開店
新しい店の準備は着々と進んでいた。
煮方として、俺も店のメニューに意見を求められる事もあり、責任を必死で感じ初めていた。
『言われた事を只やっていただけでは駄目なんだ……』そう強く感じるのだった。
その一方で、俺が抜けた今の店の事も考えないとならなかった。それは圭吾の教育だ。
かなりのレベルまで出来てきてはいたが、完全に任せるのは若干の不安が残る。
そこで、暇な日に俺は煮方を、圭吾は焼き方をしてみる事にした。
いわゆる、俺にとってはシュミレーションで圭吾にとっては正に本番である。
土曜日が割合暇なので、その日が選ばれた。
いい忘れたが、この日は由さんも刺し身を引くのだ。
善さんの煮方は全く問題無いので、わざわざする意味は無かった。
結果としては、ちゃんと順調に行ってやれやれだが、今後何回かこんな事を繰り返すのだろう。
そんな時、飛鳥が午後にやって来た。
新日本料理の店のランチタイムが終わったので来たのだと思う。
「どうしたんだ? なんか用か?」
俺はそう飛鳥に訊くと
「正さん、ちょっと焼き方の事で教えて欲しくてやって来ちゃいました」
そう言って来た。珍しい事もあるものだと思いながら、飛鳥が訊く事に対して教えていた。
新日本料理の店とウチでは焼き物の内容が違っている。
ウチの方が、本来の日本料理の形を残すやり方をしている。
飛鳥は今度の新しい店が本各的に近いものを出すので、違いについて訊きに来たのだ。
それを教え終わると
「正さんコーヒー奢って下さいよ」
そう言って来た、俺は何か話があり、どちらかと言うとそれが本命では無いかと思った。
近くの喫茶店に行くと飛鳥は
「聞きましたよ! 真理ちゃんと同棲してるんですって?」
いきなり料理とは関係無い事を言い出す。
「バカ、同棲なんかしてない。ウチに下宿してるだけだ。ちゃんと下宿代貰ってるし」
「でも、一つ屋根の下に一緒に住んでるんですよね?」
「そ、それはそうだが、ただ、それだけだ。第一、暮らしてる時間帯が違うから、顔だってそんなに合わせてる訳じゃ無いしな」
そう俺が言うと飛鳥は、疑いの目を向けながら
「そんなものですかねえ~」
と言っていたが「でもやがてはお嫁さんに貰うんでしょう?真理ちゃん可愛いですからね。いいなぁ~」
そう言いながら遠くを見ている。
「喫茶に呼び出したのは、何か話があるんじゃ無いのか?」
俺はそう飛鳥に訊き返すと、飛鳥は一転真面目な顔になり
「実はですね。これはウチの店長の櫻井さんがこの間言っていたのですが……」
そこまで言って周りを見返して
「絶対、秘密ですよ!」
そう言ってから、語りだした。
「実は、この前幹部連中だけで飲んだそうなんですよ。それで、その時に本店(飛鳥はウチの店をこう呼ぶ)の親方が、『もう少ししたら、店を辞めて、自分で小さい店を開いて、のんびりと暮らしたい』って言ったそうなんです。つまり、その時には、善さんが板長になり、煮方が居なくいなってしまうので、その時新しい店で焼き方をやっている私を鍛えて、煮方にすると言う案があるそうなんです。それで、新しい店に移ったら正さんから煮方の事を教われって言われたんですよ」
親方が引退する……それは俺の想像を超えた事だった。
でも、そうだな、と思い直す。
親方も、もう引退して、のんびりと好きな事をやって暮らしてもいい歳だと思い直す。
いずれは誰にも来る事だと思い直す……
「あの……今すぐって訳じゃ無いですよ。新しい店が軌道に乗って余裕ができたらと言う事ですよ。正さん!」
飛鳥はぼおっとしている俺を正す様に俺の肩を軽くゆすりながら言っている。
俺はそれを、何処か遠くで聴いている感じがしていた。
飛鳥と別れ店に帰る。
親方の顔はまともに見られない。
何時か、ちゃんと聞こうとは思ったが、それが何時なのかは判らない。
意気地が無いと思う。ちょっとした事を聴いただけなのに、もう動揺しているなんて……
全く、俺ときたら、まるで駄目だなと思う……
店がその日は暇だった事もあるが、何となく惰性で仕事をしていたと思う。
どうやって家に帰ったかも良く覚えていない。
何となく帰り、風呂にはいり、そのまま寝てしまった。
真里ちゃんとも顔を会わせ無かった。
本当なら、飛鳥の事とか話はあったハズなのだが、この日だけは駄目だった。
次の日は土曜日で、俺が起きて行くと真理ちゃんは未だ家にいた。
「あれ、仕事は?」
そう俺が尋ねると真里ちゃんは
「今日はお昼からなの。午前中は工房が電気の工事でお休みなの。電気が止まるとミシンも使え無いから」そう言って笑っている。
俺は、昨日の飛鳥にからかわれた事や、親方が引退を考えている事などを真理ちゃんに話した。
すると真里ちゃんは
「わたし達の世界でも、数は少ないけど、引退する先生もたたまに居るんだよね。そう言う時は、工房の人の再就職先とか大変」
それを聴いて、そうか、それに比べると俺達は未だ働き口が無くなる訳じゃ無いからと思うのだった……
真理ちゃんが「一緒に行く!」と言うので、午後からの出勤の俺と一緒に家を出た。
何だか、昨日の飛鳥じゃ無いが、共稼ぎの夫婦の出勤みたいだと考えてしまう。
手を繋いで、ゆっくりと歩いて行く。
こんな事をした事が無いので、新鮮に感じる。
俺も、一人前になったら、真理ちゃんと一緒になる事が出来るのだろうか?
板前の結婚は早いか、遅いかどちらかだと言う。
修行前に身を固めるか、修行して一人前になってからか、と言う事なのだ。
俺はどうなるのか? 来年、店を移る時は25歳を過ぎている。
真理ちゃんは一つ下だから24歳になる。
お互い年齢の時期としては丁度良いと思うが、それよりも結婚資金も貯めないとならない。
結局は未だ未だ先なのかも知れない。
そんな事を考えながらも、新しい店の開店は近づいて来ていたのだった。
新店の開店の時期が近づいてくると俺と由さんは新しい店の方に行く回数が多くなった。
一応、内装も出来上がり、店の雰囲気もつかめてくると、道具なども運ばれて来る。
これは、新店長の櫻井さんとオーナー、それに由さんがかっぱ橋で買ってきたものだ。
それらを使える様にして、片付けて行く。
器なども納入されたので、これも洗って食器棚に収める。
土曜日なんかも早く出て来てこちらの方に来て準備の仕事をする。
今日は、由さん以下メンバーが皆揃った。
飛鳥は焼き台に火を入れて、焼く網とかを使える状態にしなくてはならない。
このままだと焼いた物が皆網にくっついいてしまうのだ。
串なども新品は油が塗ってあるので、それを落とさないとならない。
全てに渡ってその様な事をしなくてはならず、用事は多いのだ。
俺の領分で言えば、それは鍋だ。
糠等を入れて沸かして金属臭さを抜いたり、盆ザルを綺麗に洗ったりする。
ザルは鰹節等を濾す為に使うのだ。
兎に角、やらなくてはならない事は山ほどあるのだ。
各自が器や調理道具の手入れが終わると、今度はホールの方の準備を手伝う事になる。
なんせ、世帯が小さいから、出来る事は自分達でやる、と言う方針だからね。
具体的にはグラスを洗ったり、灰皿やテーブルに置く小物を作ったりする。
小物とはウチでは、ランチタイムの時に置くのだが、いわゆる醤油やお酢などのお客さんが使う調味料の事だ。
夜ではそう言うのは使わない。
料理ごとに、ちゃんとその調味料が付くからだ。
ちなみに、お刺身には「土佐醤油」をウチでは付ける事になっている。
これは、普通の醤油に昆布と味醂、酒等を入れて沸かし、沸騰寸前で鰹節を入れて火を止めて、濾すのだ。これが「土佐醤油」と言って、鮪などのお刺身を付けて食べると旨みが増して美味しいのだ。
逆に淡白な味の魚の場合は「煎り酒」と言うもので食べて貰う。
これは、どのようなものか?と言うと……
普通のお酒に梅干しを入れて、とろ火にかけて、お酒が半分くらいになるまで煮詰め、上がり際に鰹節をひとつまみ入れて、さっと煮立てて火を消して、冷まして濾す。
これに少しの塩を入れたりして調整をする。
淡白な魚も風味を壊さずに味わえるのだ。
勿論、醤油の方が良いと言うお客さんには醤油でだす。
まあ、一時が万事でこの様に初めから作らねはならぬ物が多いのだ。
だが、焼き物に使う「タレ」は全くの新品とはいかない。
そんなのは味が馴れてないので、使い物にならないのだ。
だから、前の店から俺が半分持って来て、それに新しく作った「タレ」を足す。
これで何とか使える「タレ」が出来たと言う訳で、多めに作っておいて、前の店に貰った分だけ返したのだ。
そうしたら、善さんが「正の作ったタレが入ったならウチの味落ちるな」
そう言って笑っていた。
勿論冗談なのだが、前の店も親方と善さんは余裕だが、他の者は必死だった。
そりゃそうだろう、俺だって必死なのだ……
ここの処、両方の店を行き来しているので、正直疲れが溜まって来ていて、家に帰ってもすぐに寝てしまう。
そんな状態を真理ちゃんが心配してくれて、俺が寝床に入った頃になると、そっと階段を降りて俺の部屋に入ってくる。
これは、逆夜這いか?と俄に嬉しくなるが、そんな事は無いのであって、俺の様子を心配で見に来てくれたのだ。
枕元で二言三言会話を交わすと、大抵は帰って行くのだが、たまに俺の布団に入ってくる事もある。
元気な時なら、放おっては置かないのだが、今の俺にはそんな元気は乏しい。
正直、ここで僅かに残っている元気を使いたくは無いので、只一緒に寝るだけだ。
それでも、布団の中に漂う、真理ちゃんの甘い匂いは俺にとって最高の癒やしになる。
軽くキスをして見つめ合ってるうちに眠りに入ってしまう。
朝起きると、真理ちゃんはもう居なく、枕元に書き置きがあった。
「随分疲れているみたいなので、そっと起きて仕事に行きます。正さんも開店準備頑張ってね!」
読んで、元気が湧いてくる。今日も頑張るぞと……
そうこうしている内に開店の詳しい事が判って来た。
ショピングモールの営業時間はAM10~PM8迄で、レストラン街はこれとは別に
AM11:30~PM10:30となっていた。
そして駐車場がPM11に閉まるのだそうだ。
最初の三ヶ月間は連続営業となっている。
つまり、ランチタイムの後の休憩が無いのだ。
多分交代で昼食を採るのだと思う。
これは、慣れないと結構キツイ。
だが、新しい店が軌道に乗るまでは仕方が無いと思っている。
店の休店日は、レストラン街が一斉に休みだと困るので土日を除いて順番になっている。
ウチの店は火曜日となった。
店長の櫻井さんが「月曜でなくてよかった」と喜んだ。
俺が「どうしてですか?」と訊くと
「月曜は土日の次に売れるんだよ」
そう言って俺に説明してくれた。
「新日本料理の店の場合だがな。トップは日曜日、次が土曜、それから順番に、月、水、木、金、そして火となっていた。多分その傾向はここでも変わらんだろう。だから新日本料理の店は火曜定休にしたんだ」
なるほど、場所が変われば変わるものだと思っていたが、
「ああ、もう真里ちゃんと同じ休みにはならないんだな」と思っていたほうが強かったかも知れない。
いよいよ開店前日となった。
食材の仕込みも終わったし、飲み物の搬入も済んだし。ホールの準備も完了だ。
開店祝いに届けられた花も飾り終わったし、お客さんに配る記念品の準備も完了だ。
後は明日の開店を待つばかりだ。
逸る気持ちを押さえて家に帰ると真理ちゃんが出迎えてくれた。
店の営業をしている訳じゃ無いから帰りは早いのだ。
「いよいよ、明日だね。頑張ってね」
そう言ってキスをしてくれた。
俺は思い切り真里ちゃんを抱き締め
「ありがとう」と言うのだった……
開店当日となった。
俺たち店のスタッフはやや早めに出勤し、開店準備に余念が無い。
準備が各自終わると、ホールに皆が集められ、店長の櫻井さんの言葉を待っていた。
皆に小さなグラスが配られ、そこにお酒が注がれていく。
「いよいよ開店となりました。この店は本格的ながらも若い人にも受け入れ安い日本料理と言う新しいコンセプトの店です。いわば未知の世界への船出と同じだと思っています。
ですので、スタッフ一同コミニュケーションを取り合い上手くやって行きたいと思っています。
それでは開店を祝して、乾杯!」
「乾杯!」
櫻井店長の言葉に続いて乾杯をして、各自グラスの酒を飲み干した。
これは大吟醸だ。前の店で出していた伏見の奴だ。
これを飲み干した時、俺のやる気が増して来た。
よし!頑張るぞ!
そう俺は思うのだった。




