逃げる魔法と、予想外の効果
アストレア戦記でも、ダークレインは闇属性の魔法使いが覚える最上級の範囲攻撃だった。
命中精度の高い追尾魔法で、どんな乱戦でも味方を巻き込まずに広範囲を攻撃できる、優れモノだ。
もう一つは、穏やかな青い光を放つ小さな石だった。
「こちらはリトリート。僧侶の方がよく身につける、戦場から離脱するための魔法です」
「お礼なら、どちらも受け取れません」
俺が言うと、ウルスラは小さく首を横に振った。
「受け取ってほしいのじゃ。ただ……すまぬ、一つだけなのじゃ」
ウルスラは申し訳なさそうに目を伏せた。
「わらわがまた人前に出るには、後見人となってくださっている方に、きちんと礼を尽くさねばならぬ。一つは、その方にお渡ししたい。どちらか一つを、選んでくれぬか」
俺は迷わず、青い石を手に取った。
そして、そのまま背後のエリスに差し出した。
「リズ。これを」
エリスが、きょとんとした顔で俺を見た。
それから、小さく首を横に振った。
「いけません。これはレン様へのお礼です。ダークレインを扱える方は希少ですし、レン様が覚えればもっと多くの人を守れるはずです。そちらを選ぶべきです」
「貴女はこれから何度も戦場に立つことになる。想像を超える危険な目に遭うこともあるだろう。俺は貴女に、必ず無事に帰ってきてほしいんだ」
俺は、青い石をエリスの手のひらに載せた。
エリスは、しばらく黙って青い石を見つめていたが、やがて小さく頷いた。
石が光の粒となって、エリスの手のひらに吸い込まれていく。
「……リトリート、習得いたしました」
そう告げたエリスの声は、少しだけ沈んでいた。
「祈りに続いて、ようやく覚えた魔法が、戦場から逃げるだけの魔法なのですね」
「逃げるのも、立派な戦術だよ」
実際、回復職や補助魔法使いは移動速度が遅く、戦闘職から離れてしまって奇襲を受けることはよくある。
もし貴重な仲間を失ったら、ゲームではリセットだが、この世界だとそうはいかない。
リトリートの習得で今後はレベルアップでのスキルレベル上昇が神聖魔法にも割り当てられ、祈りのスキルレベル上昇は抑えられるかもしれないが、それでも構わない。
生きて帰ることが、本当に何よりも大切なのだから。
その時、門の方から馬の嘶きが聞こえた。
窓から外を覗いたミレイユが顔色を変える。
「お嬢様、ご親族の方が……!」
ウルスラの顔が、さっと強張った。
「隠れるのじゃ。早く」
「どうしたのです?」
エリスが尋ねると、ウルスラは唇を震わせた。
「わらわは、一族の一部の者たちにひどく疎まれておる。わらわを助けたと知られれば、そなたたちの立場が悪うなるやもしれぬ」
玄関の扉が開く音がした。
ミレイユが慌てて迎えに出ていく。
廊下の向こうから、男の声が聞こえてきた。
「様子を見に来てやったぞ。まだ生きているのか、あの化け物は」
低く、よく通る声だった。
扉の隙間から、一瞬だけ男の姿が見えた。
整った顔立ちの壮年の貴族で、兵を何人か連れている。
ミレイユが何事かを告げると、男の顔がわずかに歪んだ。
どうやら、ウルスラの回復を良く思っていないらしい。
「ウルスラ嬢、君はここに残って大丈夫なのか? あの男は柄の悪い私兵を連れているし、今にもこの部屋に飛び込んできそうだぞ」
「……殺されはしないじゃろう。あの男にとって、わらわは動けないが生きているというのがちょうどよいのじゃ」
よくわからないが、無事では済まない気がする。
「リトリートを使います」
エリスが小声で言った。
「リトリートは一人を戦場から離脱させる魔法だな。まずはウルスラを、次いでアイシャを、次にリズ自身を離脱させてくれ。俺は自力で逃げる」
エリスが頷き、ウルスラの肩に手を置いた。
「リトリート」
青い光が弾けた。
ウルスラを包むはずの光が、膨れ上がるように広がり、アイシャとエリス、そして俺まで呑み込んでいく。
足元の床が消えたような浮遊感。
視界が白く塗り潰される。
次の瞬間、俺たちは石畳の上に立っていた。
四人一緒に。
見回すと、そこは俺たちの安宿の裏の路地だった。
遠くに、帝都の宮殿の尖塔が見える。
屋敷があった場所から数キロメートルは離れている。
「……四人とも、飛んだ?」
アイシャが、自分の両手を見つめて呟いた。
「リトリートで複数の人間が離脱するなんて、聞いたことがありません」
エリスも呆然としている。
「リズの魔力が強すぎるせいかもしれないな」
俺はそう言いながら、別のことに感動していた。
アストレア戦記で戦場離脱魔法を使ったキャラクターは、マップから消えるだけだった。
どこへ行ったのか、考えたこともなかった。
そうか。
こうやって、実際に転移していたのか。
「レン、なんで嬉しそうなの」
「いや、ちょっと感動してるだけだ」
「変な人」
アイシャが、呆れたように溜め息をついた。
「そうだな、感動している場合じゃなかった。ウルスラ嬢、これからの当てはあるのか?」
「うむ、一応はある。その……すまぬ。世話になりっぱなしじゃが、ミレイユが心配で……」
「ああ、気にするな。一人で大丈夫なのか?」
「他の者がいると、わらわの後見人には会えぬのじゃ」
「わかった。気を付けてな」
頷いて、ウルスラは街中に消えていった。




