フェイズⅠ プロセス③
夜が明けた。とはいえエドはまんじりともできず、窓から差し込む朝日が部屋を満たしていくのをただ見送るだけだった。
何が悪かったんだ? 一晩じゅうずっと自問自答していたが、どういうルートを辿っても、家庭を顧みず、仕事に没頭していた自分が悪い、という結論にしか至らず、考えれば考えるほど気が滅入るばかりだ。
無駄に頭を使い続ければ腹も減る。冷蔵庫を開けてみるがそこは空に等しかった。そもそも朝昼晩と食事はほぼ外で済ませてしまっていたエドだ、家の冷蔵庫すら開ける習慣がなかった。
「何か買ってくるか…食ってくるか…」
スマホと財布を持ち、車のキーを摘まんだところで、自分の頭がぼーっとしていることに気付く。
「こりゃ運転はマズいかな」
キーをそっと戻す。財布の中にクレジットカードがあるのを確認したところでふと思った。
「そういや、オレってどのくらいカネを持ってるんだ?」
仕事に集中するあまり、財産管理はエレナに任せていた。通帳からカードから、暗証番号すらも預けてある。
自室のノートPCを開き、銀行のサイトから残高を照会した。
「…ウソだろ…」
普段の給料はおろか、ボーナスも派手に使ったことは無い。直近で思いつくのは数年前にエレナの車を買い替えたくらいなものだ。彼女が「日本車が良い」というので買い与えた。為替の関係で買いやすかったこともある。それにしてもこうまで残高の数字を減らすような買い物ではなかったはずだ。出入金の履歴を見れば、自分の収入の入金とカードの引き落とし以外は、週に2・3回の頻度でそこそこまとまった金が引き出されている。結局残高は1か月分の給料程度しか残っていなかった。これだとカード会社から残高不足の通知も来ないだろう。まさかと思いエレナの口座を照会しようとしたが、パスワードを知らないため、詰む。
「…まいったな…そこまでか…」
思い返せば不可解な点はある。エレナが出ていく直前、荷造りがやけに早かった。むしろ準備してあった…のか? いつでも出ていけるように、と。『逃走資金』も潤沢に用意した上で。
しかしだからといって、エドはエレナを責める気にはなれなかった。むしろこれが家庭を、彼女を蔑ろにしてきた自分の罪、自分への罰とすら。もっとも、仕事では『ボス』と揉め、帰って来てみれば妻が出ていき、口座を照会すればそこはもぬけの殻。寝不足も手伝い、怒りどころか悲しみすら、何の感情も湧き上がることができなかった。ただただ、目の前に横たわる事実に打ちのめされ、茫然自失となるだけだ。
「オレは…AIの心配をするより、自分の人生を心配する方が先だったか…」
自虐めいた独り言と共にPCを閉じ、エドは家を出た。
◆
秋を迎えたサンノゼの朝。ひんやりした空気がエドの顔を撫でるが、外気と心の温度が変わらないのか、それを感じることはなかった。
朝焼けに照らされた現実感のないアヴェニューを北へ向かう。まるで酔っぱらっているようで、大地を踏みしめている実感すらない。犬の散歩をしている人。ランニングしている人。今までエドが気にすることのなかった風景がそこにあったが、それらはまるで他人事のようにエドの周りを過ぎ去っていく。
この時間でも食べ物が手に入る場所は?と、かろうじて思い出したスーパーに入る。開店後間もない店内にはそれでも人がいた。店内のベーカリーには朝イチで焼き上がったパンを求める客が並び、エドもその列へ加わった。ふんわりと漂ってくる、小麦の焼けた芳香が鼻腔をくすぐると、それに合わせて腹が鳴る。気が滅入っていても体は正直なものだと苦笑した。
まだ温もりの残るいくつかのパンとよく冷えた牛乳を手に、今来た道を引き返す。ふと、途中に公園があることを思い出した。どのみち、帰ったところで自分一人だ。なにより帰る気にもなれない。
「ちょっとした気分転換、さ」
と、朝食は公園でとることにした。
公園でも、走っている人、散歩をしている人、様々な人がいて、こんなにも人っているものなのか、とエドは軽く驚いた。車での移動に朝昼晩の食事すら本社ビル内で済ませるエドにしてみれば、会社の人間以外を見るのが珍しかったほどなのだ。
ベンチに腰掛け紙袋を開けば、さきほどベーカリーに漂った香りが、まるでコピー&ペーストでもしたかのように目前で広がった。それは微かにエドを幸せな気分にするが、1つ掴んでは口の中へ捻じ込み、さして味わうこともなく牛乳で胃へと流し込む。それは彼の食事の習慣ではあるのだが、ろくに食事時間も取れないIT技術者の悲しき習性でもあった。
口に詰めたパンをもごもごと咀嚼していると、プルっと携帯が震えた。まさかエレナか?と思ったりもしたが、当然そんなことはなかった。むしろ。
「…誰だ、これ」
見ず知らずのメアド。それは怪しいフィッシングメールなどではないことはアカウント名から分かる。間違いなく既存のキャリアのもの。ならばたとえ詐欺めいたものだとしても個人は特定できるだろう、エドはそのメールを開いた。
「…どういうことだ?」
メールにはこうある。
〈おもしろいことをやらないか?〉
差出人のフッターもあった。
〈マーカス=リード〉
「知らない名前だ」
だが先方が自分のメアドを知っていることが気になった。まさかこんなメッセージを送るためだけに、AIで手当たり次第に送信しているわけでもあるまい。むしろそうであるならどんなシステムでやっているのか興味がある。寝ぼけていた技術屋魂がわずかに目を覚ました。
〈どういうことだ?〉
その返信に間髪入れず返信が来た。
〈詳しいことは会って直接話したい
君がまだサンノゼにいるのなら今すぐにでもこちらから出向く
場所を指定してくれ、エドワード=ハリス〉
「…本気かよ」
〈サカモト地区のコヨーテ・ビスタ・パークにいる〉
〈わかった
伺おう〉
「本当に来る気なのか…?」
メアドだけではない、向こうは自分のフルネームまで知っていた。あまつさえ今から顔を見せるという。用件を言わなかったのは気になるが、少なくともその姿をわざわざ見せに来る詐欺師というのはいないだろう。長年連れ添った身内を除けば、の話だが。
果たしてそれは来た。ものの5分と経たずに。雑木林の向こう、路地に黒いドイツ製SUVが横付けされた。そこから降り立ち、こちらへ向かってくる男は、肌の色が濃く、体格もやけに大きい。胸板の厚さもさることながら上腕も太く、袖にゆとりはなくぴちぴちだ。それよりも気になるのは黒いロングコートに黒のスーツ、黒の丸サングラス。その姿、どこかで見た気がする。デジャヴ?
「グッドモーニング。Mrエドワード=ハリス」
「エドで構わない」
差し出された右手に応え、それを固く握った。
「私はマーカス=リード。マーカスで構わないよ」
「オーケーだ、マーカス。初めまして」
「隣に座っても?」
「ああ」
エドがベンチへと掛けるとそれに続きマーカスもその隣へ掛ける。並んで掛ければその体格差はことさら歴然だ。
「こんなところで朝食かい? 健康的だな」
「ちょっとね。家で食べる気にはならなくてね」
「奥方とケンカでもしたのか?」
おおよそ男が家にいられない理由というのはそういうものなのだろう。しかし今のエドには胸を抉るほどの厳しい質問だった。
「妻が家を出ていっちまってね」
半ばおどけたように答えるエド、しかしマーカスのサングラスの奥に驚きの表情が浮かぶ。
「…そうか。立ち入ったことを聞いてしまった。すまない。ゴルゴネイアを辞めたという話は聞いていたんだがな、そんなことになっていたとは」
その威圧的ともいえる巨体からは想像がつかないほどに肩をすくめ委縮した。
「構わないさ。いや、よく知っているな。オレがゴルゴネイアを辞めたことなんて。昨日の話だぞ?」
「私はハロルドの人事部にいた。そんな部署だからヘッドハンティングもするのさ。サンノゼの優秀な人材ならすべて頭に入っている。君はその内の一人だよ」
「それは光栄なことだ。だがマーカス、今『いた』、と言ったな。オレをハロルドに連れていくつもりだったんじゃないのか?」
「ハロルドは1年前に辞めたよ。自分でビジネスを始めたい、という理由もあったんだが、それよりも気になることがあってね」
「気になること?」
「ああ。ここシリコンバレーをはじめ、世界中でAIの開発が進み、それを中心としたビジネスモデルが急速に広まった。流行りモノには急いで飛び乗るのがシリコンバレーの習わし、それは今さらなんだが、それにしてもAIの進化が速過ぎる。他社も含め、知り合いに聞いてみれば誰もがその速さに驚いているが、一方でどこもそれに対する安全策は取っていないという。特に技術職であればあるほどその点について危惧していた。このままでは人類はAIに支配されてしまうぞ、と。かつては想像に過ぎなかった映画の世界が現実になってしまうぞ、と。だが資本家の意向は絶対だ、それに嫌気がさして会社を辞める者が出てきている」
(どこも同じ風景、か)
自分と同じ境遇、考えの持ち主がいることを知り、エドは救われたような気がした。
「私も彼らと同感で、人が機械に支配されてはならない、神を創ってはならない、そう思っている。それで、私もハロルドを辞め、自分の良心に従い、生きることを決めた。それで、そうした、会社に絶望して辞めていった者の中から私がかねてから目を付けていた人材に、こうして声を掛けているのさ」
「それで、何をする気なんだ?」
「ふむ、何と言えばいいかな…AIが暴走することを見越して、それに対応する保障会社、とでもいうのかな。人の手で止められないのなら、AIで止めればいい。目には目を、だよ」
「ハンムラビ法典か」
エドは体に熱い何かが流れているのを感じた。同じことを考えている連中と共に、予測される最悪の未来を潰すことができるかもしれない。なによりそこに、自分の見識すべてを叩き込むことができる。胸が高鳴る。技術屋の魂が完全に目を覚ました。
「ぜひやらせてくれ」
今度はエドから手を差し出した。今この瞬間。深刻なエラーの連続で沈黙した人生が、新たなアップデートを受けて再起動、今よりはマシな未来が待っている。そんな予感がする。
「ありがたい。よろしく頼むよ」
マーカスもサングラスを外してそれに応えた。いかつい巨体のわりにはかわいい目をしているな、とエドは思った。
「こちらこそだ。オレはてっきりカンフーでも教え込まれてブチのめされるのかと思ってたよ」
「映画をよく見るのか?」
「それほどでも。仕事柄、コンピュータに関わる話なら見てみたいと思う。そのくらいだよ」
「そうか。カンフーは教えられないが、私は学生のころはジュードーをやっていたよ。殴るより地面にたたきつけた方が効果的だからな」
「あ…そ、そうか。なるほど。で、今日のその恰好は…そういうつもり、ということか?」
「ああ。優秀な人材をスカウトするんだ、それなりの『演出』があった方が楽しいだろ?」
いかつい巨体のかわいい目がいたずらっぽく笑った。
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この物語はフィクションです。
作中に登場する人物・団体・地名・事件などは、実在するものとは一切関係ありません。




