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三百人の選択

ドナルト商会の会頭は、思っていたより小柄な男だった。


六十を過ぎた頃合いだろうか。白髪を丁寧に撫でつけ、上質な絹のジャケットに身を包んでいる。ヴァルデンの粗末な交渉室には、明らかに場違いな風格だった。


「カイル・フォン・エルスハイム様。このたびは無礼を働きました。会頭のドナルト・ヴァンクレーと申します」


深々と頭を下げた。俺は椅子に座ったまま、軽く手を上げる。


「構いません。座ってください」


フィーネが俺の隣に立っている。ドナルト会頭の視線がフィーネに向いた瞬間、老人の顔色がわずかに変わった。それだけで十分だった。


「率直に話しましょう。御社がこちらへの物資流通を妨害した件、俺は訴訟や報復を考えていません」


「……それは、ありがたい話です」


「ただし、条件があります」


俺はフィーネに目配せした。彼女がテーブルに一枚の羊皮紙を置く。


「魔素結晶の専売ルート、三年分を御社に与えます。ただし仕切り値は我々が決める。それと——フィーネさんの件は、今後一切不問とする。彼女はヴァルデンの人間です」


沈黙。ドナルト会頭は羊皮紙をゆっくりと読んだ。魔素結晶の専売権がどれほどの価値を持つか、大陸有数の商人には一目でわかるはずだ。


「……承知しました」


交渉はそれで終わった。三十分もかからなかった。


会頭が退室する際、フィーネに向かって「優秀な子を引き抜かれましたな」と苦笑した。フィーネは無表情のまま頭を下げただけだった。それがまた、らしかった。


 *


問題は、その翌週から始まった。


「本日の到着者、四十七名です」


レーナが報告書を叩きつけるように机に置く。叩きつける、と言っても彼女は几帳面な軍人気質なので、実際には丁寧に置いたのだが、その顔が語っていた。


「昨日は三十二名。一昨日は二十八名。カイル様、これは——」


「わかってる」


封鎖突破の話が広まった。「死の大地が封鎖されても成長した」という話が、商人の口から、旅人の口から、いつの間にか大陸中を駆け巡ったらしい。


行き場のない者たちが、ヴァルデンを目指している。


元傭兵、解雇された魔術師、農地を失った農民、倒産した商人、戦争難民、亜人差別から逃げてきた獣人族……。動機も経歴もバラバラな人間が、毎日のように門をくぐってくる。


「受け入れ限界は近いですよ」レーナが腕を組む。「居住区が足りない。食料もギリギリ追いついてはいますが、このペースだと二週間で崩壊します」


「崩壊させない」


「……カイル様」


「設計図がある。俺の頭の中に」


《構造解析》Lv4が発動した。


俺は目を閉じて、ヴァルデンの地形を脳内に展開する。古代の設計図、現在の地盤データ、魔素流路のマッピング、それらが立体的に重なり合い、一つの完成形を示す。


北東の荒地——あそこは地盤が硬い。基礎工事が楽になる。西側の魔素濃度が高い区画は商業・工業用途に回す。南側の風通しがいい緩やかな斜面が居住区の第三拡張エリアとして最適だ。


水路は既存の浄水施設から分岐させる。魔導街灯の配線は第二炉から引けば効率がいい。広場は三か所、緊急時の集合場所も兼ねる。


全部で五十分、俺は設計図を書き続けた。


「……これが、新しいヴァルデンの都市計画です」


レーナが図面を覗き込み、目を細める。


「北東区画の拡張に……第四居住区と第五居住区。バラックではなく、恒久的な石造建築?」


「魔素強化コンクリートを使う。古代工場の配合レシピをゴルドたちに教えた。通常の三倍の強度が出る」


「工期は」


「突貫で二週間。人手は移民の元職人と元軍人に声をかける。手伝ってくれた分は賃金を出す——ここで働くことへの、最初のテストも兼ねて」


レーナが少し黙った。


「……やっぱり、あなたは規格外ですね」


「褒めてますか」


「事実を言っただけです」


彼女の耳が、わずかに赤い。見間違いかもしれない。まあ、いい。


 *


「ったく、また仕事が増えた」


ゴルドが文句を言いながら、魔素強化コンクリートの型枠を組み立てている。その手は止まっていない。


「しゃーねぇな、棟梁やってやるよ。しかし領主様よ、あんた本当に土建屋の生まれ変わりじゃねぇのか」


「ただの三男坊です」


「嘘つけ」


建設現場は、想像より早く機能し始めた。


元大工の移民が五人いた。元石工が三人。元土木作業員が十二人。彼らに設計図を渡し、魔素強化コンクリートの扱い方を教えると、あとは勝手に動いた。人間というのは、仕事と対価と目標を与えれば、驚くほど有能になる。


難民の子どもたちが資材を運ぶ手伝いをしていた。母親が魔素農場の作業に加わっていた。老人が炊き出しの調理をしていた。


ヴァルデンは、いつの間にか動いていた。俺が指示しなくても。


……ああ、なるほどな。


これが都市というものか。人が集まれば、機能が自然に生まれる。その機能がまた人を呼ぶ。俺がやることは、その循環を設計することだけだ。


 *


「カイル様」


フィーネが月末報告書を持ってきた。


「人口の確定数が出ました」


一枚の紙を差し出す。数字を見た瞬間、俺は思わず椅子の背もたれに体を預けた。


「……三百十八人」


「はい。先月末の百三十人から、一月足らずで三百人を突破しました。増加率は百四十四パーセントです」


フィーネは数字を読み上げる時、表情が変わらない。変わらないが、声のトーンがわずかに違う。彼女なりの興奮、なのかもしれない。


「たった三百人。されど三百人」


俺は呟いた。


半年前、ここには三十人しかいなかった。追放された俺が一人でやってきた、死の大地と呼ばれた土地に。


行き場のない者たちが集まってくる。俺もまた、行き場を失った人間だった。追放という形で放り出されて、それでもここで何かを始めた。


だから、わかる。彼らが何を求めてここへ来るのか。


土地ではない。食料でも、仕事でもない——まず最初に欲しいのは、「居ていい場所」だ。


「フィーネさん」


「はい」


「受け入れ審査、続けてください。ただし——明確な犯罪歴がない限り、追い返さないように」


「……承知しました」


フィーネが部屋を出ようとして、立ち止まった。


「……私も、追放同然でここへ来ました」


振り返らずに言った。


「カイル様が追い返さなかった。それだけで、十分でした」


静かに扉が閉まった。


 *


夕方、門番のひとりが俺のところへ飛び込んできた。


「カイル様! 今日到着した移民の中に、王都の商人がいまして」


「それだけなら珍しくないが」


「その人が言うんです。王都で、この領地の噂がすごいことになっていると。良い意味でも——悪い意味でも、と」


……ああ。


俺は窓の外を見た。建設中の第四居住区の明かりが、夕暮れの中に点々と灯っている。


良い意味での噂は、移民を呼ぶ。悪い意味での噂は——俺の想定より早く、厄介な相手を動かすかもしれない。


まあ、いい。備えることはできる。


ヴァルデンは、もう止まらない。

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