第九話:セナの拒絶
接触があったのは、午後だった。
城下の市場区画を歩いていた。用があったわけではなかった。動きを確認するための、習慣的な視察だった。人の流れ。物の動き。空気の変化。魔族領の内側で何かが変わり始めていれば、市場に先に出る。
背後から声をかけられた。
名前ではなかった。
「ねえ」
それだけだった。
知っている声だった。
振り返った。
人間の女が立っていた。
魔族領には不釣り合いな、鮮やかな色の外套を着ていた。裾に泥がついていた。隠れるつもりがない服装だった。あるいは、隠れることを考える余裕がなかったのかもしれなかった。
目が赤かった。
泣いていたのか、元からそういう目の色なのか、この距離では判断がつかなかった。
セナだった。
三年間、共に旅をした仲間だった。魔法使いだった。感情で動く人間だった。チームの中で最も声が大きく、最も先に怒り、最も先に笑う人間だった。今の顔は、俺が覚えているより少し痩せていた。目の下に疲れがある。笑っていなかった。
セナは俺の顔を見た。
魔族の顔を、正面から見た。上から下まで確認した。リオのように冷静な確認ではなかった。何かを探すような見方だった。
長い沈黙があった。
周囲の市場の音が、二人の間だけ遠かった。
セナが口を開いた。
「戻ってきて」
それだけだった。最初の言葉がそれだった。
交渉でも、説明でも、問いかけでもなかった。ただの要求だった。
俺は少し考えた。
「俺はもう魔王だ」
「そんなことは聞いていない」
セナの声は震えていなかった。ただ、低かった。普段のセナの声より低かった。怒りを抑えているのか、それとも別の何かを抑えているのか、判断がつかなかった。
「勇者はどこに行ったんだよ」
俺は少し間を置いた。
「赤ん坊だ。どこかに」
セナが、一瞬だけ止まった。
その一瞬で、何かが変わった。探すような目が、別の質に変わった。
泣いた。
声を上げずに泣いた。子どもの泣き方ではなかった。怒りと悲しみが混ざった、大人の泣き方だった。顔を歪めずに泣いていた。涙だけが出ていた。それが余計に重かった。
俺は何も言わなかった。
引き止める言葉を、探した。
見つからなかった。
持っていないのではなく、正確には、引き止めてどうなるかが分からなかった。引き止めたとして、セナに何を言えばいい。
俺が魔王として動いている理由を、まだ言葉にできていない。なぜ交渉を続けるのか、ガルドに問われても答えられなかった。言葉にできないものを、誰かに伝えることはできない。
引き止めて、何を渡せるのか。
答えが出なかった。
セナは泣きながら、俺を見ていた。
逃げていなかった。去ろうともしていなかった。何かを待っていた。
俺が何か言うのを、待っていた。
言葉が出なかった。
沈黙が続いた。
やがてセナが、先に動いた。踵を返した。人の流れに混ざった。すぐに見えなくなった。
俺はその場に少しだけ立っていた。
市場の音が、周囲に戻ってきた。
リオと同じ消え方だった。ただし、リオは意図的に消えた。セナは待ちきれなくなって消えた。それは違う消え方だった。
右手を確認した。
指を動かす。問題ない。もう一度。誤差が出た。今日は市場を歩いていただけだった。しかし誤差が出た。何の負荷もかけていないのに、精度が落ちていた。
別の部分に負荷がかかっていた。
何の負荷か、考えなかった。考えなくても分かったからだ。
城に戻ってから、ダナに報告を入れた。
「今日、人間の女が接触してきた」
「知っている」
ダナはすでに把握していた。
「どうする」
「何もしない」
ダナは少し間を置いた。
「追い返すか」
「必要ない」
「また来るかもしれないぞ」
「来たら、その時に考える」
ダナはそれ以上言わなかった。
部屋に戻った。
椅子に座った。
セナのことを考えた。
セナは俺を勇者として取り戻しに来た。目的は明確だった。しかし俺には、その要求に応える方法がない。勇者に戻ることはできない。戻ることが正しいとも思わない。しかし間違いだとも言いきれない。
言葉にできないものが、また一つ増えた。
リオとは、言葉にしなくても成立する関係だった。お互いに割り切っていた。感情を持ち込まないことで、機能していた。
セナは違う。
セナは感情を持ち込む人間だった。持ち込むことをやめられない人間だった。そういう人間だから、旅の中で何度も助けられた。
リオ以外に、本当のことを話せる相手がいなくなった。
その事実を、改めて確認した。
確認して、特に何も感じなかった。感じないことが、おかしいのかどうかも、分からなかった。
夜になってから、リオに短い書状を送った。
「セナが来た」
それだけ書いた。
返事は翌朝届いた。
「知っていました。止めようとしたのですが、間に合いませんでした」
その次の行に、別の内容があった。
「辺境の視察を勧めます。今の状況を、内側だけで見ていると判断が狭くなる」
リオらしい書き方だった。助言ではなく、情報として書いている。判断は俺がすればいい、という書き方だった。
辺境の視察。
俺は少し考えた。
城の中にいると、情報は報告書として届く。報告書には、書いた人間の判断が混じる。自分の目で見るものと、人を通じて見るものは、違う。
ガルドの話を聞いた後は、特にそう感じていた。
三十年前の交渉を、ガルドは自分の目で見た。俺は報告書として聞いた。同じ出来事が、違う重さで届く。
正体を隠して動く必要がある。単独での視察はリスクがある。しかし大人数では目立つ。
翌日の夜、城を出た。
一人だった。
ダナには「視察に行く」とだけ言った。ダナは止めなかった。ただ一言だけ言った。
「嵐が来るかもしれない。早めに宿を取れ」
俺は頷いて、城を出た。
空は曇っていた。星は見えなかった。
辺境に向かって歩き始めた頃、セナの顔が少しだけ浮かんだ。
すぐに沈んだ。
足を止めなかった。




