第十話:軒下
嵐が来たのは、夕方だった。
予兆はあった。朝から空の色が悪かった。ダナが「早めに宿を取れ」と言っていた。それは分かっていた。ただ、視察に時間がかかった。辺境の集落の現状を確認していた。人の動き。物資の流れ。魔族と人間の境界付近で、何が起きているか。
気づいた時には、引き返せない距離にいた。
雨が来た。最初は小さかった。十分もしないうちに、立っているのが難しい強さになった。風が横から来る。視界が白くなった。
廃屋が見えた。
壁の一部が崩れていた。屋根に穴がある。しかし完全には崩れていなかった。今夜をしのぐには十分だった。
扉を押した。
先客がいた。
二人いた。
一人は人間の老人だった。壁際に背を預けて座っていた。旅の格好だった。荷物は小さい。年齢は七十を超えているかもしれなかった。顔に深い皺がある。農作業で焼けたような肌だった。目は開いていたが、こちらを見ていなかった。
もう一人は魔族の子どもだった。老人から少し離れた場所に座っていた。膝を抱えていた。角はまだ小さい。十歳前後だろうと思った。靴の片方が壊れていた。足が濡れていた。目だけが俺を見た。警戒している目だった。
二人の間に、会話の痕跡がなかった。
隣り合っているが、互いを無視している。互いの素性を知らないのか、知っていて無視しているのか、この段階では分からなかった。
俺は扉を閉めた。
入口から少し離れた場所に、腰を下ろした。老人からも、子どもからも、等距離の位置だった。
三者が、同じ廃屋の中にいた。
雨の音だけが、屋根を叩いていた。
しばらく、誰も動かなかった。
老人は相変わらず、どこか遠い場所を見ていた。子どもは俺を見るのをやめて、今度は膝の上に視線を落としていた。
俺は二人を、順番に観察した。
老人の荷物は小さかった。辺境を一人で旅している。理由は分からない。子どもは一人でいる。親はいないのか、はぐれたのか、それも分からなかった。
観察しながら、自分が何をしているのかを確認した。
情報収集だ、と思った。
それだけのことだ、と思った。
そう思いながら、少し間があった。
今の俺は、城の執務室で報告書を読む立場にいない。嵐の中の廃屋に、ただいる。それだけだった。
風が強くなった。
壁の穴から、冷たい空気が入ってくる。子どもが身を縮めた。荷物を引き寄せた。荷物は布の袋一つだった。その袋から、何かを取り出した。
乾パンだった。
一つだけあった。
子どもはそれを見た。しばらく見ていた。
老人が動いた。
ゆっくりと、子どもの方を向いた。初めて、明確な動作をした。老人が、自分の荷物を開いた。
何も入っていなかった。
俺の方を向いた。
俺も首を横に振った。
老人は子どもから乾パンを受け取った。三つに割った。
綺麗には割れなかった。大きさも揃わなかった。
音だけが、廃屋に響いた。
一つを子どもに渡した。一つを俺に渡した。一つを自分の手に持った。
「食え」とも言わなかった。「恵んでやる」とも言わなかった。
誰も何も言わなかった。
俺は乾パンを受け取った。
受け取ってから、少しだけ止まった。
この老人は、俺が魔族だと分かっている。子どもも魔族だ。自分の荷物は空だった。それでも割った。理由を尋ねなかった。説明もしなかった。ただ、三つに割って渡した。
食べた。
硬かった。唾液を吸い込み、喉を通る時に摩擦があった。味はほとんどなかった。それでも食べた。腹が空いていた。
子どもも食べていた。小さな口で、少しずつ食べていた。老人も食べていた。ゆっくりと、時間をかけて食べていた。
三者が、同じ廃屋で、同じものを食べていた。
会話は一言もなかった。
夜になった。
雨は続いていた。強さは少し落ちていたが、止みそうにはなかった。
子どもが震え始めた。
老人が外套の端を広げた。子どもがその中に入った。それだけだった。しばらくして、子どもの呼吸が静かになった。
老人は壁に背を預けたまま、いつの間にか目を閉じていた。
俺だけが起きていた。
二人を見ていた。
何かを考えようとした。
うまくいかなかった。
ガルドの話を思い出した。人間を信じるな。血を塗った紙。三十年前の交渉。力の均衡だけが止められる。
その論理は、今夜の廃屋と、どう繋がるのか。
繋がらなかった。
あるいは、繋がっているのかもしれなかった。ガルドの妻も、どこかの廃屋で誰かと乾パンを割ったことがあったかもしれない。それでも殺された。乾パンを割ることと、殺されないことは、別の話だ。
答えは出なかった。
出ないまま、子どもを見ていた。
老人の外套の中で眠っている。小さな角が、薄暗い廃屋の中でかすかに見えた。
何かが胸の奥で動いた。
動いた、という言葉が正確かどうか分からない。ただ、何か起きた。
愛情ではなかった。
はっきりと、それだけは分かった。この子どもを愛しているわけではない。この老人を愛しているわけでもない。この二人を守りたいと思っているわけでもない。
しかし。
無視もできなかった。
この子どもが眠れている事実。老人が乾パンを三つに割った事実。それを無視することが、できなかった。
なぜできないのか、理由が出てこなかった。
愛せない。でもこの痛みだけは、無視できない。
その感覚だけが、かろうじて残った。
翌朝、雨が上がっていた。
老人が先に起きた。荷物をまとめた。出口に向かいながら、俺を一度だけ見た。何も言わなかった。出ていった。
子どもが次に起きた。老人が出ていったことを確認してから、立ち上がった。荷物を持った。出口に向かいながら、俺を見なかった。出ていった。
俺が最後に出た。
廃屋の外は、嵐が去った後の空気だった。冷たく、湿っていた。遠くの方角が明るくなり始めていた。
老人が歩いていくのが見えた。東の方向だった。
子どもが歩いていくのが見えた。南の方向だった。
俺は北へ向かった。城の方角だった。
三者が、別の方向へ去った。
名前を聞かなかった。名前を言わなかった。会話は一言もなかった。それでいい、と思った。それでいい、という言葉が正確かどうかは、分からなかった。
城に戻る道を歩きながら、昨夜のことを考えた。
乾パンを三つに割った老人の手を、頭の中で辿った。何も入っていない荷物を見せた。それから割った。計算ではなかった。説明もなかった。ただ、そうした。
それが何を意味するのか、言葉にならなかった。
言葉にならないままでいい、と思った。
言葉にした瞬間に、別のものになる気がした。
胸の奥の軋みを確認した。今朝は比較的静かだった。昨夜は何も使わなかった。ただ座って、食べて、見ていた。それだけだった。
右手を確認した。指を動かす。問題ない。もう一度。わずかに遅れる。
城が見えてきた頃、リオからの伝言を持った使いの者が来た。
「急ぎの報告があります。お戻りになり次第、すぐに」
俺は頷いた。
足を速めた。
愛せない。でもこの痛みだけは、無視できない。
その感覚が、まだ残っていた。残っていることを、確認した。確認して、歩き続けた。




