石を砕いて濾過材を作る。子供たちが砂を篩にかける。誰も遊んでいない。誰も文句を言わない。
黙々と、みんな動いている。
それが、妙に胸に刺さった。
前世で現場を仕切っていたとき、こんなに素直に動く作業員はいなかった。常に不満があって、指示の抜け穴を探す者がいて、サボる者がいた。それが普通だと思っていた。
でも、ここでは違う。
これほど追い詰められていると、人は純粋になるのかもしれない。それを利用しているようで申し訳ない気持ちもあるが、俺にできることをやるしかない。
夕方までに、基礎工事は終わった。
翌朝、ゴルドが濾過材を詰めた槽を設置した。午後には配管が繋がった。
日が傾き始めた頃、俺は最終確認のために《構造解析》を走らせた。
水脈からの引き込み。沈殿槽の流入。三層濾過の通水——
「……問題なし。ゴルドさん、開けてください」
ゴルドが止水栓を回した。
しばらく、何も起きなかった。
領民たちが固唾を呑んで見ている。子供の一人が「どうなるの」と囁く声が聞こえた。
最初に出てきたのは、茶色い水だった。
どよめきが起きた。「やっぱりだめだ」「無理だったか」——
「待ってください」
俺は手を上げた。
「最初は配管内の古い水が出てきます。もう少し待つ」
誰も動かなかった。
三十秒。一分。
水の色が、変わり始めた。
茶色から橙、橙から薄黄、薄黄から——
透明になった。
誰かが、息を呑んだ。
俺は器を差し出した。水を受けた。《構造解析》で組成を確認する。魔素濃度、ほぼゼロ。不純物、問題なし。飲用可能——
「飲めます」
その一言の後、広場が静まり返った。
それから、泣き声が聞こえた。
老婆だった。最初に案内してくれた、あの老婆。器を両手で受け取って、口をつけて——静かに、ぽろぽろと泣いていた。
「五十年……五十年ぶりです……領主さま」
俺は何も言えなかった。
五十年間、濁った水を飲み続けてきた。その間、誰も来なかった。助けに来た者も、本気で建て直そうとした者も。
俺がやったのは、三十分の設計と一日半の工事だ。それだけだ。
なのに——
「若」
ゴルドが俺の隣に立った。目が少し赤い。
「ったく。こんなもんで泣くのは年寄りだけのはずなんだがな」
「泣いてるんですか、ゴルドさん」
「泣いてねぇ。砂埃が入っただけだ」
ゴルドが濾過槽を眺めた。
「この黒い鉱石……実はな、昔はこの辺に腐るほどあったんだぞ」
「今は少ない?」
「今残ってるのは工房の廃材だけだ。鉱山は魔素噴出で閉鎖されてる。開けようとした者もいたが、魔物が出て諦めた」
俺の頭の中で、昨日見た鉱脈図が重なった。
濾過材として使えた黒鉱石——《構造解析》で確認した組成——あの魔素吸着特性は、地下の鉱脈の構成成分と酷似している。
「……その鉱山、どこですか」
「北西の丘だ。ただ言ったろ、魔物が——」
「後で見に行きます」
ゴルドが俺を見た。「あんた、さらっと言うな」
「問題の根本を潰さないと前に進めない。魔物の問題も、最終的には解決しないといけない」
「王都の騎士団でも手こずる魔物だぞ」
「わかってます」俺は北西の丘の方向を見た。「ただ、スキルがある」
万物の構造が見える——ということは、魔物の構造も見える。弱点も、急所も。
まだ試したことはないが、理屈上は見えるはずだ。
ゴルドが長い沈黙の後、「……しゃーねぇな」と呟いた。それが彼なりの了承の言葉だと、もう俺にはわかっていた。
広場では、領民たちが順番に器を持って並んでいた。透明な水を受けて、飲んで、笑っている。五十年ぶりの水だ。子供たちは透明な水が珍しいのか、顔を洗ったり手を洗ったりして遊んでいた。
一人の老人が俺に歩み寄ってきた。「ありがとうございます、領主さま」と言って、深く頭を下げた。
俺は何を答えればいいかわからなかった。「これは始まりに過ぎない」という言葉が浮かんだが、それを言うには今この瞬間の喜びを踏みにじる気がした。
「また明日から」と言うのが精一杯だった。
夜、工房でゴルドと二人、道具の手入れをしながら俺は設計図を眺めていた。
魔素吸着性の黒鉱石。北西の鉱山。汚染の仕組みが解けた今、逆に言えば——魔素を吸着・濃縮・活用できれば、それは強力なエネルギー源になる。
前世の知識が動き始める。熱機関の原理。電力の代替システム。この世界のルールに合わせて組み直せば——
「若、何をにやにやしてる」
「してません。考えていました」
「嘘つけ。何か思いついたときのやつだ」
俺は図面を広げた。「魔素炉の設計ができそうです」
「魔素炉? そんなもん王都でも研究中だぞ」
「ここの地下鉱脈が使えれば、材料は揃っています。今日の濾過材と同じ鉱石が必要ですが——」
ゴルドが固まった。「……つまり、鉱山を開けないといけないということか」
「そうです」
「魔物を、倒して」
「そうです」
ゴルドは赤い髭を撫でて、天井を仰いだ。
「……若、あんたとつきあってると、老後が忙しくなりそうだな」
「お手伝いをお願いできますか」
「断れるわけねぇだろ」ゴルドが立ち上がった。「ったく。明日から武器の手入れをしておくか」
俺は頷いた。
窓の外、夜の闇の向こうに北西の丘が見える。
鉱山がある。魔物がいる。そしてその地下には——あの規則的な魔素鉱脈が広がっている。
設計されたような、規則的すぎるパターン。あれは何なのか。五十年前の魔素噴出と関係があるのか。
まだわからないことだらけだ。
——次の朝、北西の丘への道を偵察に出ると告げると、三人の男が「連れていってくれ」と申し出た。




