20-機械の椅子と古い地図
旧時代では最新だった防犯も防災も最高のマンションの一室で、ナナは物色を続け、星火とスイはソファと一体化し、ニナはベランダから外の廃墟を見下ろしていた。
灰色の景色は徐々に緑を覗かせ、春を感じさせてくれる。雪の下にあった常緑樹は、葉を散らすことなく再び顔を出す。
その変化に向かってニナは大きく手を振った。
「……あいつ、何に手振ってるんですかね?」
「魚でも出てきたか?」
ソファに沈む星火とスイは訝しげに首を傾ぐ。雪が溶けて水溜りができれば、そこに魚が湧くのは必然だ。
「ニナ、魚か?」
星火が尋ねると、ニナは振り向かずに答える。
「魚のおじさんが手を振ってる」
「え……?」
魚はわかるが、魚のおじさんとは何なのか。星火とスイは首を傾げ、数秒後にハッとした。ソファに思考力まで吸い取られていたようだ。おそらく地下集落で魚に食べられていた髭男のことだ。
二人は同時に勢い良く立ち上がり、ベランダに駆け寄った。眼下に小さく動くものがある。
「あれか……? 人だとわかるが、顔はわからないな。本当に魚のおじさんか?」
「うん。顔は私もよく見えないけど、服は何となくわかる」
「服か……」
ニナは目が良い。単純に視力が良い。星火とスイも悪いわけではないが、ニナほど良くはない。
「本当に魚のおじさんだとして、あの吹雪の中を生き延びたってことだよな……?」
「助けに行って死に掛けた俺が馬鹿みたいじゃないですか」
「何か叫んでるな。こんな雪解けの水ばかりの場所で叫ばれると不味い。連れて来る」
「俺も行きますよ!」
「私も!」
「ニナはここで待ってろ。ナナを一人にするな」
目を合わせて制され、ニナはぴたりと足を止めた。一緒に行きたい気持ちをぐっと堪え、ニナは錆び付いた機械のように頷く。ナナは強いが、一人にはできない。
星火は鞄から銀笛を抜いて駆け出し、スイも長くて嵩張る弓を持って後を追った。
階段を駆け下り、二階の辺りから星火は銀笛を奏でる。走りながらでも簡単な旋律なら奏でられるようになってしまった。
「セイさんの笛は何度聴いてもいい……」
スイは星火の澄んだ音に耳を傾け、傾け過ぎて階段を踏み外しそうになった。
一階に下り、星火はスイに目配せする。笛を吹いておくから行ってくれ、と訴える。スイは親指を立てた。
雪が溶け、地面には靴底を濡らす薄い水溜りができている。その真ん中に髭男が立っていた。魚を被っていたあの男で間違いない。手を振って呼んでいる。見た所、怪我は無く元気そうだ。
「おーい! こっちだ!」
「大声で呼ぶなよ! 魚が出てくるだろ!」
「ハハ。こんな浅い水にいるわけないだろ」
「地上初心者はこれだから……いいから大声を出すな。地上で大声を出すのは自殺行為だぞ」
「そんなに駄目なことなのか……? 水が無ければ安全じゃないのか?」
「取り敢えずこっち来い。これからもっと雪が溶けて水が増えるから。上に避難だ」
「頼もしいな」
髭男は軽い調子で笑っている。住んでいた集落の人が全滅して鬱ぎなら出て行ったのに、吹雪の間に気持ちが切り替わったようだ。
スイは髭男を連れて星火の居場所へ戻り、周囲を見渡し安全を確認して階段を上がった。まだ魚は出てきていないようだ。
「久し振りだな、お前達。あの食料の無い集落でよく生き延びた」
「それはこっちの台詞だ。よくあの雪の中で生きてたな」
「地上の家に避難してたんだ。地上の家は初めてだが、存外食料があるものだな」
「初心者が当たりを引いたか……」
ビギナーズラックという奴だろう。魚の腹の中で生きていたことと言い、髭男は運が良いようだ。スイが助けに行く必要なんてなかったのだ。だがスイはそれを後悔しない。どんな経緯であれ、助けたいと思った相手が生きて戻って来たのだから心の支えは取れる。
「外を覆ってた冷たいのが減ったから出てきたんだが、また会えて良かった。兄ちゃん、奏者の腕を見込んで頼みたいことがある」
これだけ笛を吹いているのだから言わなくても奏者だとわかる。星火は否定しなかった。
「頼み?」
「オレは意気消沈して死んでもいいと思ったが……いざ死ぬかもしれないと思うと怖くなった。オレ一人でも生きてていいのかわからないが、他の集落まで送ってほしいんだ」
「護衛か。他の集落は知らないんだが、近くにあるのか?」
「地図がある。確認してくれ」
「地図!?」
星火も目を丸くするが、スイはつい会話に割り込んでしまった。現代には地図が殆ど存在しないのだ。
「集落に昔からあった物なんだが、出る時に何となく持って来たんだ」
「最初から死ぬ気なかっただろオッサン……」
髭男は懐から折り畳まれた地図を取り出す。紙の地図だ。旧時代の地図は電子化されており、一般人の手にあった地図は全て壊れた機械の中だ。一般の紙の地図は絶滅している。
話しながらニナとナナの居る部屋へ戻った三人は、ニナに勢い良く迎えられた。
「スイ! こっちに来て! 動かしてほしい物がある」
「何だ? オッサンへの興味はもう失せたのか?」
何事かと顔を見合わせ、三人はニナに付いて奥の部屋を覗いた。ソファで寛いでいた部屋ではない。
奥の部屋には棚が幾つか立っており、何が入っているかは見えない。その奥には机と椅子があり、それとは別に所々破れてはいるが革張りの立派な椅子がもう一脚あった。その大きな椅子をナナが尻を向けて調べている。
「ナナちゃん、スイを捕まえてきたよ」
「ありがと。これたぶんマッサージチェアって奴だと思うのよ。初めて見たから、動く所を見たいんだけど」
「マッサージか……セイさんに座ってもらいたいな。肩凝ってそうだし」
笛を吹くためには両手を常に上げていなければならない。同じ体勢を保たねばならない奏者はきっと凝っている。スイは想像しながら隣の部屋に鞄を取りに行き、椅子の調査を代わった。
スイは鞄から工具や機械板を取り出して椅子の背に回り、真剣な顔で弄り始める。
「機械って奴か。動かせるのか?」
地下集落に機械は無いが、勝手に動く無機質な物があるらしいとは髭男も知っている。繁々と珍しそうに椅子を眺める。
「座ってもいい?」
「おう」
ニナも興味津々で躙り寄り、座り心地の良さそうな大きな椅子に深く腰掛けた。小柄なニナだと包み込むように椅子が大きい。背凭れは彼女の頭よりも高い位置まで伸び、足まで包み込まれて床に付かない。
「中々の座り心地。でも頭がちょっと固い」
「動かせそうだ。電源入れるぞ」
「うああぁあおわあぁ!」
電源が入った途端、椅子はガタガタと動き出した。背凭れに仕込まれた大きなコマのような物が上下左右に動き出し、そこに置いていたニナの頭を揉み始めた。
「頭……頭が抉られる……」
「ニナはちっこいからな」
「頭の位置が低いわね」
ガタガタと頭を揺すられ動揺するニナとは逆に、スイとナナは冷静だ。
「足が掴まれて……」
床に付かない足も強く握り締められ、逃げられないニナは泣きそうだ。非力な彼女には抗えない力で押さえ付けられている。
仕方無く星火が持ち上げて救出する。救出せずとも機械を止められるのに、と思いながらスイは機械を止めた。
髭男はその一部始終を見て、渋い顔に絶望を浮かべた。
「それは……拷問道具か?」
「マッサージチェアよ。疲れを解して元気にしてくれる機械よね」
「この中で一番疲れてるのは誰だと思う? セイさんだよなあ!」
「ナナの方が疲れてるんじゃないか? 一番動き回ってる」
凝りを解す癒しの道具を星火に使ってほしかったスイは鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしたが、未知の道具に座りたくなかった星火はナナを盾にした。ナナが一番動き回っているのは事実だ。星火は笛を吹いているだけだが、ナナは刀を振って走り回る。どちらがより疲れているか瞭然だ。
「じゃあ私が座るわ。自分じゃわからないけど凝ってるのかしら?」
「気を付けて、ナナちゃん。あの椅子、殺意がある」
「私の身長なら頭を叩かれないから大丈夫よ」
好奇心旺盛なナナはわくわくと椅子に座った。大きな肘掛けに手を置き、スイに目配せする。
(一番強力な奴にしてやろうか……)
揉みや叩きの強さは椅子の横に付いている小さなレバーで簡単に変えられる。今は中央より少し上で止まっている。下に下げるほど威力が上がる。スイが手を伸ばすと、視線を感じた。
「…………」
ナナが瞬きもせずにスイを見ていた。スイは無言で手を戻した。
「よし、スイッチオン」
何事も無かったかのようにスイは電源を入れた。
ニナの頭を揉んでいたコマはナナの肩や背を揉み始める。
「あっ……気持ちいいわ、これ」
「気持ちいいなら凝ってたんじゃないか?」
「このまま寝ようかしら? ……所で、何でおじさんがいるの? おじさんまで一緒に旅しないわよね?」
視界に入っていなかったわけではない。当たり前のように馴染んでいるから触れてはいけないのかと思ったのだ。
「他の集落まで護衛を頼まれた。僕が頼まれたことだから、無理に同行しなくていい」
「ちょっと。私はセイに付いて行ってるのよ。同行しないわけないじゃない。他の集落って何処にあるの?」
その質問には髭男が地図を広げて見せた。手書きの地図だが、手本があるかのように線が綺麗に纏まっている。おそらく写して書いたのだろう。地図にはマル印が五つ、バツ印が二つ付けられている。
「このマル印のある所に集落があるらしいんだ」
「へぇ。現在地は?」
「何処だ?」
髭男は星火を向き、当然のように尋ねる。地上に出たのは初めてなのだ、地図があっても何もわからない。
「遊園地なら地図に載ってるんじゃないか?」
地上はあちこち壊れ、木が生え、用途のわからない建物もある。道も罅割れたり水が溜まったり瓦礫で埋もれたり、地図の道が当てにできない。その中で遊園地は目印として申し分ない。
大きな地図を穴が空きそうなほど凝視し、遊園地を探す。地図に文字は書かれていない。線の形から想像するしかない。
「……これか? 自棄に敷地面積の広い空間がある」
地図には施設を表す地図記号のような絵も殆ど無いが、それほど広い空間があれば嫌でも目立つ。ベランダから見ると縦に大きい建物はあるが、横幅の大きな建物は遊園地以外には無い。
「ここのバツ印がオレの生まれ育った集落だ」
「先に言えオッサン。現在地わかってんじゃねぇか」
「地上の風景だけでは何処の地面の下に集落があるかわからなくてな……集落を出た時は視界が悪くて何も見えなかった」
「ここの真下だ」
「なんと! この下にあったのか」
「何で集落をあんな場所に作ったの?」
「あんな場所? ああ……侵蝕か? 侵蝕するなんてわからないだろ。元々穴があって、そこに集落を築いたらしいが」
人の手で住めるほど土を掘るのは大変だ。現代に地面を掘る機械なんて無い。既に穴があるなら誰だって利用する。
普段から機械という立体的な物に向き合っているスイは、地図も簡単に読める。頭の中で平面の地図を立体に起こし、方向を確認する。
「ここが現在地ってことは……一番近い集落でも結構遠いですよ、セイさん」
「この地図の縮尺はどのくらいだ?」
髭男に尋ねるが、首を捻るだけだった。
「遊園地の大きさを見るに遠そうだな。どれほど正確な地図かはわからないが」
「他の集落も遠いけど、一番近い所でいいのかオッサン?」
「オレが育った集落にはもう誰もいない……。人のいる集落に行って、そこで生活させてもらおうと思ってるんだ。そこの印のどれも、どんな集落か知らない。なら一番近い所でいいじゃないか」
「引越しか」
現代では珍しいが、引越しをする人もいないわけではない。希望する人数が多ければ移住を断られることもあるが、髭男一人なら受け入れてもらえるだろう。
「マル印とバツ印に違いはあるのか?」
「違い? 印はどれも集落のはずだ」
髭男の生まれ育った集落にはバツ印が付いている。目的地はマル印だ。バツ印は少し離れた位置にもう一つある。
「違いが無いならいいが。雪が溶けるのを待って水の様子を見て出発するつもりだが、それでいいか?」
「ああ。オレは兄ちゃんに付いて行く」
「じゃあ少しここで待機だ。出発する時に呼ぶ」
好きな所に行っても良いと言われ、髭男は背後を振り返った。地下には無い間取りだが、最初のドアが玄関で、中には幾つも部屋がある大きな家なのだろうと推測する。
「その拷問……マッサージチェアって奴はそんなにいいのか?」
目を閉じて蕩けていたナナがハッと目を開けた。ナナの蕩けっぷりに髭男も興味がそそられた。
「おじさんも試したいの?」
「この機会に地上を少しくらい知っておくのもいいだろう」
「一分ね」
素直に譲るが退きたくないナナは自棄に短い時間を提示した。
さっさと立ち上がって髭男を座らせ、スイとの距離を詰める。
「何だよ……」
「お前、さっきマッサージの威力を最強にしようとしたでしょ。それをあいつに遣ってみて。威力を確かめたいわ」
「酷い女だな」
「ガタイが良くないと体が壊れるかもしれないでしょ」
「ニナはともかくお前は壊れないと思うけどな」
無感動な目で睨まれ、スイは椅子の横のレバーをゆっくりと最強にした。最強にするとどうなるのか、スイも気になっていた。好奇心旺盛な者が集まると止める者がいない。
「お……これは確かに……おおおおお!?」
椅子はガタガタと大きく震え、髭男の体も痙攣するように揺さ振られた。見ているだけで酔いそうだ。
「ちょっ、こ、これはああ殴られてるううぅ!」
「……スイ」
様子がおかしい。星火は問うために彼の名を呼んだ。
「はい。すみません」
何も言っていないのにスイは何かに謝り、レバーを元の位置に戻した。
一分経って髭男が立ち上がった時、彼は艶やかな顔をしていた。一分でも一時的に最強を体験し全身が解れたようだ。
「これが旧時代の技術か……兄ちゃんたちが危険な地上を歩く理由が漸くわかった。オレには護衛が必要だが」
「セイさんも座ってくださいよ。威力は上げないんで」
「危険ではなさそうだから一度試してみるか……」
感慨に耽る髭男の言葉は誰も聞いていない。星火も恐る恐るマッサージチェアに座ってみた。
「電源入れますね」
「んっ……」
笛を吹く時、両腕を上げた状態で姿勢が固定される。想像以上に星火は凝っていた。肩や背中が程良く揉まれ、顔の筋肉まで緩みそうだ。
「兄ちゃん、護衛料金は幾らだ? 掻き集めてきたが、オレの持ち金で足りるか先に確認したい」
「料金……」
脳味噌が溶かされている最中の星火は思考に時間が掛かった。
「……予算は?」
「三十五万円だが、新生活のために少し残しておきたい」
「三十五……十万円残しておくとして、遠回りでもなるべく水に近付かない経路なら収められる。水の状況次第だが善処する」
「十万も残してくれるのか! 助かる! 恩に着る!」
星火の交渉を初めて見たスイは目を輝かせて感動する。自分の認める最強の奏者が銀笛以外で奏者だと実感する瞬間だ。
「安心したら眠くなってきたな。随分寝てない。他の部屋で寝てもいいか?」
「ああ。それなら地図を貸してもらえるか? 経路を考えておく」
「勿論だ」
髭男は安堵から笑いながら星火に地図を預け、足取り軽く部屋を出て行った。
それを見送り、ナナは癒されている星火の隣に蹲む。
「二十五万ってどのくらいの仕事?」
「ナナは手を出さなくていい」
「そうじゃなくて。二十五万でできることって?」
「秘密」
「あら? 今日はセイが揶揄うのかしら」
「揶揄ってない……。言ったら普段を見返して僕の笛を遠慮するかもしれないだろ。晶洞の時みたいな場面で、頼られず勝手に怪我をされたり死なれたくない」
「飽くまで仕事量は教えてくれないのね。きっと通常は目玉をひん剥くみたいな高額なんだわ。二十五万でできることなんて殆ど無いんでしょ?」
「…………」
脳味噌が蕩けているため、星火は口を滑らせないために噤むことにした。
ナナは距離を詰め、吐息が掛かりそうなほど近く、星火の耳元で威圧感を与えながら囁く。
「ニナの護衛で幾ら貰ったの?」
「秘密」
「もう。仲間の所持金を知っておくことで、買物で迷わなくなるのよ? 神社で行商機から買物した時に、この人お金持ちだわって思ったから、セイが幾ら持ってても驚かないわよ。私、金塊と旅してるのかしら」
「人として接してほしい」
「セイは対等に扱ってほしいんだね。私とも対等」
何やらちらちらと見られていたので、ニナは気になって様子を窺っていた。ナナにはニナと星火の関係を話しているが、スイには話していない。ニナはスイに背を向ける。星火がニナの護衛をしていたことを話すと、絶対に何かあるとスイは考えるだろう。
(何か蚊帳の外だな……俺が仲間に加わったのは最近だし打ち解けられてないのは仕方ないけど……ニナとナナはともかく星火さんの話は聞きたい……!)
星火に幻滅されたくないので盗み聞きはしない。スイは悔しい気持ちを呑み込み、星火が溶けているマッサージチェアを快適に操作した。
「ニナとは対等じゃないな……」
「え!? 私だけ違う……?」
「ニナはまだ護ってあげないと怪我をする……」
「良い方の対等じゃないだった。へへ、お世話になります」
「ナナも怪我をするし……」
「精進するわ」
少し離れて見ていたスイは次は自分の番ではないかと聞き耳を立てたが、話題に上ることはなかった。今は怪我をしていないが、大怪我の痕は腕にある。義手を付ける程の怪我をしたことがあるのは四人の中ではスイだけだ。スイが最も対等から距離がある
「でもセイだって大怪我してたわよね。私がいなかったら死んでたんだから」
聞き耳を立てていたスイは思わず目を丸くして会話の方を見てしまった。星火が大怪我をしたなど初耳だった。
「熊か……。あの時のことは感謝してる。だから慎重に行動してる」
(くま……? 熊!? 星火さん、熊に遣られたのか!? そうか……熊は魚じゃないから笛が効かないのか……。笛が効かない奴を俺が仕留められれば格好いいな……)
「全然慎重って顔してないわよ、今」
「…………」
顔を引き締めようとするが、マッサージチェアの上では無理のようだ。誤魔化すために地図を広げる。
「……現在地から目的地までまっすぐ行けたらいいが、無理だろうな」
「セイ! 面白い場所はある?」
マッサージチェアから一歩離れた位置で、ニナも興味津々で地図を覗き込む。線が道だということはわかるが、それ以外はわからない。
「建物は何の建物かわからない。敷地の大きな場所は幾つかあるが。建物以外だと海があるみたいだな」
「うみ?」
「海があるんですか? ちょっと見せてください」
ニナは首を傾ぐが、スイは確認するために椅子の横へ回った。星火の大怪我は気になるが、海への警戒の方が先に立つ。
「地図の端に建物も道も無い広い場所がある。ここだけ波の絵があるから海だと思うんだが」
「確かに……川って感じじゃないですね。池にしては大きい……湖か海ですね」
「海には近付かない経路で行く」
「うみって何?」
二人の会話に入れないニナはナナに助けを求めた。博識なナナなら海も知っているはずだ。
「海は塩水が溜まった大きな水溜りよ。私達が渡った水溜りよりも大きくて深くて、魚がうじゃうじゃいるの」
「うじゃうじゃ!? 危険な場所だ……」
「私は興味あるけど」
「え! もしかして、美味しい魚がいる……!?」
「いるかもしれないわ」
「それは魅力的……でも怖い」
「鮪が食べてみたいわ。缶詰のツナじゃなくて」
「わからないけど缶詰になるくらいだから美味しいに決まってる」
食べ物の話になってしまった二人を見遣り、星火とスイは地図に目を落とす。魚がうじゃうじゃいる海には近付きたくないものだ。
「海は危険ですよ、セイさん」
「ああ。だが……これはいつ描かれた地図だ? 最近じゃなさそうなんだが。海の位置が変わってるかも」
「あっ……そうですね。水が増えたか減ったか……地形も変わってるかもしれないですよね」
「スイは海を見たことがあるか?」
「ないですね。あるとわかってれば誰だって避けます。普通の水溜りだって危険なのに。地図があれば海、川、池、湖の場所がわかります。絶対、近付いたら駄目な場所ですよ!」
最後はわざとニナとナナに聞こえるよう声量を上げた。二人がスイを見ている。
「僕も興味はあるが……さすがに危険だ。見たいならスイの望遠鏡で遠くから眺める程度に……して……」
星火は頭を重そうに揺らしている。マッサージチェアの快楽から逃れられない。
「セイはもう駄目だわ。静かにしましょ」
「それは賛成だ。俺が見張っておくので、ゆっくり寝てください、セイさん」
ナナは星火の手から落ちそうになっている地図を拾って部屋を出る。スイは首を捻りながらもマッサージチェアの電源を切ってそれを追った。護衛を引き受けたのは星火だ。預かっている地図を勝手に持ち出すのは見過ごせない。ニナも地図が気になるので二人に付いて行く。
髭男は寝室で寝ている。三人は空いているリビングへ入った。最初にソファで寛いでいた部屋だ。
机に地図を広げ、ナナはソファに腰掛け頬杖を突く。
「セイさんが預かった地図だぞ」
「わかってるわよ。頭に叩き込むのよ。静かにして」
「えっ……これ全部覚えるのか?」
片腕を伸ばした程度の大きさの地図だが、遊園地の大きさから察するにかなり縮小された地図だ。描き込まれている道はかなり多く、規則性が無い。これを覚えるのは至難だ。
「全部は難しいけど、大体は覚えておきたいの。一々地図を広げるのは面倒でしょ」
「それもそうか……特に水が近いと出せないよな。紙の地図は濡れたら終わりだ。覚えた方がセイさんの役に立つ。俺も覚える」
スイもソファに座ってしまったため、ニナも床に蹲んで覗き込む。
「これ覚えるの?」
「ニナまで覚えなくていいわよ。それより何か気になる所があったら言って」
「気になる……? うーん……集落は以外といっぱいある」
「あ、それは俺も思った。印が結構あるよな。そこのバツが冬籠りした集落だ。これだけ印があるってことは、小さい集落なんだろうな」
「私は集落の印じゃなくて、出入口の位置だと思うんだけど。バツは冬籠りした集落の出入口、マルは知らない集落の出入口」
「可能性はなくはないけど、だったら大き過ぎるだろ。このマルの集落」
「頭が良いのか悪いのかわからないことを言うわね。マルが一つの集落なのかはわからないでしょ。一番近い所に行くって言ってたけど、当たりが引けるといいわね」
「当たりって?」
「面白い所」
ナナの言う『面白い』は安全とは限らない。海に興味を示す命知らずなのだから。
「ニナがこれまで行った集落は面白かった?」
「っ!」
思わずニナはびくりと跳ね上がる。ナナはニナが生まれた集落を知っている。犯罪者を崇める教団が住んでいた集落を知らないスイの前で、その話をするよう仕向けはしないだろう。それを除けば、ニナが行ったことのある地下集落は二つだ。一つは髭男と出会った集落で、皆も知っている。
「面白くなかった。食べられそうになった」
「魚がいたのか?」
「魚じゃなくて、人に食べられそうだった」
「そりゃ災難だったな。食料不足で人肉を狙うってのは、あんまり珍しいことじゃないらしいな。小さい集落では結構あるらしい」
「結構あるの!?」
「だから集落の引越しは、できればしない方がいいんだよ。余所者は狙われ易い。余程住人が優しくて博愛か、余裕のある集落じゃないと安心できないんだ。だから俺やナナみたいに集落から離れて生活する奴がいる。奏者も潤うってわけだ」
一度集落から出れば、一人で他の集落に移るのはあまりに危険だ。髭男は無知なだけだ。現代の引越しは命懸けである。
「スイも最初は集落に住んでたの?」
「爺ちゃんは住んでたって言ってたな。俺はずっと地上だ。集落を覗くことはあるけど、住んだことはない。地下にも水がある所にはあるし、危険度は地下も地上もそんなに変わらないと思うんだよな」
「私が住んでた集落は魚いなかったよ。最後はいたけど」
「最後? ニナの所も滅んだのか? 何処も生きるのに必死だな……お前らを見てると必死って感じじゃないけど」
「魚は美味しい」
「魚に興味を持つのだけはやめとけ。食われるぞ」
実際に腕を食われているスイが目の前にいるため説得力はあるが、ニナは星火とナナがいるお陰で危機感が薄い。魚を戦意喪失させる奏者と、魚を斬り殺せるナナが近くにいる影響は大きい。
「その辺の水溜りにもいるけど海にはもっと凶暴な鮫とか、どでかい鯨とかいるんだぜ? ニナの百倍くらいでかい奴」
「百倍ってどのくらい?」
「え? ニナの身長は……」
「適当に言ってるだけよ。気にしなくていいわ、ニナ。前にセイが追い払ったって言う鯨くらいの大きさでしょ」
「あれくらいかぁ……」
百倍ではないにしろ充分大きい。ニナは魚を食べることは好きだが、生きている魚と対面する恐怖を忘れたわけではない。
納得して再び地図に集中する二人に、スイは言葉も纏まらない内に声に出した。
「ちょ、ちょちょっと待て待て待て待て」
「一回言えばわかるわよ」
「……セイさん……鯨を追い払ったのか?」
「そうよ」
「鯨って……ばかでかい魚だろ? 俺は見たことないけど……そんなでかいのを追い払えるのか?」
「追い払ってたよ」
「すげぇ……」
最早他に言葉も出ないスイは天井を仰ぎながら呆然と呟いた。
「セイは凄い」
「おう。鯨って奴は旧時代では一番大きな生き物だったらしい。それに勝ったってことは、つまりセイさんはこの世の頂点ってことだ。最早、神」
「頂点は凄い……」
「頂点を前後不覚に眠らせるマッサージチェアは凄いわね」
ナナだけは冷めた様子で、地図の隅々まで目を走らせている。鯨に限らず現代の魚は皆巨大だ。鯨を追い払うことには驚くが、並の魚を追い払えるだけでも充分凄い。
「マッサージチェアが頂点?」
「そんなわけねぇだろ」
地図を広げたまま、ナナは窓へ向かった。実際の景色と地図を照らし合わせる。
「……屋上に行った方がいいかしら……あら?」
遠方へ目を細め、ベランダへ出て眼下へ視線を移す。雪はもう随分と溶けていた。
「水溜りができてるわ」
「!」
スイも窓へ駆け寄り、ベランダに手を掛けて覗いた。いつの間にか一階が水に浸かっている。
「早いな……って、魚もいる!」
魚と聞き、ニナもベランダの石壁に両手を載せて覗く。このマンションのベランダの壁は高いが、ニナの身長でも辛うじて顔を出せた。
「あ! キラキラの所にいた魚!」
「晶洞か? あんなのいたか……? 蠍?」
「セイと見たよ」
海老のように見えるが海老ではない。脚の先の鋏が獲物を探すように彷徨っている。
「アクチラムスかしら?」
アクチラムスは古生物であり、ウミサソリの一種だ。スイの表現は強ち間違ってはいない。旧時代の遥か昔に存在していたがその頃の体長は二メートル程だった。眼下の個体はそれより大きく、三メートル以上はありそうだ。
「私も見てないけど、晶洞にいたって言うなら雪解けで増水して出てきたのね。その内、水が引いて帰ると思うけど、殺しておく?」
「こっちに危害を加えてこないなら放っておけばいいだろ。殺すって、水の中にいる奴をどうやって殺すんだよ」
「物を落とせば水面に顔を出すでしょ? そこを二階辺りから飛び降りてザクッと」
「お前といると危機感が無くなりそうだな……」
「目が合ったよ」
透き通った水の中は上からでもよく見える。アクチラムスは視線を感じて浮上し、大きな目でじっとニナ達を見上げていた。
「アクチラムスは目は良くないはずだけど。気の所為?」
「ここは五階だ。翼の無い魚がどれだけ頑張ってもここまで飛び上がれないから大丈夫だ」
「良かった。安心」
スイとニナは気楽に顔を見合わせて笑い、ナナはニナの頭を思い切り押さえ付けた。その頭のあった位置に拳ほどの石が高速で通過し、背後の硝子窓を叩き割った。
「うわああ何か飛んできた!?」
「飛んでこないって言ったのに!」
スイの顔のすぐ横を石が通過した。硝子を割る威力なのだから、当たれば流血は免れない。
「脚と言うか手と言うか、付いてる魚は小癪ね。アクチラムスはそんな力は無いはずだけど……目も見えてるみたいだし、もしかしてプテリゴトゥス? それとも良いとこ取りした新種かしら? 次飛ばしたら打ち返してやる」
プテリゴトゥスもウミサソリの一種でアクチラムスに似た姿をしているが、旧時代の昔では一メートルにも満たない大きさだった。巨大化した現代では体長の情報は特に当てにならない。
鞘に入れたままの刀を構え、ナナは眼下を見下ろす。一匹しかいなかった暫定アクチラムスが複数に増えていた。
「おい、呪文唱えながら何言ってんだ。それは打つ用に作ってないんだからな」
眼下には十数匹のアクチラムスが集まっている。獲物を見つけたと仲間を呼んだのだろう。或いは騒ぎを嗅ぎ付けて寄って来た。
ナナ一人に任せておくのは不味いと判断し、スイも布を剥がして弓に弦を張る。矢を二本持って背の高い壁に乗って構えようとし、天井に弓の先をぶつけた。
「何してるの?」
「…………」
スイは蹲んで壁の端に寄って両脚で壁を挟み、弓を壁の外に出して下に傾けて引いた。狭い場所で弓を引くのは難しい。
狙いを定め、水面に頭を出したアクチラムスに鏃を向ける。標的の動き方を予測し、ぴたりと呼吸を止めた。
狙った位置に標的が入った瞬間、弓を持つ左手は動かさずに弦を離す。風の無い空間を切り、ほぼ真下なので真っ直ぐに矢が飛んだ。
矢は顔を出していたアクチラムスの眉間の辺りに命中する。アクチラムスは水面を跳ねて頭を振り、水中へ蜻蛉返りした。他のアクチラムスも警戒し、頭を沈めて様子を窺っている。
「へぇ、やるわね」
「あれだけ大きいと一撃で仕留められないけどな。魚相手だと、逃げる時間稼ぎくらいしかできない。水中に矢は飛ばせないし。警戒して大人しくしてくれればいいんだけど……」
壁の上で暫し様子を窺い、次の矢を継ごうか悩む。
頭を押さえられていたニナも安全を確認して再び壁から顔を出す。
「スイの格好いいとこ見たかった」
「いやぁ、そんな格好いいとかじゃ」
「謙遜してるようで思いっ切り照れてるじゃない。満更でもないわよ、こいつ」
「うるせぇ」
「……あら、一匹浮いてきたわよ」
「更にでかいのを呼んだな……」
同じアクチラムスだが、体が二回りほど大きい個体が水底から現れた。下に群がる魚達の親玉だろう。
「格好いいとこ見せてみなさいよ」
「ちょっとでか過ぎる気が」
「スイの格好いいとこ!」
「ま、まあ、とりあえず撃ってやるよ。矢の無駄遣いになりそうだけど」
二本目の矢を継ぎ、矢筈の根元を抓んで弦を引く。機械の義手は弓を握り、決してぶれない。
先程のアクチラムスと同じ位置に矢が刺さる。狙った位置に正確に当てることが難しい和弓で簡単に目標に当てる技術を誰も褒めてはくれないが、ニナは単純に当たったことに拍手をした。
だが親玉は先程と同じようにはいかなかった。水面を跳ね、踠き、海老のような尾をマンションの壁に叩き付けた。災害に強いマンションとは言え、管理はもう随分前に放棄されている。建物は微かに揺れた。
「うわ」
スイは壁に手を突き、何とか落ちることは免れた。水に落ちれば即座に魚が食らい付く。命は無い。
三人は壁に掴まり、眼下を注視する。その耳に、背後から呑気な足音が聞こえた。
「何の騒ぎだ……? 硝子の割れる音に、建物が揺れて……」
眠そうな目で、長身の青年がドアを開けて立っていた。たった今、目が覚めたのだろう。
「結局また起こしてんじゃねぇか!」
「魚の所為よ」
「おはよう、セイ」
魚と聞き、星火は早足でベランダを覗いた。床に硝子片が散乱し、ここの窓が割れたのだと寝起きの頭で理解した。
弓を持つスイを一瞥し、星火も眼下を覗く。揺れの原因も把握した。
「あれは……晶洞の奥にいた魚が出てきたのか。数が多いな」
「スイが追い払ってくれたけど、もっと大きいのが出てきた」
「わかった。マンションを倒されても困るから、僕が追い払う」
背負ってきた鞄から銀笛を取り出し、星火は眠そうな目で安心感のある物悲しい音色を奏でた。三人も黙って聴き惚れ、魚を見下ろす。
暴れていたアクチラムスの親玉は痛みを忘れたかのように動きを止め、静かに水底へ沈んでいく。他のアクチラムスも後を追うように沈んだ。まるで電源を落とされた機械のようだ。
「……追い払ったはいいが、暫く移動できないな。すぐに水が引けばいいんだが」
「セイが一番格好いいとこ持っていった」
「スイが勝てるわけないわ」
「異論なし」
魚が浮いてこないことを確認し、スイも弦を外して弓を仕舞う。
「窓は何で割れたんだ?」
「魚が石をぶん投げてきたんですよ。挟める鋏があると何でもありですね」
「石を投げる魚は初めてだな……誰も怪我が無いようで良かった。危ないから中に入って」
「起こしてすみません。また眠らせますね」
「あやされてるみたいで嫌なんだが」
「また肩が凝ったんじゃないですか? この機会にゆっくり休んでください」
懐く犬なのか下僕なのか、スイに押されて出て行く星火を見送り、ナナは再び机に地図を広げた。地図を取ったことに星火は気付いていないようだ。ニナもソファに座って覗き込む。
「地図に面白い所がないか探しましょ」
「おじさんは起きてこないね」
「危機感が無いんでしょ」
滅多に見られない地図にナナは興味津々だ。ニナはまだ地図を読む力が乏しいが、面白い所がないか探す。
暫くして星火を再び眠らせたスイが、釣られたのか欠伸をしながら戻って来る。
「寝かし付けてきた」
「赤ん坊なの?」
再び静かになったマンションで、三人は舐め回すように、飽きるほど古い紙の地図を眺めた。




