領主バルトの晩餐
馬蹄の音が、整備された街道から石畳に変わった瞬間、俺はゴルドと並んで門前に立っていた。
護衛二十名を引き連れたバルト・ヘンゼル率いる一行は、思ったより早く着いた。正午を少し過ぎたころ。太陽がヴァルデンの空に高く浮かんでいる。
「……こりゃ、随分と気合が入ってるな」
ゴルドが小声で言った。赤い髭を撫でながら、先頭の馬車を眺めている。黒塗りに金縁の紋章。ディアント領の穂束と剣の意匠だ。農業領らしい紋章だと思った。
馬車の扉が開く。
出てきたのは、予想以上に大柄な男だった。六十近いだろうか。腹は出ているが、足取りがしっかりしている。鋭い目が周囲を一瞥し、俺のところで止まった。
「カイル・ヴェルムント領主殿か」
「お越しいただき光栄です、バルト・ヘンゼル卿。歓迎いたします」
俺が頭を下げると、バルトはふん、と短く笑った。
「若いな。二十そこそこか?」
「十九です」
「そうか」
それだけ言って、彼は門の内側を見渡した。魔導街灯の柱。石畳の通り。そこを行き交う住民たち。やがて工房区画から聞こえてくる金属音と、空気をわずかに揺らす魔素炉の低周波。
バルトの目が、ほんの少しだけ細くなった。
「……見せてもらおうか」
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案内は二時間かけた。
浄水施設から始めて、魔素炉、工房区画、そして現在建設中の第二居住区。フィーネが数字を淡々と読み上げる間、バルトの顧問らしき細身の男が手帳にメモを走らせていた。
「人口百三十名。半年前は三十名だったと?」
フィーネが眼鏡を直しながら答える。
「正確には、半年と十日で百名の増加です。現在も月に十名ペースで移住希望者が増加中。来月末には百五十名を超える見込みです」
「……それは本当か」
「資料をご用意しています。後ほど晩餐の席でお見せしましょう」
顧問の男が視線をよこした。信じていない、という目だ。俺は何も言わなかった。数字は嘘をつかない。フィーネが用意したものならなおさら。
バルト自身は寡黙だった。ただ、視線だけは絶えず動いていた。建物の構造を確かめるように。人の動きを読むように。
農業領の領主が、俺の領地を値踏みしている。
そう思ったが、不快ではなかった。値踏みできるくらいには育った、ということだ。
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晩餐は、フィーネが用意した七人掛けのテーブルで行われた。
料理は正直なところ豪勢とは言えない。ヴァルデンは農地がまだ少ない。しかし、ゴルドが調達してきた野生の獣肉と、最近開拓した畑のものを合わせた。フィーネが「貧しいなりに誠意を示す」という方針を立てて、香草を惜しみなく使った。
バルトは最初の一口を食べて、少しだけ眉を上げた。何も言わなかったが。
「単刀直入に言おう」
ワインを半分ほど飲んだところで、バルトが切り出した。
「ヴァルデン領との交易協定を結びたい。魔素結晶、魔素炉の燃料材。わが領にはそれを安定して必要とする需要がある」
「ありがたいお話です」
「わが領が一次買い取りをする。市場流通前に、生産量の七割をヘンゼル商会が確保する権利を持つ。価格はわが領が決定する」
テーブルに沈黙が落ちた。
俺は手元のワインを一口飲んだ。渋みが舌に残る。ゴルドが視線をよこしているのが分かった。フィーネはすでに書類を手に持っている。
「生産量の七割、価格決定権はヘンゼル商会に。ということは、値崩れのリスクはヴァルデンが、値上がりの利益はディアントが取るという構造ですね」
「商取引というのはそういうものだ」
「なるほど」
俺は頷いた。
「では、私からも提案させてください。生産量の三割をヘンゼル商会が確保する。価格は両者協議の上で決定。残り七割は市場に流通させる権利をヴァルデンが持つ」
バルトの目が光った。
「逆だな」
「はい、逆です」
「……若造が」
「若造ですが、この交渉の席に着けるだけの実績はあると思っています。フィーネ、数字を」
フィーネが立ち上がり、手元の資料を顧問の男の前に広げた。
「ヴァルデン領の魔素結晶、過去三ヶ月の市場価格推移です。初期比三百八十パーセント。現在も上昇中。現行の供給量では、来春には倍の価格がつくと予測しています。生産量の七割を固定価格で押さえようとされるのは、正直なところ理解できる判断です。ただし、その価格をヘンゼル商会が決定するとなると」
顧問の男が資料を見ながら、ゆっくりと顔色を変えていた。
「……これは」
「本物です。行商人ハンス・リッケルトの取引記録と、先月のディアント商業組合への出荷記録を突き合わせています」
バルトが太い指でテーブルを叩いた。一度だけ。
「魔素炉を見せろ」
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夜の工房区画は、魔導街灯の青白い光の中にあった。
俺がバルトを第一魔素炉の前に案内したのは、晩餐から一時間後だ。ゴルドが炉の側面パネルを開き、内部の構造を露わにする。
「これが、汚染魔素を精製する炉です」
「……動いているのか?今も?」
「二十四時間稼働しています。停止させる必要がない構造になっているので」
バルトは炉に近づいた。あのずんぐりとした体が、熱をわずかに帯びた金属の前に立つ。炉から放たれる魔素の波動が、彼の服を微かに揺らした。
「触れても?」
「外装は問題ありません」
バルトが手を当てた。大きな手だ。農業領の領主として、おそらく若いころは自分でも土を触っていたのだろう、と思った。
しばらく沈黙が続いた。
「……なぜ動く」
「設計がそういう構造になっているから、としか言いようがないですね。汚染魔素を燃料として取り込み、精製しながら駆動エネルギーとして使う。廃棄ゼロの循環系です」
「誰が設計した」
「俺です」
バルトがゆっくり振り返った。
鋭い目が俺を見る。若造を値踏みする目ではなく、今は違う何かを測る目だった。
「……わかった」
彼は短く言った。
「三割だ。ただし、優先購入権は維持する。他の商会より先に、同価格で買う権利をわが領が持つ」
「それであれば、協議の余地があります」
「年一回の価格改定会議をヴァルデン主催で行う。これも条件だ」
「承りました」
俺が手を差し出した。バルトは一瞬間を置いて、それを握った。
骨が軋みそうな握力だった。老いても、この人は強い。
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帰路の馬車の中で、バルトは一人で窓の外を見ていた。
ヴァルデンの魔導街灯が遠ざかっていく。あの青白い光が、数ヶ月前まで死の大地だった場所に灯っている。
「……あの若造」
誰にでもなく、呟いた。
使える。ディアントの利益のために動かせる駒になるか、とそう思っていた。だが今は。
「使われるかもしれんな」
顧問が怪訝な顔をしたが、バルトは何も言わなかった。
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バルト一行を見送って、俺が工房に戻ったのは夜更けだった。
ゴルドはすでに酒を飲んでいる。フィーネが帳簿を閉じながら「良い交渉でした」と言った。眼鏡の奥の目が、少しだけほっとしていた。
「三割確保で、価格主導権はこちらに。及第点以上ですよ、領主さま」
「フィーネの数字攻撃が効いた。顧問の男、後半は計算機になってたぞ」
「事実を並べただけです」
ゴルドが笑った。「しゃーねぇなあ、あの太っちょ。本当は七割持ってく気満々だったくせによ」
「利害が合えば動く人だ。悪い隣人じゃない」
俺はそう思っていた。バルトは老獪だが、理屈が通じる。それは交渉相手として、十分に戦える相手だということだ。
熱いお茶を一口飲んだところで、足音が駆けてきた。
「領主さまっ!」
ミラだった。狐耳をぴんと立てて、銀色の尻尾をまっすぐ伸ばして。その目に、俺が見たことのない色が宿っていた。
「どうした?」
「地下から……何かが、呼んでます」
静かな夜が、一瞬だけ重くなった気がした。




