死の大地へようこそ
馬車が止まったのは、石畳すら剥がれ落ちた廃道の終点だった。
「ヴァルデン領、到着です」
御者が淡々と告げる。俺は幌をめくって外に出た。
——最初に感じたのは、静けさだった。
風が吹いている。木の葉が揺れている。川のせせらぎも聞こえる。なのに、人の気配がない。家々の窓は割れ、屋根は抜け、石塀は半壊している。かつて街道沿いに並んでいたであろう商店は、今やただの石の骸だ。
視界の奥まで見渡して、俺は小さく息を吐いた。
「……ひどいな」
独り言だった。前世の記憶が言葉を押し出してきた。これと似た光景を見たことがある。豪雨の後の水害集落。地震で潰れた工場群。復旧費用の見積もりを出しながら、「もう無理だ」と呟く現場監督の背中。
ただ、あの頃と違うのは——今度は俺が現場監督だということだ。
前世、俺は黒崎翔太という名の土木技術者だった。三十年間、インフラの設計と施工管理をやり続けた末に、過労で死んだ。過労死という言葉が新聞に載るような働き方だったと、あの世の入り口で自覚した。
そして気がついたら、カイル・ヴェルムントとして生まれ直していた。
この世界、グランツ王国の、辺境の小貴族の次男として。そして先日、兄のアルヴィンによって辺境の廃領地に追放された。理由は「役立たずの異能持ち」。俺のスキルが何の役にも立たないと、兄は判断した。
——役に立たない。果たして本当に、そうなのか。
「あんたが新しい領主か」
声がした。
振り向くと、石壁に背をもたせかけた男が立っていた。身長は俺の肩ほどしかない。だが横幅は二倍ある。腕は丸太で、赤い髭を三つ編みにして革紐で縛っている。革のエプロンは火花で焦げた跡だらけで、分厚い革手袋を腰に差していた。
ドワーフだ。前世の知識ではファンタジーの種族だが、この世界では普通に存在する亜人だ。
「そうです。カイル・ヴェルムントと申します」俺は頭を下げた。「ここに残っていた方ですか?」
「ゴルドだ。鍛冶師をやってる。……残ってたって言っても、俺含めて三十人しかいねぇがな」
三十人。
俺は改めて周囲を見回した。かつての街の規模からすると、少なくとも三百人以上は住んでいたはずだ。現在地に残る家屋の数から推計すると、最盛期の人口は四百から五百に近い。その一割にも届かない。
残留者というより、逃げる手段すらなかった者たちだろう。
「魔素汚染、ひどいですか」
「ひどいどころじゃねぇ。五十年前の大噴出からずっとだ。魔物は出るわ、作物は育たんわ、水は濁るわ。だから人が逃げた。逃げられなかった者だけが残ってる」
ゴルドは俺をじっと見る。品定めするような、それでいて諦めの入り混じった目つきだ。
「で、貴族のぼんぼんが辺境送りになって、何ができると思ってんだ? 前の領主は一週間で逃げ帰ったぞ。その前の代理は三日だ」
「まず現状を把握します」
「……は?」
「計測せずに対策は立てられない。現場を見るのが先です」
ゴルドが眉を寄せた。何かを言いかけて、やめた。
俺は大通りの中央に歩み出た。足元の石畳は歪んでいる。長年の地盤沈下か、あるいは地下構造の変形か。踏んだ感触でなんとなくわかる——地面の下、何かが変化している。地質の歪み方が、単純な経年劣化とは少し違う。
「《構造解析》」
俺はスキルを発動した。
——世界が、変わった。
そう表現するしかない。
目の前に展開したのは、情報の洪水だった。地面が半透明になり、地下数十メートルまでが丸ごと見える。岩盤の組成。地下水脈の流れ。土中の空洞。埋まった石材の配置——前の時代の建造物の基礎が残っている。そして——
「……なんだ、これ」
思わず声が出た。
地下に、脈動するような光の層が広がっている。赤みがかった光、青白い光、黄金色の光。それぞれが規則的なパターンを描いて走っている。まるで都市の道路網を上から見ているようだ。いや、もっと複雑だ。血管のような、神経網のような——
「魔素鉱脈……」
俺は呟いた。高濃度の魔素が結晶化した鉱脈。この領地の地下全体に、網の目のように張り巡らされている。しかも量が尋常じゃない。表層から百メートル以内に採掘可能な鉱脈が少なくとも十数本。地表近くのものは採掘深度が二十メートル以下だ。
前世の感覚で換算すると、この領地だけで中規模炭坑の数十倍に相当する魔素資源が眠っている。
「これ……全部、資源じゃないか」
「あ? 何をぶつぶつ言ってる」
ゴルドが近づいてきた。俺はスキルの表示を維持したまま、大通りをゆっくり歩き始める。
「地下の話ですよ。魔素鉱脈が至るところに走っています。表層から百メートル以内に採掘できるものだけで、俺が今まで聞いたどの鉱山よりも大きい。しかも一箇所ではなく、領地全体に分散して存在している」
「……そんなもん、見えるのか」
「見えます。スキルです」
「スキルで、地面の下が見える」
「正確には、万物の構造が見えます。地下だけでなく、物質の組成も、建物の劣化具合も、生物の骨格も」
ゴルドが黙った。
俺は次の情報を処理していた。鉱脈のパターンが規則的すぎる。自然にできたものにしては——あまりにも整然としている。まるで設計されたかのように、六角形に近い格子状を描いている。各鉱脈の太さも、ほぼ均等だ。
これは後で詳しく調べる必要がある。
大通りの端、川を渡る橋に差し掛かった。木と石を組み合わせた構造で、見るからに老朽化が進んでいる。欄干は半分落ちているし、橋脚は苔に覆われ、所々に亀裂が走っている。下流側に向かって、微妙に歪んでいる気がした。
《構造解析》が自動で情報を出力した。
石材の組成。モルタルの劣化具合——五十年以上、まともな補修がなされていない。橋脚の傾き——数値が表示される。東側の橋脚が地盤の変形によって傾いている。
基礎部分の土壌が、魔素汚染によって通常より早く風化している。これが傾きの原因だ。
「ゴルドさん、この橋、よく使いますか」
「毎日渡るな。川の向こうに倉庫がある。食料の半分はそっちに置いてる」
「東側の橋脚、見てください」
ゴルドが橋の脇に回り込んで、脚を覗き込む。
「……傾いてるか? 少しな。前からそうだったが……」
「正確には二・七度、東に傾いています。このまま放置すると——」俺は一瞬計算した。現在の傾き速度と荷重の関係から逆算する。「あと三年以内に崩落します。冬場の増水期に渡ったとき、最も危ない」
「三年……」
「ただ、補修自体は難しくない。第二橋脚の基礎に楔石を追加して、支柱の角度を三度修正すれば、あと五十年は持ちます。石材はこのあたりの廃屋から再利用できます。楔石の成形はゴルドさんにお願いできますか」
ゴルドが俺を見た。今度は品定めではなく、違う種類の目つきだった。
「……橋脚の角度が、見えるのか」
「見えます」
「三度修正、ってのも?」
「計算しました。正確には二・九三度です。楔石の厚みは——」
「待て」ゴルドが手を上げた。「一気に言われても追いつかん」
「すみません。続きは図面に書きます」
ゴルドは長い沈黙の後、赤い髭に手を当てた。
「若、あんた——なんかすごいスキル持ってるな」
「《構造解析》というスキルです。万物の構造が見える」
「万物の……」ゴルドが橋を見て、地面を見て、俺を見た。「じゃあ俺のことも?」
「骨格と筋肉の構造は見えます。鍛冶師として相当な年数働いてきたのがわかります。背骨が前に少し湾曲しているのは、長時間作業台を前かがみで使ってきた癖です。あと、右肩の腱が少し傷んでいるので、重いハンマーを振るうときは気をつけてください」
ゴルドが目を剥いた。
「右肩……確かに最近痛ぇんだが、誰にも言ってねぇぞ」
「体が教えてくれます。無理をすると断裂します」
ゴルドが言葉に詰まった。何か言いたそうにして、また黙った。
俺は特に意識せず次の現場に向かいながら言った。
「とりあえず緊急性の高いものから順に対処します。橋は今週中に着工できそうですか。楔石の成形だけ先に始めてもらえると助かります」
「——待て待て待て」ゴルドが早足で追いついてくる。「今の流れで『今週中に』ってどういうことだ。あんた、一時間前にここに着いたんだろ」
「だからこそ早く始めないといけない。三十人で冬を越すには、まず水と橋と食料の問題を抱えたままにできない。費用対効果で言えば橋の補修は最も優先度が高い」
「費用対効果……」
「倉庫に渡れなくなったら食料を失う。橋の補修材は廃材で済む。人件費はゼロ。やらない理由がない」
「その前に聞かせろ!」
ゴルドが俺の袖を掴んだ。革手袋越しでも、その握力が鉄みたいだとわかった。
「あんたのスキル。今やったことが全部本当なら——本当に魔素鉱脈が地下に見えてるなら——この領地、終わりじゃないかもしれない」
俺は立ち止まった。
ゴルドの目は、さっきの品定めとは違う光を持っていた。もっと切実な何か。五十年間、廃れ続ける領地を見てきた老職人の、まだ諦めていない部分が覗いている。
「……昔はここも栄えてたんだぞ」ゴルドが低い声で言った。「東西の交易路が交差する場所でな。人も物も金も流れてた。宿屋が三軒あって、市場が毎週立って、うちの工房も注文が絶えなかった。魔素噴出さえなければ、今でも王都に次ぐ都市になってたはずだ」
「交易路が通っていた」俺は繰り返した。「今も地形的には?」
「残ってる。ただ誰も使わんだけだ。魔物が出るし、水も飲めんし、補給ができんから」
補給ができない——魔物と水質。それが解決すれば、交易路は復活する。人が来る。物が流れる。
「わかりました」
俺は改めてゴルドを向いた。
「一つお願いがあります。俺がここを建て直そうとしているとき、一番最初に必要なのは技術者です。設計ができても、実際に物を作る人間がいないと何も始まらない。あなたに鍛冶師として協力してほしい」
「……」
「断っても構いません。信用できないなら当然です。ただ、俺にはスキルがある。やれることはある。やる意味はある。それだけは確かです」
ゴルドが俺を見た。沈黙が続く。
それから、鼻を鳴らした。
「しゃーねぇな。まあ、見てやるよ。若造がどこまでやれるか」
「ありがとうございます」
「感謝はいらん。結果を見せろ、若」
俺は頷いて、再び地面に目を向けた。
《構造解析》の光の中、地下深くで魔素鉱脈が脈打っている。規則的すぎるそのパターンが、頭の隅に引っかかり続けていた。
自然物ではない、あのパターン。設計されている、あの格子状の構造。五十年前の魔素噴出——それと関係があるのか。
それに、大地が脈動している、というのは比喩ではなかった。定期的に、鉱脈全体の魔素密度が微妙に変動している。まるで何かが息をしているように。
この大地の下に、何かがある。
——次の朝、領民たちが広場に集まっていた。「新しい領主が橋を直すと言っている」「地下の鉱脈が見えるとか」という話が夜の間に広まったらしかった。




