フェイズⅠ プロセス②
そもそも定時ですら上がったことのないエドだったのだが、まして今日はまだ日が高いうちの帰宅だ。サンノゼ南部、グライダーとサカモトの境界あたりにあるエドの自宅。いつもなら真っ暗な闇の中にあるものが、今は壁の色から屋根の色からクッキリだ。そういえばこんな家だったな、などと妙に新鮮な気持ちにもなる。
車のトランクに詰め込んだショッピングバッグを引っ張り出し、ドアベルを鳴らす。が、反応が無い。
「あれ? いないのか?」
この時間なら妻のエレナがいるはずなのだが。そういえば駐車場にあるはずのセカンドカーが無い。
「買い物にでも行っているのか…」
そこにさして疑問を持つこともなく、結局は夜遅くに帰るのと同様に、ポケットからまさぐり出した鍵でドアを開けた。家の中に人の気配は無い。
リビングでドサッと荷物をおろし、やれやれとネクタイを緩めそのままソファへゴロンと寝転がった。荷物で両手が塞がっていたので部屋の灯りをつけることもなく。薄暗い部屋の天井を見つめる。
「そういえばここに住むようになって何年になる? 結婚してからだから…」
それがいつだったのかを思い出す前に、ウトウトと眠りについてしまった。
◆
ふと明るくなったことに気付き、エドは目を開けた。
「エド…? 何をしているの、こんなところで」
部屋の入り口にエレナが立っていた。見慣れない服だなと思いつつも、エドが妻の服をすべて把握しているはずもない。
「どうしたエレナ。今日はパーティーでもあったのか?」
ちょっと出掛けるにしては派手な服だと思い、冗談交じりに尋ねたのだが。
「そんなとこ。ねぇ、エド。仕事は? 今日はずいぶんと早いわね」
エレナは入り口のところで立ったまま。やけに驚いているというか、そわそわと落ち着きがないようにも見える。
「その件について話がある。ちょっとそこに座ってくれないか」
エドが促すと、エレナは対面のソファまで少し遠回りをするようにやってきた。空気の流れにふわっと乗った香水の匂い。腰を下ろし、揃えた膝のスカートの裾を整えるが、その指先は微かに震えている。
「何かしら?」
語気に少し棘があるように感じられる。
「実はな、会社を辞めてきた」
エドはいつもと変わらぬ口調。まるでキオスクで新聞を1つ買うかのように淡々と。
「…え?」
「会社を辞めてきたんだ。辞表も提出した。いろいろあってね。まぁ、そういうことだ。しばらくは今の蓄えで暮らせるだろう。いずれ仕事は探さなきゃならないが、それまでは、そうだな、夫婦二人きりで過ごせるようになる。これまで、家を空けていてすまなかった。苦労を掛けてしまったが、まぁ、そういうことだよ」
エドは肩をすくめて掌を開いて見せた。これまで妻への感謝の言葉がなかった男だ、照れ臭かったのだろう、エレナの目を見て話すことができず、終始うつむき加減だった。ふと顔を上げエレナを見た。
「…エレナ? どうしたんだい?」
エドはここで初めてエレナの様子がおかしいことに気付いた。先ほどまでスカートの裾を摘まんでいた指。それが今は裾を握り、肩とも一緒にワナワナと震えている。その震えがピークに達したのか。
バンッ
裾を握っていた手はそこを離れ、ローテーブルを激しく叩き立ち上がった。もちろん虚を突かれたエドは驚き見上げる。
「アナタは! いつもそうして!」
バンッ
「そうして勝手な事ばかり! いつもいつも仕事ばかりで! 私はいつも家に独りきり! 朝起きて! 夜寝る時まで! この家の中には私独りきり! 何のための結婚だったの⁈ 私はいつも独りで! さみしくて! 私だって女でいたかった! 今日だって、アナタのことを片時も忘れることなんてなかった! それなのに… どうして⁈ 勝手に仕事を止めてきたって、一緒にいられるって! なんでそんなに勝手な事ばかり言えるの⁈ いいわ。もうこりごり。アナタがそうやって勝手な事ばかりするなら、私も自分が思う通りに生きる。私の人生は私が決める。それが私のやり方。さようなら。稼ぎのない男になんて興味ないから」
エレナは上から見下ろし一気に捲し立て、エドに背を向けズカズカと自分の部屋へ行き、間もなく両手にトランクケースとキャリーケースをいくつも抱えて出てきた。
「離婚届はここに送るから。残りの必要事項だけ書いて、提出しておいて。それだけ。」
「おい、エレナ」
唐突のことに言葉を失っていたエドがやっとのことで出した声。しかしエレナはそれに応えることもなく、バンッと大きな音を立ててドアを閉めた。わずかな静寂の後、外からは車のエンジン音。そしてそれはだんだんと遠ざかって小さくなり、やがて消えた。
「…なんてこった…」
多分…エドが目を覚ましてからここまで10分ほどだったろう。事態が飲み込めず、立ち上がることすらできなかったエドは口をあんぐりと開けて呆然とすることくらいしかできない。リビングにはまだ香水の残り香。それは見ず知らずの他人のように漂っていた。
◆
この物語はフィクションです。
作中に登場する人物・団体・地名・事件などは、実在するものとは一切関係ありません。




