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壊れた空の迷い星  作者: 葉里ノイ


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19/20

19-雪解け


 頭に落下した水晶の直撃を受けたナナが目を覚ました時、視界は白い毛に覆われていた。ペンギンの腹だと認識するのに少し時間が掛かった。

「アデリー」

 目覚めてすぐに大好きなペンギンを抱き締められる。最高の目覚めだ。

「起きたか? 具合はどうだ?」

 ペンギンが喋ったのだろうかと腹に埋めていた顔を上げるが、声を出したのはその背後にいた整った顔立ちの青年だった。

星火(せいか)

「頭は大丈夫か?」

「その言い方は何だか嫌だけど。大丈夫だけど、少し痛いわね」

「少しで済んだならいいが。記憶が飛んだとか、アデリーが三羽に見えるとか、変わった所はないか?」

「アデリーが三羽に増えたら嬉しいわね。全部覚えてるし、大丈夫よ」

「良かった。それなら、ちゃんと叱れるな」

「…………」

 無事を確認していると思いきや、叱咤できるか判断していたらしい。ナナはペンギンの腹に再び顔を埋めた。

 星火はニナも一緒に叱るつもりだったが、彼女はかなり懲りているようだったので止めにした。これ以上は怖がらせる一方になってしまう。

「ニナとスイから話は聞いたが、魚が暴れてできた穴に入るなんて危険だろ。さすがに警戒心が無さ過ぎる」

「……私は星火に付いて行ってるけど、お堅い組織じゃないでしょ」

「なら堂々と目を合わせたらどうだ? 怪我をしたんだから、後ろめたい気持ちがあるんだろ? 今後は相談くらいしてほしい。もし今回、僕が行っていれば、魚が暴れないよう笛で鎮められた。行くなと言ってるわけではなくて……安全な方法を一緒に考えたい」

 ナナは上目遣いで星火を見上げ、渋々と体を起こす。そして口を尖らせた。

「星火はすぐに自分を売り込むんだから」

「代金は請求しないんだから、頼ればいい。それでも頼り難いか?」

 常々貧弱だと零しているナナは、それとは違う彼を頼もしいと思う。星の一族は特別だ。共に行動をして、それを何度も見せ付けられた。

「……星火を誘わなかったのは……悪いと思ってるわ。少し……。でも寝てたから……星火は普段、あまり寝てないでしょ?」

「そこそこ寝てる」

「嘘吐き。目は閉じてるけど私とニナが安全に眠れるよう起きてる時間が長いし、スイが来てからは警戒してもっと起きてる時間が長い。最近漸く警戒を解いたのか、人数が増えたことで星火自身も安心して眠れるようになってきた。違う?」

「…………」

「星火もペンギンみたいよね。寝ていても物音がすればすぐに起きる。疲れ果てて起きない時もあるけど」

「…………」

「図星を指されると黙るのね。私の勝ちかしら?」

「……勝負はしてない」

「それよりニナと覗き野郎は? 二人で穴を見に行った?」

 星火は立てていた膝に頭を垂れた。ナナは懲りていない。どころか星火を揶揄い始めた。彼を気遣ったことは理解できたが、あまり寝ていないことに気付かれているとは思わなかった。目を閉じていれば寝ていると判断すると思ったのに、彼女は目敏い。

「二人ならそろそろ戻って来るはずだ。近くにいる」

 そう話をした直後にドアを開ける音が聞こえた。噂をすれば影となる、だ。

「あっ、ナナちゃん起きてる! 大丈夫?」

「大丈夫よ」

「良かったあ……死んじゃったかと思った……」

 ニナの目元が少し赤くなっていることにナナは気付いた。理由はすぐにわかった。まさか泣いたとは思わなかった。

「ニナは怪我は無かった?」

「ナナちゃんが庇ってくれたから何ともないよ! これは感謝の印」

 ニナは大事に抱えていたそれをナナの前に置いた。掌ほどの灰色の薄い星だ。

「もしかして……ウミユリ?」

「ちょっと重いけど、鍋敷き……コップ敷きに使える」

 鍋を置くには小さいため、コップを上に載せた。持って来た石のウミユリを薄切りにした。

「スイに切ってもらった。ペンダントもある」

 星形の角に小さな穴を空けて紐を通したそれをコップ敷きの横に置いた。

「身に付けるには重そうね」

「皆お揃いにするかなって、四つある。スイが作ってくれた」

「俺は、セイさんが付けるって言うなら」

「僕は付けない」

「じゃあ俺も付けない」

「私もいらないわ。肩が懲りそうだもの」

「そんな……」

 四つの星を並べていたニナは愕然とした。仲間の印として星を身に付けることを羨ましがっていたナナにまで拒否された。

「コップ敷きなら貰ってあげてもいいけど」

「まあ僕もコップ敷きなら……」

「セイさんが貰うなら俺も貰う」

「主体性が無いわね」

「うるせぇ」

 三人はコップ敷きの方を手に取り、口には出さなかったが内心では『重』と思わず呟いてしまった。薄いとは言え石だ。

「皆お揃いだね! 私は重いからたぶん持ち歩かないけど、心は皆と一緒」

 星火とナナは手に取ったコップ敷きを置こうか真剣に悩んだ。

「そうそう、助けてくれたんだってね? 感謝はしておいてあげるわ。私はともかくニナが生き埋めになるのは嫌だもの」

「お前な……お前も命は大事にしろよ」

 素直に礼を言っているのかいないのか判然としない彼女にスイは呆れるが、彼女から感謝の言葉が出るのは意外だった。

 それを後ろから見ていたペンギンは、ぺたぺたと遣って来て星のペンダントの一つを咥えた。体が普通のペンギンより大きいとは言え嘴で掴むのは重いだろうに、ひょいと持ち上げた。そのまま咥えて部屋を出て行ってしまう。

「アデリー? 何処に行くのかしら」

 一旦コップ敷きを置き、ナナは怪我をしたと思わせない足取りでドアの向こうを覗く。

 その足で彼女も出て行くので、星火は慌てて追った。ナナの負傷は瘤だけだが、頭を打ったのだからまだ心配だ。

 ニナとスイも勿論追い掛けた。

 ぺたぺたと短い足を忙しなく動かし、居住区を抜けて階段を両足を揃えて跳び、ペンギンは上を目指した。

「もしかして外に出たいのかしら……?」

 ナナの予想は的中し、ペンギンは防水扉の前で立ち止まった。幾ら嘴に力があっても、ハンドルを捻らなければ扉は開かない。星を咥えている嘴や小さな翼では扉を開くことができない。

「開けてほしいみたい」

「雪が恋しくなったのか? 汚染されているとは言え、アデリーペンギンと言えば雪だ」

「そうね。遊びたいのかしら」

 星火の指摘に頷き、ナナは扉のハンドルを捻った。重い扉が軋みながら開く。ひやりとした空気が体に絡み付いた。

 外は相変わらず薄灰色の雪が積もっていたが、吹雪は止んでいた。駐車場に吹き込んだ雪はそのままで、扉を開けていると冷気が流れ込んでくる。

 ペンギンは両翼を広げて雪の上を歩き始めるが、面倒になったのか俯せに転がって腹で進み始めた。短い足で雪を蹴って前進している。

「アデリー?」

 四人は腹で滑って進むペンギンを追う。こちらは滑らないよう慎重に、星火はニナの腕を掴んだ。

「何処へ行くの?」

 一度も振り向かず、ペンギンは駐車場を出た。灰色の星を大事そうに咥えたまま、建物の間へ滑っていく。

「――あ! アデリーの仲間がいる!」

「え? 何処?」

「あそこ!」

 ニナが指差した先には雪しかないように見えたが、常緑の木の葉が微かに揺れた。

「あそこにいるの……?」

「五匹くらいいる」

「もしかしたら、仲間が迎えに来たのかもな」

「私も行ってくるわ」

 駆け出そうとするナナを星火は慌てて止める。吹雪いていないが雪は危険だ。

「よく見ろ。雪が溶け始めてる。こういう時は……」

 注意を促そうとしたが、その前に視界にある屋根から分厚い雪が轟音を立てて滑り落ちた。人がいないのだから、雪下ろしも雪掻きも勿論されていない。

「雪解けと共にペンギンは何処かに行くんだろ。水溜りの魚と同じだ」

「付いて行ったら何処に行くかわかるわ。巣があるかも」

「アデリーが何で振り向かなかったかわかるか? 未練を残さないためだ。振り向くと別れが辛くなる」

「尤もそうなこと言ってるけど、アデリーは喋らないわよ。何を考えてるかわからないわ。星火が寂しいのね」

「確かに何を考えているかわからないが……ペンダントを咥えていっただろ。離れていても仲間だ」

 コップ敷きは四つしか作らなかったため、ペンギンの分が無かった。代わりに余っていたペンダントを咥えた。何を考えてそれを咥えたのか、憶測を述べることしかできないが、強ち違うとも言い切れない。

「アデリー……見えなくなっちゃったわ」

「まだいるよ。こっち見てる。首……首? にペンダント付けてるよ!」

「本当に?」

「手を上げてる」

 ニナはその方向に向かって手を振る。ニナからは見えているが、ペンギンにこちらが見えているかはわからない。

「望遠鏡が欲しいわ」

「あるぞ」

「!」

 スイは一眼の望遠鏡を鞄から取り出してナナに差し出した。野蛮な女だの何だのと散々言っていたが、余計なことは言わずに差し出し、ナナもそれを受け取った。

 片目を瞑り、初めての望遠鏡を覗く。

「――アデリーペンギンが六羽! 星を付けてるのがアデリーね。本当に……」

 翼を一つ上げている。ナナも大きく手を振った。

 ニナとナナが手を振るので、よく見えていないが星火とスイも手を振った。

 ナナは涙ぐむが、零すのは堪えた。

「また雪が積もったら会えるかしら……」

「会えるといいね」

 目の前で分厚い雪が落ち、冷たい飛沫が四人に掛かった。四人は駐車場の中にいるが、落ちて割れた雪の塊が足元に迫る。そこに鋭利な氷の棒――氷柱(つらら)が落ちて刺さった。

「皆、危ないから一旦地下に戻ろう」

「アデリー行っちゃったわ……またねって言ってた」

「言ってたね」

 ニナはナナの手を取り、足元に気を付けながら防水扉へと戻った。

 星火とスイは首を捻る。ペンギンは喋らない。そう言ったのはナナだ。

「……あ、おい。俺の望遠鏡」

 貸していることを思い出したスイは後を追い、星火も地下へ戻る。慌ててペンギンを追ったので火も荷物もそのままだ。

「雪が溶け始めたなら、もうすぐここから出られる。僕とニナはここを出るが、ナナとスイはどうする?」

「何で訊かれたかわからないけど、私は付いて行くわよ」

「アデリーにまた会うなら、ここから移動しないのかと思ったんだが」

「また会いたいけど、次に雪が積もるのはいつになるかわからないし。暖かくなったら消えてしまいそうだから」

 作った雪だるまを名残惜しむようにナナは目を伏せた。雪の間だけの特別な交流だった。

「スイはどうするんだ?」

「俺は、セイさんに付いて行きますよ! 勿論です」

「……そうか。スイは何か目的があるか?」

「セイさんは目的があって旅をしてるんですか?」

「いや……明確な目的は無い。安全な場所で定住できればとは思っているが」

「目的無しですか……。俺は擬似空(ぎじそら)の管理施設に行ってみたいっていう夢はありますが、何処を探せばいいかさっぱりなんで、セイさんの旅のついでに個人的に探してみます。セイさんは好きな所に行ってください」

「僕の好きな所は別に……。ニナ、次は何処に行く?」

 星火達の目的は、ナナが教えてくれた遊園地だった。その先のことを考えていない。

 待機場所に戻り、ニナは小さな腕を組んだ。幼い顔を目一杯真剣に、考え始める。考えても地上のことを碌に知らない彼女に、行き先が浮かぶことはないだろう。

「……うーん……行きたい所はわからない……。面白い所はある? 第五十六地下地区って所は気になるけど」

 その辺に立っている建物の用途も知らないニナには、知っていて行ったことがない場所など彼の家くらいだ。だが星火は家に帰るのを嫌がっている。候補には入れられない。

「それは僕も気になるな。だが普通の地下集落のことを指すのか、別物が存在するのか何もわからない。……外に出た時に考えるか。少し物色して……」

 現代は謎だらけで、気になる場所すら情報が無い。歩いていて偶然見つけることに期待するしかない。それは途方も無い期待だ。星火は考えながらカンテラを提げて部屋を出ようとし、ふと立ち止まった。

「……これ、アデリーの羽根か?」

 足元に小さな黒い羽根が落ちていた。それを拾う前に、ナナが飛び付く。

「ここに鳥なんて……鳥肉なんてなかった。アデリーだわ!」

 ナナは大事そうに羽根を拾い、潰さないように優しく握り締めた。柔らかくて軽い、吹けば簡単に飛んでいってしまう儚い落とし物だ。

「良かったな」

 星火も安堵したように微笑み、部屋を出た。死んだわけでなくとも、誰かがいなくなる空白は思いのほか空虚で寂しいものだ。落ち込んでいたナナの顔に笑みが戻ったことに安心した。

 ナナはそれを手に、壁を背に布団に座った。羽毛布団ではないので、布団から飛び出た羽根なんて拍子抜けな可能性も無い。

「私は星火の家に行ってみたいわね。奏者の名家なんて皆が見たいわ」

 気分を持ち直したナナは明るい声で話を再開した。

「セイは行きたくないって言ってるから駄目だよ、ナナちゃん」

「知ってるわよ」

 スイは横目で二人を一瞥し、星火の家を想像してみる。不自由の無い生活を送っている奏者の名家など、廃墟や貧しい地下集落ばかり見ている彼には想像できなかった。

「私も物色してくる」

「行ってらっしゃい。私はまだ少し頭が痛いからここにいるわ」

「うん。スイが付いててくれるから大丈夫だよ」

「え」

 名指しされたスイは声が上擦った。ナナは一瞥を向けるが、無言でニナに手を振った。

 この集落にもう数日留まっているが、その間生きた人間には出会わなかった。最初に見つけた髭男が最後の住人だったようだ。

 水溜りは農園にしか無く、そこに接近しなければ危険は無いだろう。ニナでも一人で歩ける。

 ニナはカンテラを方々へ構え、辺りを見回しながら居住区を出る。足音が聞こえる方へ小走りで向かった。

「セイ!」

「ん?」

 農園へ向かって歩いていた星火は振り向いて立ち止まった。歩幅の小さいニナが追い付くのを待つ。

「何処行くの?」

「晶洞を見ようと思ったんだ」

「キラキラ!? 私も行く。もう一回見る。あわよくばキラキラを持って行く」

「畑は危険だから、僕から離れるなよ」

「わかった」

 星火は鞄から銀笛(ぎんぶえ)を取り出し、農園に足を踏み入れる。畑に空いた大きな穴はまた大きくなったようだ。

 水面に目を遣り笛を口元に構え、何処か物悲しい音色を奏でる。

 ニナはそれに聴き入り、水面を注視した。波紋は立たず、魚は大人しく沈んでいる。

 安全を確保し、物悲しい余韻を残して銀笛を下げる。水面を確認し、星火は壁の穴に入った。

 銀笛を吹き終えると星火はいつも寂しそうな顔をする。今まで傍らでそれを見てきたニナは、音色と関係あるのだろうと漠然と考える。

「セイは何を考えて笛を吹いてるの?」

「え?」

 そんなことを尋ねられたのは初めてだった。そんなことを尋ねられる想定すらしていなかった。

「……魚を……鎮めないと?」

「それは寂しいこと?」

「寂しい?」

「寂しい音がしてる」

 何を聞きたいのか、星火も漸く察した。奏者の音色は自身の心象を表す。

「あまり突かれたくないことだな……。心象……と言っても難しいか? 奏者の胸の底にある気持ちや記憶が音として出るらしい。寂しいと感じるならつまり……僕の心の何処かに寂しい気持ちがあるんだろうな」

「家に帰れなくて寂しい?」

「それはない」

「犬に会いたいって前に言ってた」

「ヌイか……確かにそれは寂しいかもな」

 やはり寂しいのだ。ニナは尻尾を掴んだとばかりに畳み掛ける。

「お兄ちゃんは?」

「……会えない」

「?」

『会いたくない』ではなく『会えない』とは何なのか。ニナは首を捻る。星火は兄と仲良しで、二人でよく銀笛の練習をしていたとスイが言っていた。仲良しなら会いたいものではないのか。

「わかった! お兄ちゃんと喧嘩したんだ。だから気不味いんだ」

「好きに解釈してくれ」

「む……セイは秘密ばっかり!」

 止まっていた足を動かし、星火は少し屈んで穴を通り抜けて硝子のような透き通った空間に出た。話に聞いていた通り、六角形の無色透明な結晶が乱立してカンテラの光を反射しキラキラと光っている。

「……綺麗だな」

 尖って凸凹とした地面は歩き難いが、更に奥へ進む。凍り付いた光の庭を歩いているようだ。

 そこに異様な石像が現れる。細長く伸びた茎に、花のような頭が付いている。星火の身長よりは低いが、ニナよりは高い。

「これがウミユリか? 初めて見る」

「ナナちゃんがそう言ってたよ。あっちの奥に水溜りがあって、生きてるそいつがいるって」

「水溜りか……笛を吹いておく」

 再び銀笛を構え、物悲しい音色を奏でて前へ進む。

 ニナに指摘されたことで、星火も自分の音色を客観的に分析してみる。

(寂しい……か。家や両親に関しては微塵も寂しくないが、ヌイや……兄に会えないのは確かに寂しいかもな。音に出るほど感傷的になっているとは)

 銀笛の音は正直だ。性根が腐っていれば汚い音が出て、感傷的になっていれば寂しい音が出る。だがそれが美しいと言うなら、星火の感傷的な気持ちは美談のようになっているのだろう。

(勝手に美しくしないでほしいな……)

 カンテラに照らされ、地面に光る物の種類が変わる。結晶の隙間に入り込んだ水が光を反射する。

 徐々に嵩を増す水溜りの前に蹲み、水中に目を凝らしてみる。水に揺られるように、石になっていない生きているウミユリが見えた。

「何かいる」

 一歩後ろで同じように蹲んでいたニナは、一点を指差す。そこには石ではないウミユリが一体、揺らいでいた。星火にはぼんやりとした影に見えているが、ニナにはもう少し明瞭に輪郭が見えている。

 その頭が唐突にちょん切れた。

「……?」

 正確には、何かに()()()()。ウミユリの頭が水中を漂い、繋いでいた茎は頭を探すように揺れる。

 細い鋏のような物がゆっくりと忍び寄り、ぼんやりとしながらもはっきりと、星火はそれと目が合った。

 音を奏でながら、星火は目で指示してニナを後ろへ下がらせる。頭の動きでニナも指示を理解した。

 充分に水から離れ、星火は安堵して銀笛を下ろす。笛を聴かせていれば魚が襲うことはないが、万が一ということもある。魚に対して感じた恐怖には従った方が良い。

「全体はわからないが、大きい魚がいた」

「私も見えた。蟹みたいなのが付いてたから蟹?」

「鋏のことか? 蟹と言うより海老に見えたな……」

「えび? それも鋏があるの?」

「ある……、ん?」

 動かした爪先から微かに嫌な音がした。

「不味い……水が増えてる」

「え!?」

 先程は無かった位置に水が入り込んでいた。結晶の隙間に入り込んでいるだけなので魚が泳げる程の水深は無いが、水嵩が増しているなら時間の問題だ。

「ナナちゃんと来た時は増えてる感じ無かったよ!?」

「だったら……雪解け水が入ってきてるのか?」

「雪が溶けると水になる? 凍った雨だから?」

「ああ、よく覚えてたな」

「じゃあ、いっぱい積もった雪は溶けたら全部雨になる?」

「降る水を雨と言う。地面に落ちたら只の水だ。溜まれば水溜り」

「え!? 沈んじゃう!?」

「本来なら防水扉があれば安全なんだが、何処からか集落に水が流れ込んでいるなら沈むかもな」

「あわ……大変……!」

「幸いまだ溶け始めだ。上にはマンションがある。ナナとスイを連れて避難しよう。忘れ物をするなよ」

「このキラキラも持って行きたい」

「それは……スイなら折れる道具を持っているかもしれないが、僕には無理だ」

「スイ――!」

「あ、笛を吹くから静かに。外にも魚がいることを忘れるな」

 足元に注意しつつ小走りで晶洞を出ようとするニナを追いながら、星火は慌てて笛を吹く。畑の周辺は水だらけだ。

「……あ。ここにニナが持てるくらいの結晶が落ちてる」

「わーい」

 その場所はナナが水晶の直撃を受けた場所だった。頭上を仰ぐと、その時よりも落ちた結晶が増えたことがわかる。

 ニナは小声で喜びを表し、掌に載る程度の結晶を受け取った。水を固めたような透明度なのに、氷のように冷たくはない不思議な石だ。

 星火の音色を聴きながら急ぎ畑を離れて居住区へ戻る。笛を離した瞬間、背後で大きな音がした。地面も少し揺れ、結晶の落ちる音が幾つか聞こえた。

「余韻が効いていない……離れて正解だったな」

「セイが吹いてる間は何も無かったよ」

「ああ。吹いている間に魚が暴れるなら僕の力不足だ。ニナの集落にいる間は練習していたんだが……吹かない期間が長くなると駄目だな」

「そう言えばここにいる間は吹いてないね」

「畑に近付かなければ水は無いからな」

 水が無ければ魚もいない。魚がいなければ奏者の出番は無い。先日のタカアシガニのような例もあるが、ああいったことは滅多に無い。

「セイくらい上手くても練習しないといけないの?」

「吹かないと鈍る」

「そうだったのか。一度上手くなったらもう練習しなくていいと思ってた」

「身に付いているものはあるが、細かな感覚は……」

 説明しようとして、星火は心当たりがあることに気付いた。

「……最近変な練習をしているからか……? 引っ張られたかも」

「変な練習? 逆立ちして吹くとか?」

 揶揄っているわけではなく、ニナは真剣だ。逆立ちする時は両手を地面に突くが、手を使えない状態でどうやって笛を吹くのか、そこまで考えていない。

「恥ずかしいから言わない」

「は、恥ずかしいこと!? 何だろ……恥ずかしい練習……寝ながら吹く?」

「違うが、ナナには言うなよ。絶対に揶揄われる」

「わかった。秘密にする」

 ニナにはナナのような揶揄う力は無い。そのことを確認できて星火は安心した。彼女達二人は仲が良いが、性格まで似ると困る。

 星火とニナが居住区へ戻ると、ナナとスイは一見仲が良さそうに頭を突き合わせていた。その視線の先にはスティック型携帯端末がある。二人は保存されている写真を眺めていた。

 二人の足音を捉え、ナナとスイは同時に顔を上げる。やはり仲が良いかもしれない。

「おかえり。ペンギンの写真があったわよ。でも皆アデリーより小さいわ。旧時代って何もかも小さいわね」

「おかえりなさい、セイさん! 写真を見てたんですが、この持ち主、殆ど食べ物しか撮ってないですよ。後は友達っぽい人達との写真ばっかりですね」

 ナナは満足げに、スイは一息に言葉を連ねる。彼は早く星火に話したくて堪らなかったとでも言うように身を乗り出している。

「ナナ、スイ。雪解け水がここに流れ込んでいる可能性がある。畑の方で水が増えていた。上に避難しよう。写真の話は後で」

「あら、ここも沈んじゃうのね」

「荷物は纏めてあるので、いつでも出発できます」

 四人は火を消して忙しなくカンテラを手に部屋を出、星火は最後に振り返る。忘れ物は無い。

「畑の不作は只の前兆だったのね。この集落は遅かれ早かれ壊れるものだった」

 ナナは目を細め、幼少の頃に沈めた集落を思い出す。旧時代から生き延びて命を繋げていても、呆気なく最期が訪れる。この世界には現在何人の人間が生きているのか、誰も知らない。

 居住区を出て誰もいない集落を後にし、暗い階段を照らして登る。

 防水扉のハンドルはまだ動く。外はまだ乾いている。

 駐車場に吹き込んだ雪は少し溶けていたが、まだ多くの灰色は残っている。その向こうの景色もまだ灰色が大半を占めている。屋根の上から積もった雪の塊や氷柱が時折降る。

 もう中には死体しか無いが防水扉をきっちりと閉め、四人はマンションの上階へ駆け上がった。

 雪解け水がどのように広がるのか、経験の無い四人は念のために五階に避難することにした。そこまで行けば安心だ。

 スイは以前やったように手慣れた様子で機械式のドアを開ける。初めて見る光景にニナと星火は感嘆の声を漏らした。

「こんなのは朝飯前ですよ」

「凄いな。誰も荒らしていない部屋に入れるのか……」

「これから朝飯食べる?」

 言葉を理解していないニナに朝飯を食べるわけではないことを説明し、四人は誰も足を踏み入れたことがないと思われる家に入った。

「物色の前にさっきの写真の話を聞くよ」

 部屋は荒らされることなく、綺麗に片付けられたまま存在していた。ただあまりに綺麗で、物が少ない。

 リビングに大きなソファを見つけ、埃を払って腰掛ける。埃が無ければ一時的に留守にしているだけのように見える。

「荒らされていないと落ち着かないな……人の家に勝手に上がり込んでいる気がして」

「今更ね。今まで散々無人の家に侵入したでしょ?」

「それはそうなんだが」

 鞄を下ろし、落ち着かない部屋を見回す。台所も見えているが、食器棚の中の食器まで人が住んでいた当時のまま並んでいる。足元に破片が散乱していない家は珍しい。

「このマンションは特に最先端だったみたいですね。防犯や防災が完璧です。保存状態のいい旧時代の標本ですね」

「そうなのか。それは物色の遣り甲斐が……ナナとスイは先に物色してたな。どんな感じだ?」

「面白みに欠ける所です。食料も資料も無いって感じですね」

「やっぱり面白いのは古い家か……。わかった。それじゃあ、写真の話に戻ろう。食べ物や人が多いと言っていたが、他に気になる写真はあるか?」

 星火とスイはスティック型携帯端末を見ながら写真の話を再開し、ナナは近くの棚の引き出しを開けて覗きながら耳を傾ける。ニナもそわそわと目で追っていたが、気になってナナの周りをうろちょろとする。

「道端に瓦礫が落ちてない写真もありましたが、見ます? その辺に転がってる椅子が空に浮いてる写真もありますよ」

「リフトか。それは見てみたいな」

「リフト?」

「空に浮かぶ椅子をそう呼ぶらしい。旧時代の生き残りに聞いた」

「へぇ……これリフトって言うんですね」

 慣れた手付きでスイは端末を操作し、リフトが写っている写真を表示する。建物の間の頭上を細い線が走り、椅子がぶら下がっている。リフトはおよそ建物の二階より上に設置されており、高所が得意でないと少し怖そうだ。写真ではその椅子の幾つかに実際に人が座っている。足を置く場所もあり、宙を掻くことはなさそうだ。

「こんな風にぶら下がってたのか……。リフトも驚くが、空が青いことにも驚くな」

「あ、そうですね。椅子ばっかり見てました。空、凄いですね! 真っ青で……ちょっと不気味ですね」

 白い雲が所々に漂っているが、それ以外は全て青、正確には水色だ。現在は赤い罅が入る鈍色か真っ黒の空が『普通』で、青色になることはない。青い色は綺麗だが、そんな空が頭上にあると落ち着かない。

「それが正常な擬似空の投影でしょ? 青い空が本来の空で、今の暗い空の方が本当は不気味なのよね」

「本来はって言ってもな……擬似空の向こうにある空が本来の空だろ? つまり今の空が本来の色だ」

「じゃあ罅の色は何なの? 向こうは真っ赤ってことになるけど。私は機械本来の色だと思うわ。何も映さない画面は真っ黒だもの」

「ぐ……一応辻褄は合ってる……じゃあ昼があるのは機械が光を通すほど薄っぺらいってことか……」

 空が一時的に赤くなる夕焼けは知っているが、現在の空にある罅は常に赤い。夕焼けは夕方に起こるから夕焼けと言うのだ。

「ま、旧時代の空は生きていて、今の空は死んでる。それだけのことよ」

 空の色一つで盛り上がる。ニナは真剣な顔で聞いているが、昔の空は青かったということしかわからない。

「ニナにはまだ難しいかしら? 食べ物の写真でも見なさい」

「それは興味深い」

 食べ物ならニナにもわかりやすい。と思ったが、見たことのない色や形の食べ物が並び、味が想像できない。旧時代の食べ物は色鮮やかだ。

「スイーツの写真が多いんだけど、ニナは見たことない果物がいっぱいあるでしょ?」

「この赤いのは? トマト?」

 背後から端末を覗き込み、見たことのない物に指を差す。

「苺よ。私も食べたことないけど、美味しいらしいわ」

「旧時代は凄い……高級な果物がコップにいっぱい入ってる。一杯百万円しそう」

「星火が笛を十回くらい吹いたら食べられるわね」

「十回吹いたら食べられる奏者凄い……お金持ちなだけある」

「そんなだから強盗に遭うんだわ」

 星火は何か言いたかったが、何を言ってもナナが揶揄いそうだ。

(一回十万円はこの前の偽奏者が言っていた値段だな……僕は奏でる時間によって値段を変える。水溜りの上を歩いた時みたいに長時間だと、一回吹くだけで食べられる……)

 自分はそれだけの価値があると示すのは簡単だ。だが示してしまえば距離や壁を感じるようになる。星火は彼女達と対等でいたかった。だから値段のことは言いたくないし、彼女達に請求もしない。気軽に頼ってもらえるのは嬉しいものだ。いつも兄の後ろを付いて歩いていた所為だろう。

「は? セイさんの音色が一回十万なわけないだろ。過小評価すんな。ね、セイさん?」

「……スイは黙っていてくれ」

「はい。すみません」

 得意げな彼の顔はすぐに真顔になった。恩人であり尊敬している星火の不快を買うことは許されない。

「怒られてる」

「うるせぇ。黙ってろ野蛮女」

「お前は星火の演奏の値段を知ってるの?」

「知らないけど、あんな美麗な音が十万で聴いていいわけないだろ」

「聴いたらお前は支払うの?」

「当然だろ。奏者は職業だぞ? 仕事に対して金銭を支払うのは当然だ」

「じゃあお前が腕を失った時に聴いた演奏の分は支払った?」

「…………」

「支払いなさいよ」

「…………」

「ナナ、その辺で許してやれ。スイもそろそろ名前を呼んであげたらどうだ?」

「え? 今のって野蛮女って言ったからですか?」

 スイはちらりとナナを振り向き、彼女はふんとそっぽを向いた。折角貰った名前を無視され続けるのは不愉快だ。

「スイ、ナナちゃんはナナちゃんだよ。美麗なナナちゃんって呼んであげて」

「美麗なナナちゃん」

「何てこと言わせるの? ニナ。鳥肌が立ったわ」

「鳥肌ナナちゃん」

「張っ倒すわよ」

「俺も鳥肌が立った。呼ぶなら『ちゃん』は無しだ」

 星火に言われたことには素直に従う。スイは星火に対してのみ従順だ。

「これでいいだろ? ナナ」

「何か鳥肌が立つわね……」

「何でだよ。『ちゃん』は外しただろ」

「二人共、その辺にしよう。今後はあまり喧嘩をしないようにな」

 スイは調子良く元気に返事をするが、ナナは聞こえるか聞こえないかの小さな声で返事をした。それでも彼女は頷いた。

「僕はスイからもお金は取らない。出会う前の分も請求しない。この話はもう止めよう」

「セイさん……! セイさんは神様ですか? なんて出来た人なんだ……」

 神と言ったかと思えば人と言う。星火は適当に聞き流した。

「一生付いて行きます」

「来なくていい」

 そうは言うが、最初に比べてスイへの警戒心は薄れている。反射的に拒絶したが、同行しても良いと思っている。先程もそれで目的地があるかと尋ねたのだ。だが慕われ過ぎるのは落ち着かない。

「……意見を違う時もあるだろうが、なるべく争わないようにしてくれ」

「それなら大丈夫ですよ! この女……ナナが巫山戯なかったら俺はとても温厚です」

「温厚な人は私を野蛮なんて言わないのよ。星火とニナを見てみなさい」

 二人はナナを『野蛮』だと言ったことはない。十日ほど間近で過ごしたことで、スイにもそれは理解できた。

「さすがですセイさん……人としてあまりに完璧……やっぱり神でしたか」

「それは巫山戯てるのか?」

「めっ、滅相もないです! ……人と話すのって難しいな……」

 集落から離れて生きていた者の定めだろう。自分以外の人間と話す機会が極端に少ないからだ。スイは祖父や父親と過ごしていた頃があるのでまだ話せると自負していたが、話さない期間も随分と長くなっていた。

「ナナがよく揶揄ってくるからな。スイもそういう気があるのかと」

「なっ、ないですよ! くっ……この女の所為か……俺が疑われるのは。セイさんを揶揄うわけないじゃないですか。俺はセイさんには嘘を吐きません」

 嘘ではないなら大袈裟だ。星火はニナを一瞥し、彼女が一番普通だと考える。普通に会話ができる人が一人でもいて良かった。言葉はまだ拙いが、充分話せる。

「セイが熱視線送ってきた。私に気がある?」

「ニナもナナに似てきたな……いや初めからこんな感じだったか?」

 ナナは冗談のつもりだが、ニナは本気だ。その点は異なる。

「他の部屋を見てくるわ」

「ああ」

「たぶんだけど……骨がある気がする」

「ほ、骨!?」

 興味深く写真を見ていたニナはバネのように顔を上げた。

「引出しに薬があったのよ。(から)のゴミもね。今は汚染を抑制する薬とか作られてるけど、旧時代の終わりは混乱で全ての生産が止まっていた。病院も閉まって、薬で体調を保ってた人がどうなるか……避難する前に死んだ人は多いはず。ここに薬が残ってるなら、ここの住人はここで死んだ可能性が高い」

 地下に逃げられなかった健常者も多いが、薬が必要な人はそれよりも早く終わりを迎えた。

 空のゴミの中に、薬が残っていない種類が含まれている。足りない薬があったのだ。ナナは冷静に分析し、部屋を出て行く。

「今は薬を作ってくれる人がいて良かったね」

「それな……一体誰が作ってんだろうな」

 地上で暮らしているスイも勿論、汚染抑制薬を呑んでいる。行商機もそれを売っているが、何処で仕入れているかはスイも知らない。行商機の幾つかにカメラを取り付けているが、四六時中見ているわけではなく、見続けることも不可能だ。

「噂で……飽くまで噂なんですが、星の一族が生きるために必要な物は大体作ってる……って聞いたことがあるんですよね」

 スイは好奇心を半分、遠慮を半分といった目をして星火を窺う。星火はどう返そうかと困ったように眉を寄せた。

「……家にそこまでの生産能力は無い……が、僕も実は知らないことが多い。立ち入りを禁じられていた部屋もあるから何とも言えない。食べ物なら偶に行商機に持たせていたが」

「! 行商機の仕入れ先にセイさんの家があると思ってたんですよ! 家に入ったことはないんですが」

「機械も人も家に入れたことはないな。家は閉鎖的で閉塞感があった。人に見つかれば面倒なことになるからと、外出して帰る時は誰も近くにいないか確認を義務付けられた」

「道理で家がわからないはずですね……」

「突き止めようとしていたのか?」

「い、いえ、そんな……そんなことないです」

 そんなことがありそうな(ども)り方をする。意識を逸らすためにスイは端末に視線を落とした。

 そんな嘘が吐けない彼を横目で見て、ニナはこそこそと星火の反対側へ回った。そしてこそこそと耳に囁く。

「家がわからないのに、何で攫われたの?」

 それは当然の疑問だ。

「最初から僕を狙っていたわけではなくて、偶々近くに来て、偶々僕が銀笛を持っている所を見たんだろ。銀笛を持っていたら……まあ大体は奏者で間違いない」

「怖かった? 私の集落の人が怖がらせてごめんね。そういうの、ちゃんと話したことなかった」

「……別にいい。最初はニナも……お互いに警戒していたからな。それに集落の中でそういう話はし難い」

「今日は私がよしよししてあげる!」

「よしよし……?」

「セイが寝惚けて私を犬と思った時のように」

「…………」

 疲れ果てて眠りながらニナをヌイと間違えて抱き締めていた時のことだ。ニナは星火の頭を犬のように撫でた。その様子をスイはぽかんと見ている。

「な、仲良いんですね……」

「何でこうなったのか僕にもわからない」

「何だかんだ子供に好かれそうですよね、セイさん」

「何だかんだ……?」

 子守はしたくないのだが、一番付き合いの浅いスイにも言われるのだから、何かしらそういった雰囲気があるのだろう。星火は迷惑そうな顔をし、ニナに髪を掻き回されながらソファの背に凭れた。

 雪の大部分が溶けるまでの間、暫しソファに定住することになりそうだ。


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