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民衆の石礫と、王都からの逃走

そして、エリスは。

光を取り戻したばかりのその目を大きく見開き、片手で口元を押さえていた。

もう片方の手が、俺の方へ伸びかける。

唇が動き、何かを言おうとしている。

だが、広場を埋め尽くす悲鳴にかき消されて、その声は俺の耳まで届かなかった。

次の瞬間、エリスの口の端から一筋の血が流れた。

自ら舌を噛んだのだ。

そのまま、エリスの体は糸が切れたように崩れ落ちた。

「エリス様!」

駆け寄ろうとして、俺は足を止めた。

ああ、そうか。

悲鳴を上げないために、気を失うまで耐えたのか。

光を取り戻して、最初に見たのがこの顔だったのだから、当然だ。

それでも王女として、婚約者を傷つけまいと、自分の舌を噛んでまで声を殺してくれたのだ。

その気遣いが、今は何よりも痛かった。

「王女様が倒れたぞ!」

「あいつのせいだ!」

「やっぱり不釣り合いな婚約者だったんだ!」

「王城に不幸を呼ぶ、邪悪な怪物め!」

群衆の恐怖は、すぐに怒りへと変わった。

誰かが石を投げ、それを合図に、無数の石や棒きれが俺めがけて飛んでくる。

素手で殴りかかってくる男たちもいた。

国境の町での光景が脳裏をよぎる。

ここで反撃すれば、俺は本当に「民を傷つけた怪物」になる。

フェルディナ家にも、エリスにも、取り返しのつかない汚名を着せることになる。

「フレッシュゴーレム・アーマー!」

足元から、大理石のように青白く透き通った肉が這い上がり、俺の全身を覆っていく。

魔将アシュラグラの遺骸から作り上げた、新しい肉の鎧だ。

サルコフの黒い筋肉よりもさらに硬く、石も拳も、まるで雨粒のように弾き返す。

だが、その姿は群衆の恐怖に油を注いだだけだった。

「正体を現したぞ!」

「王女殿下に何をした、貴様!」

壇上から、数人の騎士と貴族が剣を抜いて飛び降りてきた。

何をしたと言われても、何もしていない。

だが、彼らの目には理性の光がなかった。

俺の顔を見た瞬間、理性よりも本能が先に動いている。

刃が振り下ろされる、その直前。

白銀の髪が、俺の視界を横切った。

「どきなさい」

来賓席から飛び降りてきたセレスティアが、俺と騎士たちの間に立っていた。

振り下ろされた剣を、杖の一振りで叩き落とす。

返す杖で二人目の剣を弾き飛ばし、三人目の騎士の腹に、魔力を纏った蹴りを叩き込んだ。

「ぐはっ……!」

騎士が石畳を転がる。

「セレスティア嬢! その化け物を庇うおつもりか!」

貴族の一人が叫ぶ。

セレスティアは振り返りもせず、さらに二本の剣を杖で絡め取って投げ捨てた。

その間も、群衆から飛んでくる石だけは、魔力障壁で静かに受け止めている。

民衆には、決して手を上げない。

「あなたたち」

剣を失った騎士たちを睨みつけ、セレスティアは広場中に響く声で叫んだ。

「決闘演習場で、私の弟一人に群がったのを、また繰り返すつもり? 今度は手加減しないわよ!」

騎士たちが怯んだ。

だが、騒ぎを聞きつけて駆けつけた警護の騎士たちが、次々と剣を抜いて押し寄せてくる。

群衆も、怒号を上げながら波のように迫ってくる。

いくらセレスティアでも、体術だけでこの数を相手にするのは無理だ。

「姉上、もういい! 下がってくれ!」

「誰に向かって言ってるのよ!」

セレスティアの杖が騎士の剣を弾いた瞬間、別の騎士が死角から斬りかかった。

その刃が、目に見えない壁に阻まれて弾け飛んだ。

「結界……!?」

セレスティアが目を見開く。

壇上で、アランが片手を掲げていた。

その掌から放たれた淡い光が、セレスティアと群衆の間に半透明の壁を形作っている。

『天稟』で再現した結界スキルだ。

「アラン様……」

「勘違いするな。グラディオンでの借りを返すだけだ」

アランは不機嫌そうに顔を背けたが、結界を解く気配はなかった。

セレスティアは一瞬だけ口元を緩め、それから俺の方を振り返って叫んだ。

「行きなさい、レオン! ここは姉が預かるわ!」

俺は壇上に目を向けた。

駆けつけた侍医たちが、気を失ったエリスを抱えて運び出していくところだった。

口元の血は拭われ、呼吸も落ち着いているように見える。

無事だ。

それだけ確かめて、俺は肉の鎧に魔力を注ぎ込んだ。

アシュラグラの背から、八本の青白い腕が生える。

六本腕の魔将の名残だ。

その腕で石畳を蹴り、俺は近くの建物の屋根へと跳び上がった。

眼下で、群衆の悲鳴と怒号が渦を巻いている。

俺は振り返らずに、屋根から屋根へと王都を駆け抜けた。

八本の腕が瓦を掴み、煙突を蹴り、塔の壁を這い上がる。

背後から、追手の騎士たちの怒声が遠ざかっていく。

王都の外壁が見えてきた。

城門の前に降り立った時、一騎の馬が俺の前に回り込んだ。

カティアだった。

聖騎士の白い正装が、夕日を浴びて赤く染まっている。

「レオン殿」

カティアは馬から降り、俺の前に立った。

剣の柄に、手はかかっていない。

「私は……」

何かを言いかけて、カティアは唇を噛んだ。

碧眼が揺れている。

教会の聖騎士として、王都で騒ぎを起こした男を見逃すわけにはいかないはずだ。

それでも、彼女は剣を抜かなかった。

しばらくの沈黙の後、カティアは黙って一歩横に退き、城門への道を空けた。

「……ありがとう、カティア」

俺はそれだけ言って、城門を駆け抜けた。

背後でカティアが何かを呟いた気がしたが、風の音にかき消されて聞こえなかった。

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