お礼の招待と、皇女の蔑称
翌朝、宿の扉を叩く音で目が覚めた。
扉を開けると、ミレイユが立っていた。
昨日の繕いだらけのお仕着せではなく、真新しい紺色の侍女服を着ている。
「昨日は大変失礼いたしました。お嬢様と、お嬢様の後見人の方が、改めて皆様にお礼を申し上げたいとのことです。宮廷まで、お越しいただけますでしょうか」
「宮廷とは……そういう名の酒場があるのか?」
思わず尋ねてしまう。
「突然言われても、何のことかわからないですよね」
ミレイユは苦笑しつつ、帝都の中央の宮殿の尖塔を手で示した。
「あちらの宮廷でございます」
帝国の宮殿は、黒い大理石で築かれた威圧的な建物だった。
謁見の間の天井は高く、壁には歴代皇帝の肖像画がずらりと並んでいる。
その正面に、数人の皇族が待っていた。
中央に立つのは、灰銀色の髪を後ろに流した青年。
帝国皇太子、ジークハルトだった。
俺は、フードの下で息を詰めた。
王都の中央広場で、俺の素顔を見た男だ。
そしてその背後の壁際には、熊のような体躯の騎士が控えていた。
俺の仮面を剥ぎ取った、あの護衛騎士だ。
ジークハルトの隣には、淡い藤色のドレスを纏い、亜麻色の髪を丁寧に結い上げた少女が立っていた。
まだ痩せてはいるが、昨日の寝台の上の姿とは見違えるようだった。
「昨日は世話になった。改めて名乗らせてほしい」
少女はドレスの裾をつまんで、優雅に礼をした。
「帝国第三皇女、ウルスラ・ヴァルグレイスじゃ」
俺は言葉を失った。
皇女。
それなりの身分の貴族の娘だろうとは思っていたが、まさか皇族だったとは。
「昨日話した後見人とは、こちらの兄上のことじゃ」
ウルスラが、隣のジークハルトを見上げる。
ジークハルトは穏やかに微笑んだ。
「妹を救ってくれたこと、心から感謝する。ダークレインの石は、皇家の宝物庫に大切に納めさせてもらった」
その時、居並ぶ皇族の中から、聞き覚えのある声がした。
「ふん。汚らわしい三番目の女……サード・モンスターが人前に出てくるとはな。治ったところで、薄気味悪いことに変わりはない」
低く、よく通る声。
昨日屋敷を訪ねてきた、あの壮年の貴族だった。
ウルスラは、まっすぐに叔父を見返した。
「叔父上。わらわには、ウルスラという名がある。今後、そのような呼び方は控えられよ」
静かな声だった。
だが、昨日まで寝台の上で「見るでない」と震えていた少女の声とは、別人のようだった。
壮年の貴族は鼻を鳴らし、顔を背けた。
俺はその場に立ち尽くしていた。
サード・モンスター。
その呼び名に、全身の血が凍りついていた。
聞き覚えがあった。
アストレア戦記の、聖霊の巫女誕生イベント。
魔術結社の地下牢で、五感を奪われた少女たちの中に、結社の者たちが「サード・モンスター」と呼んで蔑む少女がいた。
他の少女たちが次々と絶望していく中で、ただ一人、最後まで人類の幸福を願い続けた少女。
プレイヤーに救われ、聖霊の巫女として覚醒した彼女は、本当の名前を最後まで明かさなかった。
味覚を失った時にされた残虐な行いの後遺症で、ほとんど話すことはなく、ただ「サード」とだけ名乗っていた。
俺は知らないうちに、聖霊の巫女となる少女を救っていた。
「ところで、行商人殿」
ジークハルトの声で、俺は我に返った。
「妹からは、レンという名だと聞いている。フードを取って、顔を見せてもらえないだろうか。恩人の顔を知らないままでは、礼を尽くしたことにならない」
柔和な声だった。
だが、灰色の瞳は笑っていなかった。
ジークハルトが、一歩こちらへ踏み出す。
黒衣の肩を飾る金糸の肩章が揺れるのを見て、俺は戦慄した。
この肩章、幾度となくアストレア戦記で相まみえたので間違えるわけがない。
皇太子はただのお坊ちゃんではなく、帝国の将軍だ。
アストレア戦記における帝国将軍、特に皇族の強さは凄まじいもので、一騎当千という言葉そのものだった。
魔族の侵攻に抗うために共闘する時は頼もしい援軍に、人類統一を掲げて王国に攻め込んでくる時は恐ろしい兵器になる。
ジークハルトがあの将軍たちと同等の力の持ち主だとしたら、真正面からでは、どうやっても勝てない。
英雄王サルコフの肉体を魔将アシュラグラの装甲で覆った肉の鎧も、この男の剣の前では紙切れ同然だろう。
エリスのリトリートで逃げられるだろうか。
宮殿の中に転移を封じる結界が張られているかもしれないし、詠唱を終える前に斬られるかもしれない。
ここでフードを外せば、全てが終わる。
俺だけではない。
栗色に髪を染めているとはいえ、ジークハルトは王都の広場でエリスを間近に見ている。
顔を覗き込まれれば、やはり終わりだ。
「どうした? 遠慮はいらないよ」
その時、隣のアイシャが、すっと俺の腕に自分の腕を絡めた。
妻が夫に寄り添う、ごく自然な仕草だった。
「夫は、顔を見られるのが苦手です」
アイシャが、淡々と言った。
「でも、皇太子殿下のご命令なら。……あなた、私に任せて」
アイシャがフードに手をかける。
アイシャの言葉を信じて、俺はされるがままに任せた。
フードが外されると、居並ぶ皇族たちから一斉に呻き声が上がった。
「これは……なんと醜い」
「汚らしい、邪悪な姿だ。宮廷に招き入れてよかったのか……?」
何人かが顔を背け、壮年の貴族が露骨に口元を押さえる。
いつもの反応だ。
だが、ジークハルトの反応だけが違った。
彼は俺の顔をまじまじと見つめ、それから、ほんの少しだけ眉を下げた。
ジークハルトの視線が、俺の背後のエリスへと移る。
エリスは侍女らしく、静かに頭を下げ、ジークハルトは一瞬首を傾げたものの、それだけだった。




